亡霊が思うには


 06

 茶封筒の中にはボールペン一本と白紙の用紙、それと小さなメモ用紙が入っていた。
 メモ用紙には仲吉の汚い字で『幽霊屋敷の場所書いといて 仲吉』と書かれていて、それを見た瞬間深い溜め息が口から漏れる。
 間違いない。仲吉がこの封筒を用意したのはこの間以心伝心したときよりも後だ。
 数日前の夜、仲吉と話した内容を思い出す。確かにあいつはここへ来るようなことを言っていた。しかしまさか、こんな堂々と手紙を寄越すとは思わなかった。警察に見つからなかったのだろうか。いや、もう俺の死体が見付かって結構経つし特に注意払われていないのかもしれない。
 藤也と行ったとき以来一度も谷には近付いてないからよく状況がわからない。
 花鶏は現場で見付けたと言っていたが、後で詳しく聞いておいた方がいいだろう。恐らく花鶏はまだ応接室で奈都といるはずだ。なにか奈都に話があると言っていたし、ちょっと戻ってみようか。
 なんて思いながら、地図を描くために用意されたらしい白紙をそのまま茶封筒に仕舞う。
 そして、側に座り込んだ南波が床に置いた紙袋の中に興味を示しているのに気付いた。

「……どうかしましたか?」

 ちらちらと紙袋に目を向ける南波にそう恐る恐る声をかければ、あからさまに南波の体がぎくりと反応する。慌てて紙袋から顔を逸らした南波は崩していた足を正座に直した。そして、沈黙。
 南波の挙動が怪しいのは特に珍しいことでもないので、敢えて俺は深く問い詰めないことにする。
 紙袋の中に入っていたいかにもなお供えものたちを床の上に並べていく俺。食べれるのだろうかとか賞味期限は大丈夫なのだろうかとかなんでぬいぐるみが入ってるんだとか思いながら、一旦紙袋を空にした俺はお供えものたちを見渡す。
 本当に色々なものが入っていた。
 ぬいぐるみの横に置いてある雑誌を手に取る。どこか既視感のあるその雑誌は、よく見れば仲吉が買っていたオカルト雑誌だ。つい最近発売されたらしいそれは、旅行した前日に見せられた雑誌の続刊のようだ。
 こんなもの俺に送り付けてどうするつもりなんだよ。相変わらずなにを考えているかわからない仲吉の行動に思わず苦笑を漏らしつつ、俺はそれをパラ見する。
 まさか死んでからこういったものを見る日が来るとは思わなかった。
 心霊写真特集ページのぼんやりと白いもやのようなものが写る画像を眺め、俺もこんな感じで見えているのだろうかと考える。
 そう言えば、この屋敷が写されいた心霊写真のあれは誰だったのだろうか。
 幸喜とかその辺だとは思うが、撮られた時期によっては俺の知らないやつというのもあるかもしれない。
 気にはなったがわざわざ確かめるようなことでもないと悟った俺は、雑誌のページを閉じた。そして、丁度甘酒が入った瓶に手を伸ばそうとしていた南波と目が合う。

「…………」
「…………」

 瓶に手を伸ばした状態のまま硬直する南波。
 さっきからやけに紙袋が気になっていると思ったら酒か。
 暫く見詰め合っていると、ようやく事を理解した南波の顔がみるみるうちに青く変色していく。ここまで苦手意識を全面に出されると一層清々しい。

「それ、南波さんにあげますよ」

 恐怖かなんかでぷるぷる小刻みに震え出す南波から顔を逸らしながら俺はそう再び雑誌を開いた。
 別に読みたい記事があったと言うわけではないが、目のやり場に困ったから開いただけだ。

「いっ……いいんすか」

 目を丸くした南波はそう喉奥から絞り出すように確認してくる。
 人目盗んで飲もうとしたくせに変なところで謙虚な南波に俺は「どうぞ」とだけ答えた。
 元々アルコールが得意ではないというのもあるが、やはり一番はこの体で飲食が出来るかどうかが気になった俺は雑誌に目を向けたまま南波の前に瓶カップを置く。つまり、実験だ。
 まあ一番は南波があまりにも物欲しそうな顔をしていたからだけど。

