蝙蝠の求愛行動

灯りのない闇夜で会いましょう


眼前に聳え立つ星喰いの怪物は尚も結界の中に立っている。硝子の壁の中にいる様はまるで籠に捕まえられた虫のようだった。もうすぐで封印をしてから数時間経とうとしている。それはつまり、もう直ぐ怪物が封印から解き放たれることと同義だった。

「……さて、この体でどこまでやれるかな」

ミズノは薄く笑みを浮かべて怪物を見つめる。怪物を倒す策などほぼ無いに等しかった。何より、カーンの戦士、そしてカマソッソに痛手を負わせた攻撃に対する術すら、今の彼女は持ち合わせていない。どの道、チャクラは結界の展開とカマソッソへの譲渡で尽きかけている。こうして立っているのも不思議なくらいだった。彼女をこの場に立たせているのはひとえに、カーン王国の、そしてカマソッソへの想いだけだった。ミズノは服の下に忍ばせいたネックレスを取り出し、見つめる。カマソッソから貰った翡翠のネックレスは静かに緑の煌めきを発していた。死地に向かっている筈だというのに、その瞳はまるで愛しい者を見るような穏やかな物だった。

「立派なカーンの民か……」

最後に神官から言われた言葉が脳裏を過ぎる。最初は、認められないと思っていた。どんなに動いたところで自分は異分子だから、この国の人間じゃないから。でも不思議と、この国の人達は皆、とても心根が穏やかで優しい人達ばかりだった。異端である自分に、心を砕いてくれた。良くしてくれた。気にかけてくれた。何より、カマソッソの想いが、数え切れない程の親愛が、とても眩しかった。カーン王国で過ごした日々を、カマソッソと過ごした日々を追想していた彼女はふっと、柔和な笑みを浮かべる。そして、ネックレスから手を離し、胸元にずっと大事にしまっていた物を取り出した。それは横に一文字の傷が入った額当て。彼女はそれを懐かしく思い、そして額にぎゅっと締めた。伏せていた顔を上げる。目の前に聳え立つ怪物を見据える。その目は鋭く、固い決意に塗られていた。

「カーン王国が戦士、ミズノ。これより、貴様を討伐せんといざ、」

参る!そう口に叫んだ瞬間、硝子の障壁は砕け散り、無数の煌めきとなって散らばる。それとほぼ同時に、ミズノは櫓を強く踏み締め、高く飛び上がった。まるで弾丸のような速さで飛び、翔けていく。そして背中に携えていた刀を振り抜き、目の前に迫る凶刃へと振り被った。

――ガキィィィン!!

刃と刃がぶつかり合い、激しい火花を散らす。空中で回転し、体勢を立て直したミズノはそのまま、足元にある樹木を足場に再び力強く蹴り上げた。再度飛び上がった彼女は迫り来る二対の刃を躱し、その一つに渾身の一撃を叩き込む。そうすれば、辺りには高い金属音がけたたましく鳴り響いた。しかしそれでは足りぬと、彼女は次々と斬撃を繰り出す。

「おおおおおお!!」

体内に残っている灯火程度のチャクラを捻り、抽出し、力へと還元していく。腕に、刃の切っ先にその力を走らせ、体が息絶えるまで突き動かす。怪物の腕を足場に、ミズノは再び跳躍した。怪物は自らの周りを飛び跳ねる小さな虫を捉えようと、体から細長い銀色の管を伸ばし、辺りに黄緑色の蕾を咲かせる。そしてその蕾が咲き誇れば、忽ち爆発音が響き渡る。

「ぐっ……!」

それをすんでのところで躱していき、再び樹木の上へと体勢を屈めながら着地した。遠距離、中距離、近距離。全ての攻撃を仕掛けてくる怪物はかなり厄介で、ミズノのこめかみにつうと冷や汗が垂れる。

「忍を、舐めるなよッ!」

相手の隙を捉えるように、目を見開き、その眼で怪物を睨み付ける。そして再び跳躍した彼女は怪物の腕に斬撃を与えながら上へ上へと駆けて登っていく。ぶん、と怪物が腕を薙ぎ払うのと同時に、ミズノは高く跳躍した。辿り着くは怪物の頭部。人の顔のようなそれを見据えた彼女は腕を引き、己が愛刀を横に構えた。

「はあッ!!」

一点を狙った鋭い一閃が彼女から繰り出される。その場に何かが割れる甲高い音が響いた。
しかし、ミズノの攻撃はそこで終わりではなかった。刃が突き刺さらない程頑強ならば、その分、打撃を叩き込めばいい。そう思い至った思考は攻撃の手を緩めない。一撃を放った場所に重点的に次々と攻撃を繰り出していく。ミズノが再び刀を振り被る。その刀身にはぱち、ぱちと青白い光が小さな稲妻ように瞬いた。

「く、ら……えッ!」

振りかざした刃と共に閃光が瞬く。手に走るは確かな手応え。斬撃と共に電撃を食らわした箇所は黒く煤けており、ぱちぱちと小さな火花が散っていた。怪物はミズノを捉えようとした形のまま動きを停止させる。そのまま彼女は近場の樹木の上に降り立つと、急ぎ敵の行動を把握するために仰ぎ見た。暗闇に包まれる中で静寂がその場を満たす。ばち、ばち、と小さく爆ぜる音を微かに耳が拾うも、怪物は微動だにしない。やったのかと、ミズノの頭に言葉が浮かぶ。しかしミズノの期待は大きく外れる。ぎし、ぎしと音を立てながら、怪物は鋼に輝く両腕を微かにゆっくりと動かした。やはりまだ倒せていないのかと、ミズノは握ったままの刀に力込める。

――刹那。きらきらと、淡く怪物の両腕と両肩が仄かに光り始める。その煌めきはカーンの戦士達、ひいてはミズノの強化を引き剥がしたあの瞬きだった。

――やばい、来るッ!

