短編


 狭間怜衣の失恋

「にいちゃん、佐鳥にいちゃ、好き、大好き……っんっ」
「怜衣君……っ、ごめんね、怜衣君……っ」
「なんで謝るの?……ぼく、悲しくないよ?にいちゃんと気持ちいいことするの大好きだよ」
「うぅ……っ」
「ぁっ、や、にいちゃっ、もっとゆっくり……ぃ……っ!」

 遠い日の記憶。まだ物心もついていないくらい、遠い遠い記憶。だけどそれはいつも鮮明に俺の記憶に蘇る。
 湿った空気。大きな兄ちゃんの手。声。無理矢理抉じ開けるように体内に入り込んでくる肉質。泣きそうな兄ちゃんの顔。
 そして、そんな兄ちゃんの泣き顔をみた俺は決まってその大きな背中にしがみつき「大好き」と譫言のように声を上げた。

 兄ちゃんにとってそれがどんなに思い出したくない記憶になろうとも、僕にとってはかけがいのないくらい大切な思い出だ。

 廻
 間
 怜
 衣
 の
失恋


 高校二年になり、今日俺は十七歳の誕生日を迎える。
 といっても特に有り難みもなにも感じなくなってしまった今、知人たちから貰えるプレゼントぐらいが楽しみになっていた。
 ……まあそれでも限度というものがあるだろうが。
 知人たちの他に同じ部活というだけだったり友達の友達みたいなあまり顔くらいしか知らない子たちからもプレゼントを貰ってしまい、結果大量のプレゼントを抱えて帰るはめになってしまった俺は小さく溜め息をつく。
 本来ならば喜ばしいことなのだろうが、やはり、いくらものを貰おうが本当にほしい人からもらえないとガックリとくる。
 そんなことを思いながらプレゼント抱えたままふらふら歩いていたときだった。

「怜衣、怜衣!」

 声が聞こえてきた。このどこか怒ったような声は確か……。

「ん?ああ、千丈寺さん。どうしたの?」

 千丈寺麻尋、とかいう隣の隣のクラスの女の子がいた。
 いつも怒ったような顔をしているのでちょっと怖いがどうやら彼女は俺に気があるようだ。なにかと突っ掛かってくる。
 だってほら、いまも。

「どうしたのじゃなくて、ほら、これ!」
「?」
「だから、プレゼント!……今日怜衣の誕生日なんでしょ?だから、その、この前欲しいって言ってた時計用意したんだけど……」
「俺にくれるの?」
「だからそう言ってるじゃん。何度も言わせないでよ」

「バカ怜衣」と頬を膨らませ上目にこちらを睨み付けてくる千丈寺さんに苦笑を浮かべながら俺は差し出されたプレゼントを受け取った。

「ごめんね、バカで」
「え?や、今のは冗談で……」
「ふふっ、わかってるよ。ありがとね、千丈寺さん。大切にするよ」

 それにしても俺、いつ時計欲しいなんて言ったっけ。
 覚えてないけどこれくらいなら荷物にならないだろうし、まあいいか。
 なんて暢気に考えながらバッグにプレゼントを仕舞う。

「怜衣は時間にルーズ過ぎるからこれからそれつけてちゃんと待ち合わせにも合うようにしてよね」
「うん、そうさせてもらおうかな」

 彼女面、とは言わない。実際自分に気があると知っていて彼女と遊んでいることも事実だし一時期付き合ってると噂されたときも否定しなかったのも事実だ。
 まあ別に結構可愛いし付き合ってもいいんだけどなぁ。なんて考えながら千丈寺さんを眺めていると、千丈寺さんはもじもじとどこか恥ずかしそうにこちらを見上げてくる。

「それで……あの、今からなんだけど……」
「今から?」

 そう口ごもる千丈寺さんを促すように首を傾げたときだった。
 制服のポケットに入れていた携帯が震える。
 なにかを躊躇う彼女から目を離し、携帯電話を取り出せばメールを一件受信していた。
 宛先は……。

「……」
「えっと、だから……その……あたしんちに来ない?」
「ごめん、今日はちょっと無理かな」

 携帯を閉じ、そう遮るような俺の言葉に千丈寺さんは「へ?」とアホみたいな顔をした。
 いつも力んでいる彼女の緩んだ表情はなかなか貴重かもしれない。思いながら千丈寺さんに向き直った俺はにこりと微笑んだ。

「誕生日は家族と過ごすようにしてるから、ごめんね?」

 ◆ ◆ ◆

 千丈寺さんと別れた俺は自宅へと帰宅していた。
 高鳴る胸を落ち着かせることも出来ず、込み上げてくる高揚は全身に回り自然と足が加速する。
 自宅前。見慣れない車が一台停まっているのを一瞥した俺はそのまま家の扉を開き玄関へ転がり込む。
 靴を脱ぎ捨てバタバタとリビングへ駆け込んだ。
 見慣れた室内。しかし、そこにはいつもはいないスーツの男の人がいた。