「……あざっす」

 おずおずと頭を下げる南波は、視線を泳がせながら目の前の瓶を手に取る。
 あれだけ欲しがっていたのに、俺の方から申し出れば気が引けてしまうようだ。
 どこか控え目な態度でその瓶を開ける南波を一瞥した俺は、雑誌を見るフリをして南波の様子をこっそり伺う。
 南波が瓶に口をつけようとしたそのとき、ふと隣の部屋から物音が聞こえた。
 もしかしたら奈都が部屋に戻ってきたのかもしれない。
 乾いた唇を舌で濡らした南波は瓶の縁に口をつけ、ゴクゴクと喉を鳴らし瓶の中に入った甘酒を一気に飲み干す。
 俺に遠慮して一口二口残しとくとかそんな思考を微塵も感じさせないようないい飲みっぷりだ。
 文字通り空になるまで甘酒を飲み干す南波は空になった瓶を床の上に置き、唇を手で拭った。

「もう一杯ありますよ」
「……いいんすか?」
「俺、酒飲めないんで」

 正確にはあまりいい思い出がないから飲みたくないだけなのだが、変に南波に気を遣わせないようにするにはこれが一番いいだろう。言いながら、俺は二本目の甘酒を南波に渡した。
 見る限り飲めるには飲めるようだ。アルコール接種によってそれが俺たちにどんな影響をもたらすか気になった。まあ、南波の酒の強さにも関係あるだろうが。
 嬉しさと困惑が混ざったような顔をして二本目の甘酒に手をつける南波。見た目が見た目だからか、よく酒類が似合う男だった。
 生憎、まだ甘酒は残っている。なんでこんなに甘酒が入っているのかわからなかったが、どうせ仲吉のことだ。家に余っていた酒を詰め込んできたのだろう。
 俺は南波に残りの甘酒を全て飲ませることにした。

 数分後。
 どうやらやり過ぎたようだ。床の上でふにゃふにゃになった南波を見下ろす俺は冷や汗を滲ませた。
 結論、幽霊にもアルコールは効く。取り敢えず、放置しとくか。床の上に転がった酒瓶を起こす俺。部屋に充満したアルコール臭にこちらまで酔いそうになる。
 そのときだ。

「……酒臭」

 開いた扉から声がして、何気なく目を向ければそこには眉を潜めた藤也がいた。
 開いた扉から部屋の中へ入ってくるなり藤也は床の上で寝転がってる南波を一瞥する。
 顔を赤くし、時折なにか意味不明な言葉を漏らす南波はどっからどう見ても酔っ払いだった。

「…………藤也」

 いきなり現れた双子の片割れの名前を呟く。
 脳裏には先程外庭側の林の中で見た血濡れた姿が浮かび、緊張からか自然と声が震えた。
 今の藤也には血飛沫一つ見当たらない。
 やはり、生きた人間相手にドッキリを仕掛けて遊んでいたのだろう。そう思いたい。

「なんか用?」

 座る俺の前までやってきた藤也はそうこちらを見下ろしたまま尋ねてきた。
 相変わらず素っ気ないその言葉の意味がわからず、思わず俺は「え?」と聞き返す。

「……さっき来てたじゃん。庭」

「なんか用あったんじゃないの」そう続ける藤也。
 庭では咄嗟に瞬間移動を使って逃げたが、やはり藤也に見付かっていたようだ。当たり前か。目が合ったのだから。

「……いや、奈都から人が来ているって聞いたから、気になって見に行っただけだ」

 わざわざ隠す必要もないだろうと判断した俺は、問い掛けられ素直に答えることにした。
 藤也の顔をまともに見られない。目が合うなり逃げ出した自分が恥ずかしくて気まずいのだろう。自分でもよくわからなかった。
 ただ、以前話したときと比にならないくらい緊張している自分がいた。

「……じゃあなんで逃げたの」
「…………」

 本当、こいつは単刀直入に聞いてくるな。
 顔を逸らす俺に対し、こちらをじっと見据えてくる藤也の言葉に俺はなにも言えなくなる。
『怖かったから』なんて言ったら笑われるだろうか。認めたくはなかったが、少なからず藤也相手に恐怖心を抱いたのは事実だった。ただのドッキリだとしたら、真に受けたことを馬鹿にされるだろう。
 しかし、ドッキリではなくあそこに寝ていた人間が死んでいて藤也の口の血はその人間のものであそこに出来ていた赤い水溜まりも全部本物だとしたら。