瞬時に判断したミズノはその場から離れようと飛び退がる。しかし、小さな獲物すら逃しはしないと、彼女よりも速く怪物はその煌めきを発した。その場に青白く、神秘的な輝きが満ちる。それはまさに、絶望的な耀きだった。眩く、強い光輝にミズノの目が眩む。瞬間、体からがくりと力が抜けるのを感じた。まるで残されていた力を根こそぎ奪い取るような光に、悔しいことに彼女は手も足も出なかった。空中で体勢が崩れ落ちる。何とか持ち直そうと、彼女は体に力を入れた。絶対に、ここで負ける訳にはいかない。その想いで残り火にすら満たない力を体に巡らせる。

しかし、怪物にとって彼女の想いなど知る故もなかった。

怪物の体躯から細く、剣のように尖った鋼が駆け抜けるように彼女の体に伸びる。そしてその切っ先はそのままミズノの脇腹を貫いた。宙に鮮血が舞う。忽ち、彼女の左半身が脇腹を中心にかっと熱く燃え上がる。全身を逆流するように血液は燃え上がり、次いで鋭い激痛が走った。

「ぐ、うぅッ……!」

脇腹だけでは無い。刀を持った腕、地を蹴るための足にすらその切っ先は伸び、大きな傷を追わせていく。身体中を駆け巡る痛みに奥歯をぐっと噛み締めた。彼女に伸ばされた鋼は膨張し、大きな果実を実らせる。それは死への誘いだった。そしてその果実は黄緑色に煌めき、膨れ上がり、閃光を伴って弾け飛ぶ。怪物から伸びた鋼は小規模な爆発を繰り返した。近くで鳴る爆発音に、鼓膜の奥がじんじんと痛む。全身に凄まじい激痛が走る。まるで火に炙られているような心地だった。

爆発が収まると、そこには黒く煤けたミズノが体を真っ逆さまにして空中から落ちていた。チャクラ切れに加えて直接受けた怪物からの攻撃に、彼女の体は瀕死の状態だった。辛うじて残っている意識で、自分の体が真っ逆さまに落ちている感覚が皮膚を通して伝わってくる。このまま頭を打ったら死ぬな、そうぼんやりと思考が過ぎった。

微々たる力で体を丸める。咄嗟の判断が効いたのか、それとも運が良かったのか、彼女の体は樹木にそのまま突っ込んだ。沢山の枝にぶつかり、そして傷を負いながら落ちていく。どすっ。重い物が地面に勢い良く落ちる音がその場に響いた。

「……ッ」

脇腹の傷は思いの外深く、苦痛でミズノの顔が歪んだ。辛うじて息を吸い、まるで鉛のように重い瞼を持ち上げる。視線の先は不意に感じた違和感の元である指先に向けられた。

「……な、に…?」

吐き出した空気は宙へと溶け、何が?という言葉は最後まで口から出ることは叶わなかった。目を向けた先、指先は翡翠の色に染まり、闇夜の中で小さく輝きを放っていた。その色はじわじわとゆっくりだが、しかし確実に中心へと伸びてくる。翡翠の結晶になっているのだと、冷静な頭の片隅でそう思考が至った。どういう原理かは分からない。もしかしたら怪物の能力なのかもしれない。迫り来る緑の輝きはその煌めきに反し、未知の恐怖を携えていた。

ずしん、と何かを引き摺る音が聞こえる。頭を持ち上げ、ミズノは目線を上へと向けた。視界には、白銀の体躯を光らせた星喰いの怪物が聳え立っていた。全力を出しても立ち向かえなかった強敵。その絶大さに、圧倒さに、底知れなさに、絶望という感情が鎌首をもたげる。ひたひたと忍び寄る負の感情は心にぽたりと暗い感情をもたらす。ミズノの胸に去来したのは悔しさと、やり切れなさと、罪悪感だった。

ごめんと、音なき言葉でそう口にする。彼女とて自分の命の終わりくらい分かっていた。カーン王国の民達の仇を取れなかったこと、カマソッソと共に戦えないこと、彼を一人残すこと。そして傍にいることが出来ないこと。ただただ、それだけが悔しかった。それだけが辛かった。出来ることなら彼と一緒に戦い、少しでも彼の助けになりたかった。傍にいるという約束を破ってしまうことに、翡翠色に染まった胸が小さく痛んだ。

「ご、めん、ね……カマ、ソ、ソ……」

呼吸をすることさえ苦しい中、息も絶え絶えにそう呟く。カマソッソから貰ったネックレスと同じ色に体が染まっていく。同じ色だというのに、同じ見た目だというのに、その緑に温かみは感じず、冷たい感触がひたひたと肌を覆った。

そうして、彼女が完全に瞼を閉じる間際。ミズノはその耳で最期に声が聞こえた。それはまるで哀しい声で咆哮を上げる獣のような声で。そしてその声を聞いた彼女はふっと口角を緩く持ち上げ、そして遂には完全に瞼を閉ざしたのだった。


【補足情報】
23/08/26
prev next
back
- ナノ -