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リュウガから雌島の話を聞いて数日たったあるのこと――
甲板の端に座る●●●は、両手で耳をぎゅっと塞いだ。
「もうやめてッッ!」
‥‥今も頭の中で、妙な声が聞こえている。
そこから少し離れた場所で胡座をかいたクルー達が、引かない釣糸を垂れている。
そんなクルーに気づかれないよう、端にひとり座る●●●は抱えた膝に顔を埋めた。
「ほんとに、もういやッッ!」
しかし声はやまないどころか、益々声を荒げてくる。
頭の中で聞こえる声は‥‥女の声。
誰か分からないこの声は、数日前から始まって。
最初は何を言っているのか聞き取れないほど
小さな小さな声だった。
しかしそれは、日ごと大きくなってきて
今でははっきり聞き取れる。
リュウガやみんなに無駄な心配をかけたくない。
その一心で今日まで
平常心を装ってきたけれど…
『―――だからお願い!あの島には行かないでッッ!』
その時大きく聞こえた声に
華奢な肩が、びくりと揺れた。
『あの島には行ってはダメッッ!』
何度となく、繰り返されるこの言葉。
あの島とはきっと、雌島の事だと思う。
しかし●●●は膝の間で、激しく首を横に振った。
「だから何度も言ってるの!そんな無茶を言わないで!」
声を荒げる●●●は以前ソウシに
ある話を聞いていたのだ。
それは随分、前のこと――――
†
医務室を手伝っている最中、不意にソウシは手を止めて●●●の方に顔を向けた。
「ねえ●●●ちゃん。海賊がもっとも恐れるもの。それがなにか分かるかい?」
いきなり飛んだソウシの問い。
●●●も同じく手を止める。
「それは、え………っと。海軍ですか?」
●●●はソウシの顔を伺う。
しかしソウシは首を横にふるりと振った。
「残念‥‥ハズレ」
「…………ぇ、」
目を剥く●●●をソウシは笑う。
ならばと、次の答えを言ってみた。
「じゃあ、奇襲ですか?」
リュウガは海賊王。
彼を狙う輩は多い。
それは、おちおち夜も眠れないほど。
しかしソウシは言ったそばから首を横にフルフル振った。
「残念ながら…それもハズレ」
唖然とすればソウシは笑う。
かと思うと、急に真面目な顔になって、ようやく答えを教えてくれた。
「海賊がもっとも恐れるもの、」
「はい」
「それは、人間の手ではどうにもならない天候と……あと1つ。
壊血病という病気なんだ‥」
壊血病。
初めて聞いた病名だった。
ソウシ曰く壊血病とは、長期の航海をする船乗りが
船での、粗悪で不自由な食生活により、発病する病気で
ビタミンCの不足が、原因らしい。
そしてその病気はその名の通り、発症したら最後。
体内のあらゆる器官から出血し、命を落とす
恐ろしい病気なんだという‥‥。
しかも、船乗りの多くがこの病気で命を落とすと聞き、●●●の背筋が凍りついたが
シリウス号にはナギが居る。
ナギの料理は美味しい上に徹底した栄養管理がされているから
こんな病気に縁はない。
この時ナギのありがたさを心の底から痛感したのを今でもはっきり覚えている。
それなのに―――
今の状況といえば
野菜が全て腐った今、
魚と干し肉ばかりで、ビタミン不足が否めない。
誰が倒れてもおかしくない状況に
寄港の延期は不可能なのだ。
「 ―――だから何度も言ってるように……っ、寄らないわけにはいかないのッッ!」
クルーの誰かが倒れたらっ!