「……さっき、藤也お前なにやってたんだ」

 もしかしたら、聞かなかった方がいいのかもしれない。
 そう思ったが、確認せずにはいられなかった。
 答えがどうであれ、わからないまま恐怖心を勝手に抱き、疑心暗鬼になるなんて真似はしたくない。だから俺は素直に尋ねることにした。

「……さっき?」

 対する藤也は、まさか質問を質問で返されるとは思っていなかったようだ。
 キョトンと目を丸くして俺を見詰める。

「……庭で、誰か一緒にいなかったか?」

 そして、その誰かは死んでいてもしかしてお前はその死体を弄ってたんじゃないのか。
 藤也のようにストレートな物言いを出来ない俺は、あくまでオブラートに包んで問い掛けることにした。俺の言葉に、藤也は「ああ」と思い出したように続ける。

「あの登山者のこと?……なにって別にちょっと脅かしただけだけど」

 そう何でもないように続ける藤也は、服のポケットからなにかを取り出す。
「あげる」言いながら屈み、俺の手の中になにかを握らせてくる藤也。恐る恐る手を開けば、そこには袋に入った飴が入っていた。

「それ、貰ってきた」
「貰ってって……」
「まだあるけどいる?」

 言いながら、藤也はどこからか取り出したビニール袋を俺に投げ掛けてくる。中には弁当箱やおやつなどが入っており、俺は呆れたように目を丸くした。

「これ、盗ってきたのか」
「別に貰っただけ」
「いいのか?そんなこと……」
「いいよ。どうせあの調子じゃもう必要なさそうだし」

 そう淡々とした口調で続ける藤也の顔はあくまで平然としていて、その言葉の理解した俺は背筋に薄ら寒いものを感じた。
 食料が必要ないという藤也の言葉とあのとき見た地面の血溜まり。それらが頭の中で結び付き、不快感にも似た恐怖心が込み上げてくる。

「……どういう、意味だ」

 聞いちゃダメだ。もし答えが答えだったら、今度こそ本当に目の前の青年を軽蔑してしまいそうだ。だから、聞いちゃダメだ。
 そう自分に言い聞かせるが、もう遅かった。

「どうもこうもー足折れちゃったみたいで動けないっぽいからさあ、ほっといても死ぬじゃん?みたいな?あ!勘違いしないでよね、骨は俺らが折ったわけじゃないから!ちょっとわーって脅かしたらあいつ自分から転がり落ちて石にぶつかってんだもん」

 藤也とそっくりなその声はローテンションな藤也と対照的なテンションで饒舌に言葉を紡ぐ。
 一瞬藤也が喋っているのかと思ったが、そうではない。

「まじダサいよな」

 いつの間にか隣に座っていたもう一人の双子の片割れは、床の上に並べていた落雁のパッケージを雑に開けながらそう無邪気に笑う。
 音もなく現れたそいつに全身が硬直し、一瞬頭の中が真っ白になった。
 というかなんでこいつは勝手に人のお供えものを食おうとしているんだ。突っかかって下手に殺されたくないので敢えて見てみぬフリをする俺は藤也に目を向ける。

「……ほっといてもってことはその人、まだ生きてるんだよな」

 相変わらず不愉快極まりない幸喜だったが、嘘をついてるようには思えない。
 蠢く額の皮膚を手で押さえ、俺はそう二人に尋ねた。

「じゃないのー?死因なにになるんだろうな。あの様子じゃ傷口から黴菌が全身に回るとか有毒動物にがぶりっていかれちゃうとかかな。藤也、観察日記付けとかなきゃな!」
「普通に出血死だろ。あれじゃ」
「えー、つまんねーこと言うなよ。もっと夢持とうぜ!」

 まるで世間話をするかのような軽い口調で会話する二人に、俺は段々目の前のやつらが自分と同じ元人間に思えなくなる。

「……おい、まさか死ぬまでこのまま放っておくつもりかよ」

 気が付いたら、俺はそう絞り出すような声で尋ねていた。
 和気藹々と話していた双子は俺の言葉にピタリと動きを止める。そして幸喜は相変わらずの笑みを浮かべ、藤也は相変わらずの仏頂面のまま俺を見た。

