短編


 01

 放課後になり、校舎に人の影がなくなった夜のこと。
 忘れ物を取りに校舎へと忍び込んだ俺は目的の課題を手に再び学生寮へ帰ろうと踵を翻したときだった。

 不意に、物音が響く。物音がしたのは人がいないはずの空き教室からだった。
 普段から暗幕で締め切られたその部屋は確か使用されていない机や椅子などが仕舞われていたはずだ。

 もしかして、誰かいるのだろうか。
 最初はほんの好奇心だった。何気無く扉に手をかけた俺はそのまま大きく扉を開く。瞬間、思考が停止した。
 そこには二人、人ががいた。一人はスーツを着ていて、もう一人は制服。そしてスーツは机の上で足を開いた制服の上に覆い被さり、どうみても真っ最中だった。
 ぎょっとした顔でこちらを振り返るスーツ。こいつ、社会科の信濃だ。しかし、今の俺にとって社会科の教師が教え子を犯してようがどうでもよかった。
 問題は、犯されてる生徒の方だ。

 大きく開かれた暗幕から射し込んでくる月明かり。
 そのぼんやりとした灯りに照らされた生徒はゆっくりとこちらに視線を送る。目が合い、一瞬息に詰まった。
 艶やかな栗色の髪。どこか冷ややかな切れ長な目。僅かに濡れた薄い唇。
 乱れた制服の下から覗く程よく引き締まった四肢。
 どこか、生気を感じさせない人形のようなその美青年は狼狽える信濃とは対照的ににただじっとこちらを見据え、そして唇を動かした。

「……混ざりたい人?」

 物静かで高揚のない冷たい声。
 その声を聞いた瞬間、背筋にゾクリと嫌なものが走った。
 冷や汗が滲み、鼓動が加速する。
 なにも考えられなくなって、狼狽えるように後ずさった俺は「失礼しました」と声を上げ、そのまま教室を飛び出した。

 ◆ ◆ ◆

 翌日。
 昨日のあれはなんだったんだろうか。他人の、しかも同性のセックスを目の当たりにしてしまったことに今さら動揺してくる俺。
 それ以上に、昨夜、突っ込まれていた生徒の恥態が頭から離れないのだ。思い出す度に胸の奥が熱くなり、動悸が増す。
 これじゃあ、まるで──……。
 そう、逆上せた脳味噌で逆上せた思考を働かせたときだった。

「香春、香春!ちょっとこっちこい!」

 教室の扉が勢い開いたと思えば聞き覚えのある怒鳴り声に名前を呼ばれた。
 なんなんだ、人がもの思いに耽ているというのに。
 舌打ちしながら扉に目を向ければそこには社会科の信濃がいた。

「……援交せんせー」

 いいながら、机から体を起こす俺。信濃はげほげほと煩い空咳で誤魔化し、そして教室に入ってくるなり「いいからとっとと来い!」と俺を椅子から引き摺り下ろす。
 抵抗する暇もなく教室から連れ出された俺はあれよこれよと人気のない廊下まで連れてこられた。

 校舎内、無人の廊下にて。
 目の前にはそわそわとした信濃。このままじゃ一向に話が進まなさそうなので俺の方から切り出すことにした。

「別に俺誰にも言いませんよ。信濃せんせーが援交してたとか」
「だから援交じゃないって言ってるだろ。それに今、そのことはどうでもいい」

『今』は、か。
 やけに含んだような言い方をする信濃に引っ掛かって視線を上げれば、目があった信濃は慌てて視線を逸らす。そして着ていたスーツから紙切れを取り出す信濃はそれを差し出してきた。つられて受け取る俺。
 もしかしてテストのカンペで口封じしてきたのだろうかなんて淡い期待をよせながら紙を開いた俺は「あ」と呟く。

「昨日落としていってただろ」
「どおりでなくなってたと思えば……」

 信濃が手渡してきたのは、昨日、わざわざ校舎まで取りに行った課題のプリントだった。
 名前欄には香春翼と自分の名前が書かれているし、間違いない。そしてそれを信濃が持っているということは、あの空き教室で落としたということだろう。
 脳裏に信濃と一緒にいた小綺麗な青年の顔が浮かび、慌てて振り払った。

