「ええ、そこに置いておくれ」
荷物を庭先に置き、額に流れる汗を拭う。遠くから聞こえる子供のはしゃぐ声、露店の呼び込み、行き交う人々の話し声。賑やかな声が溢れ返る街を一瞥したミズノは、老齢の女性ににこやかに笑いかけた。
「では私は行きますので、また何かあったら頼ってください」
「助かるよお、ミズノちゃん。ありがとうねえ」
ゆったりと、礼を述べた女性は「ああ、そうだ」と言い、懐から小さな、片手に収まる大きさの包みを取り出す。
「はい、これ。良かったら食べて」
「いえそんな!勤務中ですので…!」
「それなら、終わった後に食べて頂戴な」
パチン、とお茶目にウインクをしてみせる女性を、ミズノは呆気に取られたように見つめる。そして直ぐにクスクスと笑みを零し、女性の手を包むようにしてぎゅっと握り、彼女はゆるりと頬を持ち上げてお礼を述べた。
女性に手を振りながら民家を後にするミズノは、仲間との待ち合わせ場所へと駆けていく。その表情は街の雰囲気につられるかのように、カーン王国の空とは正反対の、とても晴れ晴れとしたものだった。
カーンの戦士たちと和解を果たしたミズノはその後、徐々に戦士たちとの雑談を交える機会や王国外の任務が増え、今では市街の巡回にも駆り出されるようになっていた。
当初、仲間と呼べるようになった同僚たちに引っ張られながらカーンの民に挨拶する彼女は、拒絶されるかもしれないという不安を抱えていた。
それは自分の容姿がこの国の者たちと掛け離れていたからだ。
しかし、彼女の不安など他所に、全てではないもののカーンの民たちは快く彼女を迎え入れた。
元々、巡回に駆り出される戦士は王――カマソッソからの信頼が高くなければ選ばれない。それはつまり、彼女がこのカーン王国にとって信頼に足る人物である証左でもあった。何より、カーンの民たちもまた、人を見る目があったのだろう。熱心に民のために責務を果たす彼女を見て、自然と彼らはミズノを受け入れていったのだった。
同僚との合流場所に着いたミズノは待たせていた相手を見遣る。本日の巡回仲間は、あの時助けたカーンの戦士であった。今ではよく話す同僚へと変わった彼を、不思議なこともあるものだと思いながら見つめる。そうすれば、目の合った彼は片手を上げながら声をかけてきた。
「よっ、おばあさんとこの手伝いは終わったのか?」
「はい、もしかして待たせてしまいましたか?」
「いんや、俺もついさっき終わったところだ」
男の方も住民の手伝いをしていたのか、2人は言葉を交えながら巡回を再開させる。
ここカーン王国ではあまり窃盗や暴動などは起こらず、巡回の目的はあくまでも困っている住民の手助けや、時々侵入する害獣の駆除だった。類を見ないほど穏やかで平和な国に、ミズノは自然と頬が緩む。
カーン王国の街並みは以前――彼女がいた時とさほど変わってはいなかった。少しお店が増えたり、前に見かけた人が多少老けている程度。それは国が安定している証拠だった。
だが、ほんの少しだけ変わったこともある。
「……そういえば、ここ最近なんだか賑やかですよね」
街を彩るように、街灯の灯りを反射させ控えめにキラキラと輝きを放つ装飾たちが目に入り、ミズノはここのところ疑問に思っていたことを口にする。そして、視界の端に映った一際賑やかな人集りに自然と目を向けた。微かに聞こえる楽しげな曲と、何かに熱狂するように時折聞こえてくる口笛。前にいた時は見なかった光景に首を傾げずにはいられなかった。
「ああ、あそこは踊り子が舞を披露するステージなんだよ」
「舞…、ですか」
返ってきた答えに、ミズノはもう一度集団に視線を向ける。人垣の隙間から見えたのは、陽光の中で揺れる花のような、赤や緑、ピンクに黄色と色鮮やかで煌びやかな衣装。辛うじて見えた顔は、遠目に見ても分かるほど整っているのが分かった。
美しい衣装を身に纏い、まるで水が流れる様に踊る美女たち。てっきりサンバの様な踊りを勝手に想像していたミズノは内心驚き、少しだけ恥ずかしかった。
「何だ?もしかして気になるのか?」
仲間の言葉に、ミズノはそっと、その人集りから視線を外す。
「んー、少しだけですよ。それに今は勤務中ですし」
「だな。んじゃ、さっさと残りの区も回るぞ」
肩を竦めて言う彼女に、男も同じように返す。