「「当たり前じゃん」」

 そう二人の声が綺麗に重なった。
 まるで当たり前のように声を揃える二人に、一瞬自分が間違っているかのような感覚に陥る。

「もしかして準一、あっち系?命は大切にしないといけません!とか言っちゃうタイプ?」
「お節介」

 呆れたように硬直する俺からなにかを感じ取ったようだ。
 そう勝手なことを口々にする双子に、つい「違う」と否定の言葉を口にしそうになるが寸でのところでとどまる。

「……生きてるんだったら早く帰してやった方がいいだろ」

「ほら、この前みたいに」そう先日屋敷にやってきた人間を藤也と一緒に連れていったことを思い出す。
 そうだ、こいつらにはわざわざ崖の上まで連れていくような善意があるはずだ。
 一か八かでそう提案してみたが、双子の反応は冷ややかなものだった。

「準一ってさぁ結構偽善者臭いよねぇ」

 どこか冷たい目をしてそうにやにやと笑う幸喜は落雁を口に入れ、「うわ甘っ」と声を漏らす。
 勝手に干菓子を食べ始める幸喜。
 その言葉に俺は顔をしかめた。
 思ったことをそのまま口にしただけでそういう風に取られるなんて。自分を善人と言い切る自信もないが、だからと言ってこの返しは結構傷付いた。

「そんなに気になるなら準一さんが引っ張っていけばいい」

 そんな幸喜を横目で一瞥した藤也は相変わらず冷静な口調で続ける。
 そして、一息ついてから「俺は埋めた方が早いと思うけど」と付け足してきた。
 確かに、言い出したのは俺だ。まるで挑発でもするかのような二人の言葉に押し黙る俺は、自分の手の中にあるリードを見る。
 その先は床の上で寝転がってでろんでろんになった南波の首に繋がれていて、軽く引っ張ってみたが南波は動かない。
 引き連れるのも無理だし、繋がったままのこの状態では瞬間移動も使えない。
 一瞬躊躇ったが、幸喜たちの挑発を真に受けた俺はぐっと堪え、持っていたリードから手を離した。

「あっ、リード外しちゃいけないんだ!花鶏さんにチクってやろーっ」

 そして、俺が南波を解放したのを見て目を丸くした幸喜はむしゃむしゃと落雁を食べながらそう弾けたように声を上げる。
 あまりにも満面の笑みで指さしてくる幸喜に眉根を寄せた俺は「うっせえよ」と顔をしかめ、そのまま双子と酔っぱらいを残して部屋を出た。

「お人好し」

 ふと通路に出たとき、部屋の中から呆れたような藤也の声が聞こえる。
 好きなように言えよ、もう。半ばヤケになりつつ足早に部屋を離れた俺は双子が後を追ってくる前に、先ほど藤也たちを見掛けた外庭まで移動することにした。
 花鶏に説明してからの方がいいのだろうが、さっきの双子の話を聞いてて時間を無駄にすることはできなかった。
 目を閉じ、集中し、行きたい場所をイメージし、そこに自分がいるのを思い浮かべる。
 そして、目を開けばそこは陰った森の中で、俺は瞬間移動に成功したことに気付いた。

 先ほどよりも日が落ち、相変わらず虫の鳴き声が響く林の中。木陰を踏みながら俺は先ほど藤也たちがいたであろう場所を目指して歩く。
 やはり、南波を残してきたのは間違いだったかもしれないだとか、お供えもの漁らないように注意しとけばよかっただとか後悔をしながらも俺は足を進めた。

 怪我人を見つけ出すのには然程時間はかからなかった。
 先ほどと同じように地面の上に横たわった男の周りは赤黒い染みが滲み、それを見た瞬間ぞわりと全身の総毛が逆立つ。
 不自然な方向に折れ曲がったふくらはぎ、鼻をつく異臭、生きているのか死んでいるのかもわからない人間。
 死んでいるはずなら、俺のように別に幽体が出るはずじゃないのだろうか。
 なんて思いながら辺りを見回してみるがそれらしき影はない。
 と、その時、地面の上の男が呻き声を漏らす。
 ゆっくりと起き上がる男に内心びっくりしながら、俺は恐る恐る男の顔を確認した。
 全く見覚えのない顔だ。
 来客来客言うからもしかしたらと思っていたが、改めてそれが仲吉ではないことに気付きほっと息をつく。
 が、それも束の間。目の前で死にそうな人間がいるにも関わらずいつまでも安心することは出来ない。それに、仲吉だってこの山にまた近付いていることも事実だ。