「用ってのはそれだけだ。じゃあな」
「ちょっと待って下さい」
「……まだなにか用か?」

 さっさとその場を立ち去ろうとしていた信濃はギクリと背中を強張らせ渋々立ち止まる。
 強面だと思っていた信濃だが今こちらが優位に立っているとわかったからだろう。なんとなく、弱気に見えた。

「昨日一緒にいた子のことなんですけど」

 我慢出来なくて尋ねれば、信濃は「お前まさか俺を脅迫……」と顔を青くする。
「しません。それに信濃せんせー脅迫してもつまんなさそうですし」そう即答すれば、安堵した信濃。
 そして遠回しに脅迫するに値しないと言われていることに気付いたようだ。
「どういう意味だ」と眉を潜めた信濃だが、小さく息を吐き、切り換える。

「それであいつがどうした?」
「名前、なんて言うんですか」
「聞いてどうする」
「いえ、ただの興味です。教えてくれないんですか?」
「お前、あいつのこと知らないのか」

 上目遣いで尋ねれば、意外そうに目を丸くする信濃。

「有名なんですか?」
「……まあいい、昨日の教室にいってみろ。あいつなら大体あそこにいる」
「自分で聞けってことですか」
「俺にも事情ってのがあるんだよ、自分で調べろ」

 自分の立場がわかっていないのか、それともそれ以上の訳があるのか。
「援交せんせーの事情……」そう呟けば、「うっせ」と小さく吠えた信濃はそのままそそくさとその場を立ち去る。そして、その後ろ姿が見えなくなったのを確認し俺は小さく息を吐いた。

 空き教室。そこに行けば、会えるというのか。
 普通、この時間帯は自分の教室にいるものではないのだろうか。いや、普通の生徒は同性の教師とセックスしないななんて思いながら俺は例の空き教室へと向かう。足取りが軽い。

 ◆ ◆ ◆

 空き教室前。
 昨日ここで信濃とあの生徒が交わっていたんだったな。そう考えると、やはり生々しい。
 昼夜に関わらずその廊下の窓には暗幕が掛かっているようだ。
 相変わらずその中は見えない。
 本当にいるのかな。思いながら扉に近づいたときだった。
 ガラリと勢いよく空き教室の扉が開き、見慣れない生徒が出てくる。二年生だろうか。柄が悪そうなその生徒は扉の前に突っ立っている俺に驚くわけでもなくそのまま隣を通り過ぎていった。

「…………」

 昨日の今日なだけに下世話な想像をしてしまう。しかし、すぐその想像が事実だったということは証明された。
 昨日とは違い扉を開けば暗幕が垂れ下がっており、その隙間を押し開くように中に足を踏み入れれば相変わらず薄暗い教室内が広がっていた。
 前方には使われていない机椅子が乱雑に積み重ねられ、そしてその中の一つの机の上に件の生徒の姿があった。
 丁度着替えていたところだったようだ。ワイシャツだけを上に引っかけた昨夜の男子生徒はやってきた俺の姿を見るなり「あ」と目を丸くする。
「どうも」と俺。まさかそんなお出迎えをされると思っていなかっただけに、平静を装うのでいっぱいいっぱいだった。加速する鼓動。

「もしかして昨日の人?」
「うん」
「なにか用?」
「いや、もしかしてまた邪魔だったかな」
「別に。どうせ終わったとこだったし」

 言いながら、生徒は足首に引っ掛けていた下着を履く。
 細く、すらりと伸びた白い足は薄暗い教室内でもよく映えていた。
 それにしても、恥じらいのない男だ。

「なにやってたの?」
「セックス」

 まあ、見るからに事後だしそんなことだろうとは思ったが。
 てっきり信濃と付き合っていてああいうことをしていたのだと思っていただけになんとなくショックを受ける。それにしても本当に恥じらいがない。