「佐鳥兄ちゃん」
「……怜衣君」

 既に帰宅していた家族たちと混ざってそこにいた兄ちゃんは駆け寄ってくる俺を見るなり困ったような笑顔を浮かべた。
 何ヵ月ぶりだろうか、佐鳥兄ちゃんの顔を見たのは。兄ちゃんが今の職業に就いてからまともに顔を合わせていない気がする。
 母親から兄ちゃんが帰ってきたきたとメールが来たときも心臓が弾んだが、今は比べ物にならないくらい自分が興奮しているのがわかった。

「ちょっとあんたただいまぐらい言いなさいよ」
「ただいま」
「もう」

 行儀がなっていないと唇を尖らせる母親をあしらい、俺は兄ちゃんの隣に座りそのまま兄ちゃんを凝視する。
 本当は抱き着きたかったが、兄ちゃんは人前でそういうことすると恥ずかしがるから我慢する。代わりに舐めるように兄ちゃんを見詰めた。
 兄ちゃん、見ない内にまたかっこよくなってる。近くでみればみるほど顔が熱くなり、それでも一分一秒でも長く目に焼き付けたくて、そのかっこよさにまた顔が熱くなって。

「……仕事は?もう終わったの?」
「うん、今日は怜衣君の誕生日だからね。早めに済ませてきたんだ」
「本当?嬉しい」

 そう微笑めば、兄ちゃんは小さく笑った。
 本当はもっと色々なことを話したかったのに話したいことがありすぎて頭が追い付かなくて、あまりにも久し振りの兄ちゃんに自分が緊張しているのに気付く。
 ずっと避けられてるとわかっていたがそれでもこうして俺の誕生日に遊びに来てくれる兄ちゃんが嬉しくて嬉しくて泣きそうだった。

「怜衣、先に着替えてきたらどうだ。荷物も持ったままで」

 そう人が幸福に浸っている中、呆れたような顔をした父親に注意され「わかってるよ」と言い返した俺は渋々手に持った荷物を足元に置いた。
 たくさんのプレゼントが入った荷物に目を向ける兄ちゃんは驚いたように目を丸くする。

「相変わらずすごい荷物だね。学校の子たちに貰ったのかい」
「うん、帰るとき大変だったけどね」
「モテるからな、怜衣君は。羨ましい」
「そんな、全然……」

 たくさんの人間に好意を向けられるよりも本当に好きな人から好かれることの方が嬉しい、とは言わなかった。言えなかった。
 下手な謙遜を口にできるほどの余裕は俺にはなくて、照れ隠しのように渇いた笑い声を洩らしながら俺は兄ちゃんに見えないよう荷物を移動させる。
 なんとなく、兄ちゃんには見られたくなかった。

「それより佐鳥君、もっと大切なものがあったんじゃないのかい」

 そんな中、俺たちのやり取りを眺めていた父親がにやにやと笑いながらそう兄ちゃんに声をかける。
 その言葉に僅かに顔を緊張させた兄ちゃんは小さく頷き「そうですね」と呟いた。
 もしかして、と心臓の鼓動が一層大きくなる。

「大切って、なに?もしかしてプレゼント?」
「そうだね、それもあるけど……」

 も?
 どことなく歯切れが悪い兄ちゃんになんとなく不穏なものを感じたときだった。
 ふと、台所に目を向けた兄ちゃんは「麟子ちゃん」と声をかける。
 つられるように台所に目を向けた俺はそこでようやくそこにいた第三者の存在に気付いた。
 女だ。ふんわりと緩いパーマがかった明るい茶髪の髪の長い女がいた。

「はぁい」

 麟子と呼ばれた俺とあまり年が違いないであろう若い女は嬉しそうにしっぽ振る犬みたいにパタパタとこちらへと歩み寄り、それに応えるように立ち上がった兄ちゃんは俺の前に立ち隣に彼女を立たせる。
 この女は誰なんだ。なんでここにいるんだ。そう口を開こうとするが、固まった全身は動かなくて。
 そんな俺を知ってか知らずか兄ちゃんは俺の疑問に答えてくれる。

「彼女は時雨麟子」

 ああ、やっぱいいや。聞きたくない。知りたくない。
 そう心の中で叫ぶが兄ちゃんにその声は届いたのかどこかばつが悪そうに兄ちゃんは微笑んだ。

「僕たち、来月結婚するんだ」

 言葉に殺傷力があるならば今俺の体は頭のてっぺんから爪先まで串刺しになっているだろう。

 まだ幼さの残った顔に柔らかい笑みを浮かべ、「よろしくね」とぺこりと頭を下げてくる時雨麟子の声なんか頭ん中に入ってこなくて。
 もしこれがサプライズというなら兄ちゃんの目論みは大成功だ。
 間違いなく、一生忘れられない誕生日になるだろう。

 おしまい

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