 その男のことを藤也は登山者と言っていたが、どちらかと言えば旅行者といった身形だった。
 登山にしては軽装で、いかにも遊びに来ましたとでもいったような雰囲気だ。
 ふと目の前の男が数日前の自分と重なる。

 こちらは気付かれていないが、意識はまだ残っているようだ。
 折れた足を浮かせ、地面を這いずるように木の根本まで移動する男はそのまま幹を手摺代わりにしてゆっくりと立ち上がろうとする。
 動く度に音もなく滲む血液。男は苦しそうに呻きながらも、自力で立ち上がった。もし気絶していたらと思っていたが、意識ある人間に手を出してまた怪我をさせるような真似はしたくない。
 この場合は、どうしたらいいのだろうか。
 のそのそと歩き出す男に俺はヒヤヒヤしながら、ふと自室に置きっぱなしにしていたお供えものとこの旅行者の荷物を思い出す。
 怪我を直すことは出来なくても、食料にはなるだろう。でも、どうにか怪我の応急措置だけでもしなければ藤也の言った通り長くはもたないはずだ。
 サバイバル知識なんて欠片もない俺は、ふらふらと危うい足取りで歩き出す旅行者の後ろ姿を眺めたまま思考を働かせる。
 先に食料か。でもそれによって動物が誘き寄せられたらどうしよう。
 肝心なときに限って役に立たない自分の頭が腹立たしい。
 取り敢えず、幸喜たちが食べないように食料を確保して、この旅行者に渡す。
 口の中で呟きながら目を閉じた俺は先ほどまでいた自室を思い浮かべた。
 その後は……。
 そこまで考えて、ふと先ほどまで聞こえていた虫の鳴き声が消えた。
 同時に、俺は先日訪問者が訪れたとき、率先して元の場所へ帰そうとしていた人間を思い出す。
 ……花鶏だ。花鶏なら、まともなアドバイスをくれるかもしれない。どちらにせよ花鶏とは話す必要があるようだ。
 ゆっくりと目を開き、視界に現れた先ほどまでと大して変わらない自室内を見渡す。
 既に双子の姿はなく、そこには心配していた食料もろもろが放置されたままだった。
 南波は相変わらず放置されたままで、双子に嬲り殺しにされていないだろうかと心配していた俺は床の上ででろんでろんになっている南波の姿を確認し、ほっと息を吐く。それにしても飲ませ過ぎたかもしれない。
 酔いを醒ますにしても幽霊相手にどうしたらいいのかわからないし、取り敢えず酔っぱらい南波は保留にしておく。
 床の上に散らかったお供えものを紙袋に詰め込み、藤也が置きっぱなしにしていた旅行者の荷物を抱えた。
 そして気を集中させ、再び旅行者を見つけた外庭近隣の林に移動する。周囲の空気が変わったのを感じたとき、俺は移動する前に比べて自分の腕が軽くなっていることに気付いた。

 先ほど、瞬間移動をする前には確かに抱えて荷物が無くなっているのだ。
 先ほどと変わらぬスピードで足を引き摺るように歩く旅行者の影、俺は自分の手を見て慌てて自室に戻ることにする。

 もしかして、瞬間移動って荷物まではついてこないのか。
 肝心なところで役に立たないな。
 沸き立つ焦燥感に口の中で舌打ちをしながら自室へと戻ってきた俺は確かに抱えたはずの荷物が床の上に置きっぱなしになっているものを見て落胆する。
 瞬間移動が使えないんなら、走るしかないじゃないか。
 再び両腕に荷物を抱え、俺は足で扉を開き一階の玄関へ向かって駆け出した。

 瞬間移動を何度も使ったせいだろうか、酷い疲労感が全身を襲う。
 それに構わずひたすら廊下を走った。

 応接室前。
 そのまま玄関ロビーに繋がるY字階段を降りようとしたとき、ふと応接室の扉が開く。

「どうしたんですか、そんなに慌てて」

 背後からかけてくる聞き慣れた柔らかい声に俺は動きを止め、そのまま応接室を振り返った。花鶏だ。
 驚いたような顔をしてこちらを見てくる花鶏は、不思議そうに尋ねてくる。
 丁度いいところに。