そして再び街並みに視線を移したミズノの脳裏には、先程見た光景と投げ掛けられた言葉がチラついていた。
「気になるのか?」という問。
その答えは、「分からない」だった。
何故なら。忍びとして生き、血生臭い自分にとって、任務以外で着飾ることなど考えたこともなかったからだ。ましてや、必要ないとさえ思っていた。
だからだろうか。ミズノにとって、美しく、絢爛な彼女たちは太陽の様に眩しく、どこか遠い存在のように見えたのだった。
その後、巡回を終わらせた2人は演習場に戻り戦士長に任務の報告をした。後で報告書を書くように指示を受け、さあ帰ろうかと思った矢先。1人の男が近付いてくる。見慣れぬ人物に訝しげな視線を向けるミズノは、そこではたと気付いた。以前一度だけ足を踏み入れた玉座の間で、その男を見掛けたのだと。
「初めまして、ミズノ様。カマソッソ様より言伝を預かっております」
「言伝…、ですか」
「はい。
淡々とそれだけ伝えた男は一礼すると、さっと踵を返し、ミズノには目もくれず演習場を後にする。自分の返答も聞かず神殿内に消えていった男に、せめて返答ぐらい聞けよとミズノは内心顔を顰めた。拒否権のない誘いに悶々としていれば、隣から感じる嫌な視線。彼女は煩わしそうに相手を見遣った。
「なんだなんだ?何かやらかしたのか?」
「違います」
案の定、ニヤニヤとした笑みを浮かべて肘で突いてくる同僚に、ミズノはジト目を向ける。
「冗談だよ、とりあえずまあ頑張れや」
ケラケラと他人事のように笑った男は励ますように肩をポンと叩き、手をヒラヒラと振ってその場を後にした。1人取り残されたミズノは溜め息を吐き、明日の訓練を休むことを報告しなければと戦士長の所へと足を向けたのだった。
戦士長へ報告を済ませ、寄宿舎に戻ってきたミズノはおばあさんから貰った包みを机に広げていた。中身はカーン王国で親しまれているトウモロコシのビスケット。しかし、ビスケットを食べている横顔はティータイムという言葉など似合わないほど、何か物思いに耽っている様子だった。
ビスケットを食べながら考えるのは自分に言伝を寄越した相手――カマソッソのことだった。ミズノが彼と最後に会ったのは医務室で、それ以降は1回も会っていない。自分の状況は戦士長や付けているだろう監視から把握している筈。それなのに一体、何の用なのか。
ミズノは頭を巡らせすものの、結局答えは分からなかった。
それどころか、彼女はここである事に気付く。
自分は『今の』カマソッソについて何一つ知らないのだと。
いや、正確には、人伝いにしか知り得ていなかったのだ。カーンの戦士たちからそれとなく聞き出せば、彼らはカマソッソを褒め称えた。住民たちも皆そうだった。
彼の強さは歴代一。カマソッソが王に就いてから更に科学が発展した。優しく、民想いで、常にこの国のことを考えてくれる思慮深き王である……。それが、彼らが教えてくれた事だった。
この国の民から好かれているカマソッソを知れば知るほど、ミズノの脳裏にはあの時、あの訓練場跡で共に時間を過ごした少年のカマソッソが過ぎる。そして同時に思い出すのは、医務室で自分の知らない表情を浮かべた彼。
――何だか、遠い所に行ってしまったな。
そう想いを馳せながら1口、ビスケットを齧る。自分の気持ちとは裏腹に、口内に広がる優しい味。ミズノは深く溜め息を吐かずにはいられなかったのだった。
次の日、気持ちを切り替えるように部屋を出た彼女は、言伝を伝えに来た男に案内され玉座の間に向かっていた。
「王は貴方に対して寛大ですが、呉々も。御無礼などないように」
「…承知しています」
そうして辿り着いた玉座の間には、あの時と変わらぬ場所に座るカマソッソとその横に立つ神官、そして見覚えのある人物たちが周りに並んでいた。カマソッソの正面に立ったミズノは、チラリと横目で並んでいる人物たちに視線を移す。恐らく、彼らは臣下に当たるのだろうと検討をつけて顔を盗み見れば、彼らは一様にして眉間に皺を寄せていた。
「凶星かもしれぬ部外者がどの面を下げて王の目前に立つのか」
「しかし話に拠れば、大層民たちからは気に入られている様子。吉星であるやもしれぬぞ」
「いや、きっと何か企んでいるのに違いない」