「君、名前なんて言うの?」
「ミコト」
「それ本名?」
「そうだけど?」

 そう、ケロリとした顔で答える生徒、もといミコトはそのまま机に座り、猫のように目を細めて笑う。

「でさ、いつまでベラベラ喋ってるつもりなの。ヤるんなら早くヤろうよ」

 パタパタと足をばたつかせ、そのまま机の上に足を置いたミコトは下品に笑いながら膝を擦りあわせる。なかなか悪くない眺めだ。だけど、俺はそういうつもりで来たわけではない。

「ヤらないよ」
「は?なに、お話しにきただけ?」
「うん」

 頷き返せば、ミコトは「なにそれ」と不愉快そうに顔を歪めた。
 先程までの甘えた雰囲気はなくなり、冷やかされたことに対して興醒めしたような表情だ。
 それも、一瞬。笑みを消したミコトは溜め息混じりに立ち上がり、こっちを見る。

「悪いけどお喋りの相手を探してるんなら他当たってくれないかな」
「どうして?」
「俺は暇じゃない」
「こんなところにいたって暇だろう」
「いいから出ていって」

 よほどからかわれたのが面白くなかったのか、それともただ単に気紛れな性格なだけか。
 俺の制服を掴み、そのまま扉へと押しだそうとしてくるミコトに俺は「ミコト君」と名前を呼ぶ。しかし、結局外まで追い出されてしまった。

「次がつっかえてるから」

 空き教室前廊下。
 床の上に尻餅をつく俺を見下ろしたミコトはそれだけを吐き捨てれば、次の瞬間ピシャリと目の前の扉が閉め切られる。
 気持ち良くしてくれない人間に用はないということか。思いながら、俺はその場を後にした。


 空き教室のミコト君。そうクラスメートに尋ねれば、皆食い付いてきた。
 この学園では有名な子のようだ。
 誰とでもヤる。近付いたら襲われる。大体はそんな噂ばかり耳にしたが、三年の中ではまた別の意味で有名な子だった。
 愛知命。それが、ミコトの本名のようだ。
 数年前、愛知命という三年がいた。そして愛知命は卒業を間近に控えた状況で命を落とした。自殺だったようだ。
 愛知命もミコトのように誰とでも寝るような生徒で、本当は虐められていたんじゃないかという噂もあった。
 そして、その愛知命が今、あの空き教室で男の体を貪っている。
 愛知命を知らない一年二年にとってミコトはただの誰とでも寝る尻軽なのだろうが、その自殺騒動を知っている三年には学園七不思議として有名だった。
 正直、俺は幽霊だとか七不思議だとかそういう非科学的なものは信じない性質だ。だからこそ、彼の正体が気になって仕方がなかった。


 というわけで俺は今日も彼に会いに来ていた。

「ミコト君、君は授業は出ていないのか」
「だって、面倒だし。つーかなに?今度は説教しに来たわけ?」
「君は二年?クラスは?」
 そう目の前のミコトに矢継ぎ早に問い掛ければ、ミコトは「無視かよ」と唇を尖らせた。
 空き教室内。隙を見て隙そうだったミコトに話し掛ければ、嫌そうな顔をしながらもミコトは「二年C組」と答えてくれる。根は素直なのかもしれない。
 そして彼は今日も俺が来る前に誰かに抱かれていたようだ。
 昨日はなかった首筋の赤い痕をさらけ出したまま、服を着ようとしない彼は「ほら、答えたよ。帰って」と俺を睨む。

「二年か。俺より一つ下だ」
「聞いてないし興味ない」
「俺は興味がある」
「ならヤろうよ」
「なんで君はそんなにセックスに拘るんだ」
「そういう性癖なだけ」

 非常にわかりやすい答えだった。

「はい、これ以上はまた今度ね」

 言いながら、椅子に座る俺を立ち上がらせたミコトはぽんぽんと背中を叩く。その手は確かに暖かい。
 キスマークをつけた幽霊か。馬鹿馬鹿しい。

「また明日来る」

 言いながら立ち上がれば空き教室の扉が開く。昨日とは違う二人組の生徒だ。
 やってきた二人組を一瞥したミコトはこちらを振り向き、「はいはい」と俺を空き教室から押し出した。
 これからあの二人組とまぐわるのだろうと考えたらなんとなく胸が痛んだが、性癖なら仕方ない。俺は諦めて空き教室から離れた。