「花鶏さん、相談したいことがあるんですがちょっと良いですか」
「私にですか?」
「まあ……。あの、急ぎなんで取り敢えずついて来てもらっても」

 そう尋ねれば花鶏は俺の手元を一瞥し、すぐに「構いませんよ」と微笑んだ。
 花鶏が話がわかるやつでよかった。内心ほっとしながら、俺は「こっちです」と言いながら花鶏を先ほどの旅行者のいる外庭まで連れていくことにする。


 屋敷外、外庭にて。
 走る俺に対し、ゆったりとした歩調を崩さない花鶏の背中を押すようにして先ほどの旅行者がいた林までやってくる。
 旅行者の姿が見当たらない。そうキョロキョロと見渡せば、すぐに旅行者を見付け出すことはできた。
 大きな樹の根本、そこにもたれ掛かるように座り込む旅行者は虫の息で、脂汗を滲ませ息苦しそうに喘いでいる。まだ気を失ってはいないようだが、この分ならそう長くは持たないだろう。
 健康的とは言い難い顔の色に、赤黒く濡れた服。
「花鶏さん、あの人です」そう花鶏に声をかけれは「おやおや」と花鶏は目を丸くした。

「これは大変ですね」
「どうにかして応急措置だけでもしたいんですが」
「応急措置したところであまり意味はないと思いますよ。一番てっとり早いのは外と連絡を取って救急車を呼ぶことでしょうね」
「でも……連絡なんて」
「そうですね。無理です」

 狼狽える俺に対し、花鶏はそう微笑んだまま静かに答える。
 そんなあっさり。

「他に助ける方法ないんでしょうか」

 なんとしても見殺しにしたくない俺はそう花鶏に迫る。
 別にこの旅行者に深い思い入れがあったわけではないが、やはりこのまま黙って死なせるのも後味が悪い。そんな俺に対し花鶏は小さく笑う。

「ありますよ」

 あるのかよ。
 先にそれを言えよと思わず突っ込みそうになりながらもぐっと堪えた俺は花鶏の言葉を待つ。

「一つ目は貴方が仲吉さんと連絡を取り、救急車を呼ばせる。二つ目はこの山を燃やし、人を集める」

「まあ、どちらもこの方の残りの体力に頼るしかありませんが」何でもないようにいつもの調子で続ける花鶏の言葉に、脳裏に仲吉のアホ面が浮かんだ。
 時間は迫っている。火を付ければどこまで被害が及ぶかわからないし、見付かったとしても救急車が遅れては意味がない。
 出来るだけならこんなこと普通に生きている仲吉に頼みたくないのだが、残された選択肢の中俺は迷わず仲吉と接触を取ることを選ぶ。
 またあのときのように都合よく以心伝心が発生するとは思わなかった。一か八か、大きな賭けだ。

「準一さん、一つだけご忠告させていただいてもいいでしょうか」

 不意に、花鶏に肩を掴まれる。
 思考を止め、俺は花鶏を見た。
 いつもの笑みが消えた花鶏の顔はどこか冷たい印象があり、こちらを見据える目は不安げな色を帯びている。

「精神力は体力同様底がないわけではありません。精神力しか持ち合わせていない我々の精神力が尽きたとき、即ち心身の死を意味します」

 花鶏がなにを言っているのかわからなかった。
 このタイミングになってそんなことを言い出す花鶏に、俺は少なからず狼狽える。そんな俺に構わず、花鶏は続けた。

「準一さん、あなたはここ数日で大分精神力を消耗しているようです」

「なにをするにも消耗は付き物ですが、以心伝心には通常よりも多くの力を使います。これ以上の負担となれば、あなたの身が持つかどうかがわかりません」どこか心配そうな顔をして、花鶏は続ける。
 体が死んで、心のみになった俺たちの死。心の死。
 まさか幽霊になってまで死云々を心配されるとは思わなかった。考えてもなかった。
 言われてみれば、瞬間移動を繰り返した後からの疲労感が酷い。恐らくあれが原因だったのかもしれない。
 花鶏の言葉を聞いて一瞬躊躇ったが、俺はすかさず「大丈夫です」と答えた。
 既に体が死んでいる俺か、両方生きているこの旅行者のどちらが大切かと言われても答えは決まっている。食糧が入った荷物を花鶏に預けた俺は、そのまま目を瞑った。

「……あまり無理はなさらないようお願いします」

 暗闇の中、溜め息混ざりの花鶏の声が聞こえる。
 諦めたような声。それと重なるように蝉の鳴き声が一層煩くなった。

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