ヒソヒソと交わされる自分を中傷する内容に、内心でくだらないと一蹴していれば、神官から静粛にするように声がかかる。まるで水でも打ったかのように、ピタリと雑音は消えた。
「評判は戦士長より聞いている。見事な働きぶりだ」
玉座の間に響く耳馴染みの良い声を懐かしいと思う程、ミズノがカマソッソとこうして言葉を交わすのは久しぶりだった。
「恐悦至極でございます。それで本日はどういったご要件ですか?」
「まあそう焦るな。オレとて旧知の人間の顔くらい見たくなる」
「は、はあ……」
冗談なのか本気なのか、どう捉えればよいのか分からず、ミズノは困惑した。
「だが、時間が惜しいのも事実だ。今からお前には研究施設へ伴に来ることを命じる」
『研究施設』という聞き慣れぬ単語にミズノが眉根を寄せれば、横で黙って聞いていた臣下が急にざわつき始める。異例の事態なのか、その内の1人が切迫した声を出した。
「た、確かに此奴のここ最近の働きには目を見張りますが、この国の神秘を明かしても良いのですか!?」
臣下の口振りから、『研究施設』ではこの国で扱っている神秘的な術を解析・開発しているのだろうと予想をつけたミズノは、そりゃ臣下も反論するだろうと達観していた。神秘とはつまり、この国の秘密――秘匿情報だ。忍でいうなら一族相伝の門外不出の術。確かに、それを部外者に教える事に反抗もするだろうと。
一体全体、どういう意図があってこの国の秘匿を明かすのか。カマソッソを見れば彼はニヤリと見慣れたあの笑みを浮かべる。それにミズノは思わず嫌な予感を覚えた。
「神秘なら此奴も扱える。そうであろう?」
思わず、は?と喉から出そうになるのを寸でで止める。
「でなければ再びこの国に現れることなど出来ぬ」
カマソッソの余りな言い分に、ミズノは頭が痛くなりそうだった。確かに彼女はカマソッソが言った通り、神秘に似た術――忍術を扱える。しかし実際は似ている様に見えて毛色が全く異なる。そもそも理論や構築、理が違うのだ。お門違いも甚だしい。
ミズノがどう断るか頭を悩ませていれば、臣下たちがまた別の意味でざわつき始めた。
「確かに、奴があの時現れたという状況は転移の術に近かった…」
「では、もしや現在行っている毒への対策や強化の術式の発展も成功するのではないか?」
「そうなれば凶星の被害を防げるやもしれん」
初めとは打って代わり、何故か乗り気になっている臣下たちに、流石にミズノはギョッとした。
――不味い、このままでは勘違いされたままになってしまう。
そう思い、カマソッソの言葉を否定しようと口を開こうとすれば、まるでそれを許さないというかのようにカマソッソは言葉を被せた。
「ならば決定だ!護衛としてそこの戦士も着いてこい」
僅かな隙も見せずに決まった研究施設の視察。結局、否認することも勘違いを正すことも出来なかったミズノは肩を落とし、心の内で大きな溜め息を吐いた。向かっている道中に話すしかない。そう結論付けた彼女はこの後どう説明するかと人知れず頭を悩ますのだった。
カーン王国の外れに位置するという研究施設に、カマソッソとミズノ、そして遣いの戦士の3人組は徒歩で向かっていた。最初は王の斜め後ろを歩こうとしていたミズノだったが、「お前にはオレの護衛も兼ねさせている」と言われ、彼女は渋々とカマソッソの隣を歩くことになったのだ。
道は整備されているのか、害獣が出る気配はとんとしない。加えて、一緒に付いてきた戦士は終始無言を貫いていた。
そろそろ頃合だろうかと考えたミズノは隣へと視線を向ける。あの頃と違い、自分よりも遥かに高くなった身長と、服の上からでも分かる逞しい肉体。自分が消えてからそれだけの月日が流れていることを、感じずにはいられなかった。
「あの、勘違いなされているようですが、私にはこの国の神秘といわれる術は使えません。なので、お役には立てないと思います」
カマソッソを仰ぎ見るようにして言えば、一瞬だけ合う視線。しかし、カマソッソは直ぐに視線を正面へと戻した。
「いや、お前にはその才がある」
「何を根拠に――」
「お前の回復術だ」
何を根拠に言うのかと。そう問い詰めば、カマソッソは毅然と答えた。
「前に1度、オレに使ったことがあるだろう」
それは昔――カマソッソが少年だった時。稽古の際に出来た傷をミズノはその場で治してみせたのだ。だがそれは医療忍術であり、この国でいう神秘の術ではない。
