短編


 吐き気を催す程の、

「いらねぇ」

 その声と同時に、コーヒーカップが飛んできたと思ったら中に並々と注いだ熱いコーヒーがぶっかかる。
 カップが直撃した頭部には鈍い痛みが走り、髪を濡らすコーヒーの香ばしい薫りが辺りに充満した。
 僕にコーヒーカップを投げ付けた本人を除き、周りにいた連中はいきなりの出来事に目を丸くさせる。それは、僕も同じで。

「つ……っ」

 滴る高温の液体に肌がひりつく。熱を堪えるように顔をしかめた僕はカップを投げ付けてきた張本人に目を向ける。
 広いテーブルに長い足を乗せ、高級感漂うソファーに腰をかけ深く背を沈ませたその男はただこちらを睨んだ。視線が、絡み合う。

「うっわぁ」
「会長、なにやって……」

 会長。生徒会会長。この学園に通う云百人の学生の中から選ばれた、たった一人の代表者。
 幾多の生徒たちの模範になる優秀な生徒。少なくとも、僕は『生徒会長』という役職はそういうものだと思っていた。過去形だ。
 今現在生徒たちの頂点に君臨する会長様に会うまでは。

「そいつが触ったものを口に出来るか」

 見詰められたら底冷えするような鋭い瞳、地を這うような低い声、薄い唇から溢れるのは他者を切り捨てる言葉のみ。伸ばした前髪からポタポタとコーヒーが滴り落ちる。
 そんな僕を一瞥した会長はソファーから立ち上がり、近くで硬直した総務に「後片付けしとけ」とだけ命令すれば、そのまま生徒会室を出ていこうとした。

「ちょ……」

 まるでなにかから逃げるように足早に生徒会室をあとにする会長を慌てて呼び止めようとする他の役員たちだが、本気で止めようとする者はいない。
 全員もう気付き、諦めているのだ。会長になにを言っても無駄だと。そして、思っているのだ。会長と一緒にいたくないと。
 証拠に、先ほどまで張り詰めていた生徒会室は会長がいなくなった途端糸が切れたように賑わいだした。

「大丈夫?熱くない?」

 ほっと安堵に胸を撫で下ろし、その場から動けずにいた僕の周りに役員たちが集まってくる。
 差し出されたタオルでコーヒーを拭いながら「僕は大丈夫だから」と微笑めば、役員たちもつられて安心したような顔をした。そして、僕の無事を確認した役員たちは次に会長に矛先を向ける。

「なんであんなんなんだろうね、うちの会長は」
「いくら成績優秀でも性格があれじゃな」
「あーあ、このカップ割れてんじゃん」

 各々好き勝手口にしながらも、テキパキと後片付けをしていく。
 僕らの生徒会長は嫌われものだ。容姿家柄学業運動その他もろもろ、大体の人間が欲しがるもの全てを持ち合わせた絵に描いたような人間だったが、唯一、性格が悪かった。
 会長が黒と言えば黒。反対意見は全て揉み消す。逆らう者は社会的に抹消という独裁主義者で全校生徒に恐れられる程の性格の悪さを誇る会長様だが、正直、僕は嫌いじゃなかった。
 口の悪さや尊大な態度はともかく何事も真面目に取り組む姿勢。味方が誰一人いなくなっても周りに媚びず、体勢を変えずに一人で突き進むその愚かさ。真っ直ぐだからこそ、ちょっとの衝撃でぽきりとへし折られそうな不安定感。孤独に慣れているからこそ、いざ人に受け入れられれば狼狽えるその不器用さ。それを、連中は知らない。
 だから、仕事の合間に会長が一息つけるよう注いだコーヒーに口もつけずぶち撒ける会長の行動もただの暴力としか映っていないのだろう。全ては不器用な会長の愛情の裏返しなのだ。連中はそれを理解しない。

「副会長も気にすんなよ」

 不意に、雑巾を手にした総務に声をかけられる。
 まあ、確かにせっかく僕のことを知ってもらおうと精子を混ぜたコーヒーを飲んで貰えなかったのは悲しい。
 やはり、入れすぎたのだろうか。今度からは少な目にして、少しずつ量を増やしていこう。でも、会長はブラックしか飲まないからなぁ。濁り過ぎたら飲まなそうだ。じゃあ直接飲ませた方が早いな。
 なんて思いながら僕は「ありがとう」と総務に笑いかけた。

 おしまい

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