●●●は奥歯をぎりりと噛む。
しかし声は「行ってはダメ」の1点張りで。
繰り返されるこの声に、頭が変になりそうだ。
「いったい私はどうすれば‥」
制御できない動揺と、ますます大きくなる声に、●●●は顔を両手で覆い、ぐったり身体を項垂れた。
†
「‥‥どうしたよ」
不意に背後で声がして、華奢な肩がビクリと揺れた。
条件反射で、後ろを振り向く。
すると、真上にあった太陽が、恐ろしいほどの光を放った。
「………………ッッッ!」
ギラギラ光る眩しい光りに、ほとんど目が、開けられない。
薄く開けた視界の隅に、誰かが歩いてくるのが見える。
「…………船長?船長なの?何が起きたの?」
目蓋の上に手をかざす。
しかし、光がすごくてよく見えない。
男性であろうシルエットが、白ける視界にぼんやり見える。
「‥‥●●●」
突如聞こえたその声に、咄嗟に後ろに退(しりぞ)いた。
リュウガじゃない
直感的に…そう思った。
「もうすぐお前に会えるな」
黒く大きな男性であろうシルエットがゆっくりこちらに歩いてくる。
「だれ?誰なの?船長なんでしょ?船長だと言ってッッ!!」
もはや、懇願に近い声で叫んだ。
しかし、光を背にして見下ろす顔は
影になって、よく見えない。
リュウガと違う金色の髪が、吹き抜ける潮風に
サラサラと揺れているのが分かる。
「この日をどんなに待ったことか、」
感慨深く言う声に、鼓動の重みが、どくっと増した。
知ってる声。
しかし、記憶を辿る頭の奥が
ぎりりと何かで締め付けられる。
「今でもお前を愛してる」
表情なんてまったく見えない。
なのに男が、優しく笑んでいるのが分かる。
その時。
座したままのしりぞく背中に船の壁が、とんと当たった。
「…………っ!」
顔を上げれば男は笑みを浮かべたままで
真っ直ぐこちらに歩いてくる。
「そこで止まって、お願いだから!」
●●●は腕を突き出した。
しかし男は歩みを止めない。
それどころか、向かいまできて膝をつくと大きく広げた太い腕が、●●●の身体を覆っていた。
「今度は―――――
二度とお前を離さない‥‥」
「……………いやっ!」
咄嗟に●●●はパチンと払った。
立ち上がろうとしたけれど
逆の手で、ぎゅっと手首を掴まれる。
「……ぁ、」
途端――
魔法かなにかにかかったように、意識がすぅっと遠退いて。
床に身体が倒れる寸前。
太い腕が抱き止めた。
「おいっ!」
身体を包む、太い腕。
耳に届く、聞きなれた声。
ゆっくり目蓋をあげてみる。
ぼやける視界に屈んだリュウガが、上から顔を覗いていた。
「大丈夫かお前‥‥?」
眩しかった太陽は、何故か元の日差しに戻り‥
見上げた空は晴天だ。
「何が起きたの?」
問うとリュウガは怪訝そうに片手で頭の後ろを掻いた。
「何が起きたの‥って、こっちが聞きてえところだが‥」
いきなり目の前で倒れやがって。
困ったように顔を見る。
ぼやける視野を●●●は左右に動かした。
「……金髪」
「あん?」
「金髪の人?」
動く視線を追うように、リュウガも後ろを振り返る。
「金髪っておまえ、ハヤテの事か?」
●●●は首を横に振る。
光を受けて輝く髪は、ハヤテより少し短くて
真っ直ぐな髪が風に揺れてて‥
しかし
そんな男は、どこにも居ない。
居るわけないのだ、この船に…
「お前、目ェ開けたまんま寝てたんじゃねえか?」
クルーが座したまま、心配そうにこっちを見ている。
「最近お前、うなされてばっかで、ろくすっぽ寝てねえだろ」
リュウガは息を吐き出した。
言われてみればそうだった。
ここ数日、悪夢ばかりを見て、何度も夜中に飛び起きる。
そしてそれは
決まっていつも、同じ夢ーー
自分を港に残したままで、シリウス号が出航する夢‥‥
どんなに待ってと叫んでみても、リュウガはこちらに振り向く事なく
シリウス号が、どんどん遠くに行っちゃう夢。
「行かないでッ!!」
弾けたように大きな胸にすがり付く。
驚くリュウガは、それでも優しく髪を撫でる。
「どこにもおれは行かねえよ。多分‥‥雌島の話を聞いたからだろ」
「‥‥うん、きっとそう」
●●●は胸にすがりつく。
穏やかな顔で見つめるリュウガは、胸に強く抱き寄せた。
「けど‥安心しろ」
聞こえた声に顔をあげる。
リュウガはニヤリと、口に薄い笑みを浮かべた。
「今夜からはおまえもぐっすり寝れるだろうよ、」
どうして?
問いかける●●●の前でリュウガは合図をするように
不意に上をツイと見た。
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