「確かにありますが、あれは私の世界の術です」
「だからだ。回復術も根本的には相手に付与する術。お前の世界とオレの世界が異なっていようともその根幹、考えは多少なりとも応用が利くだろう。」
カマソッソの一切の迷いも、疑問もなく、確信に満ちた真っ直ぐな目に、ミズノは否定の言葉が言えなくなる。何故そこまで信頼出来るのか、それがミズノには分からなかった。
「……だからってあんな出任せ言いますか」
漸く返せた負け惜しみのような言葉。それを聞いたカマソッソはふっと、空気がもれる様な笑みをこぼす。
――ああ、まただ。また私の知らない顔だ。
見たこともない表情に、心が少し狼狽えた。
「それに、お前にはこの国についてもっと知って欲しいと思ったまでだ」
柔らかい笑みから一転。厳しい目付きでそう言うカマソッソに、ミズノはその言葉に含まれている真意を探ろうとする。
彼は私に何を伝えようとしているのか。唯一引っかかることがあるとすれば、それは先程、玉座の間で聞いた2つの言葉――『吉星』と『凶星』だ。ミズノは最初、自分のことを凶星と呼んでいるのかと思っていた。しかし、その後の言葉でどうやら凶星に当たるモノは他にもいるのだと気付いたのだ。『凶星』は古くから災いや争いをもたらすと云われている。つまり、このカーン王国に未曾有の危機が近付いているのではないだろうか。そうミズノは推測した。
「それは先程、臣下の方たちが言っていた吉星と凶星に関係があるのですか?」
ミズノの核心にも迫る問いかけに、カマソッソはチラリと彼女に視線を向ける。そして口端に、薄く笑みを浮かべた。
「相変わらず勘の鋭い奴だ」
「私の長所ですので」
フンと鼻を鳴らしたカマソッソは数秒の後、まるで物語を語り継ぐかのように淡々と事の顛末を話していった。
それはカーン王国設立時に凶星が観測され続けていること。その報せを元に王は代々、対策を施し、国を発展させてきたこと。その凶星が、このミクトランの奥底に眠る『星喰いの怪物』であること。そしてつい最近の観測で、凶星とは別に新たに吉星が観測されたこと――。
「凶星である星喰いの怪物の異変と、同じタイミングで現れたお前。同時期に現れたお前が吉星なのではないかとオレは思っている」
『星喰いの怪物』。カマソッソが話した内容を聞き、ミズノはあることを推察した。何故、自分が再びこのミクトランに、このタイミングで呼ばれたかだ。それは今回の救済対象がカーン王国であることを指しているのではないだろうか。ミズノはカマソッソを見上げ、想い至る。きっと、自分が命を掛けることになるのはこの人なのかもしれない、と。
そう思いながら見つめるミズノの視線に気付いたカマソッソは、眉根を寄せた。何がとは言えないが、その視線を嫌だと思ったのだ。ピタリと止まる足。必然的に、ミズノの足も止まった。
「何だ?」
カマソッソはどこか感じる胸騒ぎを押し殺すように短く問い掛ける。
「いえ、その話を聞いたら流石に余所者面は出来ないなと。何が貴方がたの役に立つかは分かりませんが、協力させて下さい」
――例え、この命に代えても。
ミズノの言葉と、まるで力強く、何かを決意したような目にカマソッソは思わず息を呑む。そしてその瞬間、何故だか彼は、小さい頃に彼女から聞いた話を思い出した。それは彼女が世界を救っては消える漂流者であるという話。
いや、考えすぎか…、と気を持ち直し、その考えも、胸に蔓延る胸騒ぎも、全て蹴散らすように鼻で笑った。
「ふん、カーンの戦士を見くびるな。元より、お前にはサポートに徹して貰うつもりだ。呉々も、出過ぎた真似はするなよ」
そんな事などあってはならないと。カマソッソは何処か切なく、切実な目でミズノを見遣る。その視線の意味が分からず、何よりも違和感を覚えたミズノはその意図を聞こうと口を開く。
「――御二方とも、そろそろ研究所に着きますよ」
しかし、ミズノが口を開くことは叶わなかった。自然と口を閉じた2人は遣いの戦士に促されるように再び歩みを進める。結局、カマソッソの言葉の真意も、その視線も。ミズノは知り得ることが出来なかった。
3人の眼前に姿を見せる研究施設。辿り着いたミズノは、思わず、内心驚愕していた。明らかに現代のソレを彷彿とさせる見た目に、心が踊らない訳がなかった。そしてそれは傍にいるカマソッソには筒抜けなのだろう。傍目で見ても、明らかにテンションが上がっているミズノに、カマソッソはやっぱり連れてきて良かったと、ひっそりと満足していた。
3人が施設内に足を踏み入れれば、開発部門の総元締めである白衣を着た男が3人を出迎えた。
「本日は遠い所よりご来所頂き、感謝致します。
ぺこり、と恭しく一礼する男に合わせてミズノも会釈をする。カマソッソは気にするな、とでも言うように「ああ」と短く答えた。
「それでは、施設内の案内と現在取り掛かっている研究の進捗をお見せ致します」
男を先頭に、3人は施設内を見て回る。そして案内された場所は、どれも現代と遜色ない、むしろ現代よりも発達し、まるでSFなどに出てくる様な設備だった。男以外にも白衣を着た人間が忙しくなく動き回っている。開発段階の最新武具に、その武具の耐久性や威力を測る実験場に備品庫。
色々な場所を案内された3人は、とある場所に連れてこられた。厳重に鍵をかけられた扉の向こう。その部屋には所狭しと飾られた沢山の分厚い本と、何かを殴り書いたかのような紙が床に散乱していた。そして、あーでもないこーでもないと話し合う研究員と、彼らの目の前にあるガラス張りの一画。ガラス張りの中で浮かび上がる複雑な見た目の紋様に、キラキラと雫の様に湧き出る光。まるで魔法の様なそれに、ミズノは一目でそれが、この国の神秘の術なのだと分かった。
慣れたように進む男に付いていくように、床の紙を踏まないように歩けば1つの机に案内される。3人を見回すように、男は部屋の一画を見ながら紹介した。
「こちらは主に、術式を開発している場所となります。担当している術式によって部屋は別れており、ここは主に強化系を扱っています」
そう説明をした男は3人の目の前に一枚の紙切れを差し出す。その紙切れには複雑な数式と、記号や円などを組み合わせた紋様が書かれていた。ミズノはまるで暗号のようだと思わずにはいられなかった。
「こちらが、現在取り込んでいる身体強化についての術式です。今までで一番高い効果が出そうなのですか上手く働かないのが現状でして……。それが改善されればすぐに実用化できるんですがね」
ははは、と乾いた笑いを零す男に合わせるように、ガラス張りの方からバチバチバチ!!と聞こえる音。そしてプツリと光が途切れれば、周りにいた研究員は「あー…」と落胆した声を出した。その落ち込み様から、どうやら失敗してしまったのだとミズノは察した。
「魔力の伝導効率はどうなっている?」
カマソッソが言った言葉に、ミズノはギョッとした。魔法が扱えるなんて聞いてないぞ、と。しかし、良く考えれば彼はこちらの施設にも指示を出しているのだ。分からない筈などないのである。寧ろこの場で分からないのはミズノだけであり、その事に気付いた彼女は疎外感を感じずにはいられなかった。
「伝導効率はこちらになっております」
見せられた別の紙はさっきの紋様が大きく書かれている物だった。どうやらメインの部分に当たるのだろう。ミズノにとったら何を書いているのかちんぷんかんぷんなソレ。しかし、ここに来て自分1人だけ何も分からないのは癪であった。彼女はダメ元で右目にチャクラを流し、その紋様を視てみる。そうすれば、1箇所。端の方で流れが滞ってる所があったのだ。まるで詰まっているかのように見えるソレ。もしかしてこれが原因なのではないだろうか、と彼女は思った。
「あの、ここ…、過剰になっていて詰まってるので、抑えてみてはどうでしょうか」
気になった場所を指し示せば、白衣の男は眉根を寄せた。
「ですがそれだと出力が――」
「とりあえずやってみてはどうだ。このままでは埒も明かぬだろう」
「まあ、カマソッソ様がそう仰るなら…」
カマソッソの言葉に渋々と頷いた男は、測定している研究員たちの所へと向かう。まさか助け舟を出してくれるとは思わず、ミズノはカマソッソを仰ぎ見た。パチリ、と合う視線。しかし、お礼を伝えるのが気恥しく思ったミズノは、視線を逸らす。カマソッソが何か言いかけた瞬間、部屋に研究員たちの雄叫びが響き渡る。急に聞こえた声に3人はビクリと肩を震わす。一体何が起きたのか。3人が視線を向ければ、背後のガラス張りの一画からは先程とは比べ物にならないほどの強い光が煌めいていた。
――まさか成功したのか?
歓声を上げる一団を見て把握したミズノはそろり、とカマソッソに視線を移す。
そうすれば、彼はどうだと言わんばかりに誇らしい表情を浮かべていた。
「お前にこのような才能があったとはなあ」
ニヤリ、と口端を持ち上げるカマソッソに、ミズノは肩を竦めてみせる。
「まぐれですよ、まぐれ。こっち関連の知識はありませんので」
謙遜でも何でもない事実を述べても、カマソッソはニヤニヤとした笑みを止めない。そしてミズノは何となく嫌な予感を感じた。
「そこは上手く周りがフォローするだろう。なあ?」
カマソッソが呼び掛けた方を見遣れば、そこには満面の笑みを浮かべて何故か興奮気味に近付いてくる
「ええ!ええ!!勿論ですとも!!」
カマソッソの言葉に同意を示すように、頻りに頷く彼はまるで奥で発光する術式の様に目を輝かせていた。そしてそれは彼だけではなく、周りにいた研究員もみな同じ形相を浮かべていた。
「是非ともここで働きませんか!?実はまだ試作段階の物もありまして!!」
そう鼻息荒く言う男の勢いに、ミズノは圧倒される。迫ってくる男から距離を取るように仰け反り、どう反応すれば良いのか困惑をしていると、
――ベリッッ!
と音でもする様に、カマソッソはミズノから男を引き剥がした。そしてトン、とミズノを受け止めるかのようにカマソッソの手が背中に触れる。
「そう興奮するな。こちらで段取りを取るから暫し待て。遅くとも明日には報せが来るだろう」
呆れたようにそうカマソッソが告げれば、少しは落ち着いたのか、男は元気よくにこにこと了承を示した。
そしてその後、残りの施設内の設備を見学した3人は
3人で歩く帰り道。施設が見えなくなった辺りで、ミズノは口を開いた。
「あの、カマソッソ様。先程はありがとうございました」
急に言われた言葉に、カマソッソは何の事だと暫し考え込むも、直ぐに合点がいく。礼の内容が男と自分の仲を仲裁してくれた事だと気付いたのだ。
「なんだそんな事か。気にするな。お前が珍しく狼狽えていたからな。だが、それならもう少し見ておけばよかったか」
「人が困っている所を楽しまないで下さい」
顎に手を当て、惜しいことをしたと言うカマソッソに、ミズノは目を吊上げる。
「そう怒るな、冗談だ」
ぽん、とミズノの頭に手を乗せ、目尻を下げ、優しい笑みを浮かべるカマソッソ。何か憎まれ口の1つや2つでも飛び出すのだろうと思っていれば、不思議と彼女は何も言わない。急に黙ったミズノが気になり、彼女の顔を覗き込めば――、
そこには口元に手を当て、顔どころか耳まで真っ赤に染まる女がいた。
ピシッ、と固まるカマソッソ。その顔はまるで鳩が豆鉄砲でも食らったかのような、予想外の物に触れた様な顔。
無言になる2人。
しかし、この沈黙は長くは続かなかった。
「ゴホンッ」
遣いの声に、はっ、と現実に戻る2人。お互い咳払いをし、まるで何事もなかったかのように2人は歩き始めた。
歩みを進めるカマソッソの頭に浮かぶのは、トマトの様に真っ赤に染まったミズノの顔。彼女と出会ってから初めて見た表情に、カマソッソは何とも言えない想いを持ち、少しばかり胸の辺りがモヤモヤとするを感じた。
対するミズノは、今まで自分が思っていたカマソッソと、今日のカマソッソの態度に困惑していた。端的に言うと、彼の気持ちが分からなかったのだ。
頭に残るカマソッソの手の温もり。それが余計に、ミズノの思考を奪うのだった。
23/04/10