 そして数日後。
 久し振りに、というわけではないがいつものように俺は例の空き教室に来ていた。
 そして迎えてくれたのは半裸の男と同じく半裸のミコト。
 あろうことかまたまた真っ最中だったようだ。男の背中にしがみついたミコトはこちらを睨み、口ぱくで「あっち行け」としっしと手を振る。
 今回ばかりは大人しく引き下がるわけにはいかない。空き教室に入り壁にもたれ掛かった俺は二人の行為が終わるまで待つことにした。

 そして数分後。行為が終わり男は部屋から出ていった。去り際に睨まれたが、まあいい。
 濃厚な行為の匂いが充満した空き教室にミコトと二人きりになったわけだが、今は雰囲気に流されるような気分ではなかった。

「ミコト君、君は嘘ついただろ」
「なんのこと?」
「二年C組にミコトという生徒はいない」
「へえ」
「それどころか全校生徒探しても君の名前はなかった」
「ふうん」

 聞いてるのか聞いていないのか、乱れた制服を整えるミコトはこちらを見ようともしない。
 この間ミコトと別れてから二年C組に行ってみたがそんな生徒はいないと言われた。
 七不思議でも幽霊でもなんでもない。
 それをどうしても確かめたくて在校生の名簿も見た。しかし、やはりいない。
 七不思議とやらを信じている周りの皆は当たり前だと言うだろうが、その結果にどうしても納得がいかなかった俺はこうやって直接尋ねに来たわけだが、どうやら彼は一筋縄にはいかないらしい。

「空き教室のミコト君。うちの学校にそんな七不思議があるの知ってるか」
「なにそれ、花子さんみたい」
「数年前からミコトって男子生徒が空き教室に住み着いているらしい。おまけに、その男子生徒は頼めばヤらせてくれる。だけど、その男子生徒は既に死んでいるはずだ」
「そうだよ。だって俺幽霊だもん」
「違うな。愛知命は君みたいな子じゃない」

 そう、言い切ったときだった。
 シャツのボタンを留めていたミコトの細い指先はピタリと動きを止め、こちらを見る。笑みのない冷静な目。
 確かに、彼は愛知命とよく似ている。が、愛知命はこんなに冷たい目はしていない。

「なに、それも噂情報?」

 薄い桃色の唇に浮かぶ軽薄な笑み。
 ようやくこちらを見たミコトはそう皮肉げに笑った。
 空き教室内に響くミコトの低い笑い声。こちらがなにも答えないでいると、やがてその笑い声も消える。
 そして、

「香る春の翼」
「なに?」
「あれ、なんて読むの。あんたの名前」

 立ち上がるミコトはこちらに近付いてくる。なんとなく後退りしそうになるのを寸でのところで踏み止まった。
 そして「かわら」と問いに答え、俺は真っ正面に立つミコトを見下ろす。

「俺の名前を調べたのか」
「違う。あんたが落とした紙にそう書いてあった」

 その言葉に、先日信濃が届けてくれた課題のプリントを思い出す。もしかしたら彼がそれを拾ったのかもしれない。

「香春。香春かあ。ふーん」

 そう繰り返すミコトは「どうせ隠しきるつもりはなかったし、まあ、いいかな」と独り言のようにぶつぶつと呟く。
「なにが」そう意味がわからず、そう問い掛ければミコトはこちらを見上げた。真面目な顔。

「香春、愛知命についてなにを知ってる?」

 突然の問いかけに全身が緊張した。
 瞳の奥を覗き込むような勘繰る視線に居心地の悪さを感じつつ、俺はその問いに答える。

「二年前、自殺だと聞いた。この学園に通う二年生で、顔はたしか、君とそっくりだ」
「そうそう。血迷って、自分から車に突っ込んで逝った」

 まるで世間話をするような軽薄な口調。
 こちらを見上げたミコトはそのまま目を細め、微笑んだ。

「そんで俺はその愛知命の弟」

 本人が死んでいる今、目の前のミコトがただのそっくりさんか兄弟であることには間違えないとは思っていたが、なんだろうか。
 なんでもないように弟だと名乗るミコトに少々反応に遅れてしまう。
 そんな沈黙が気になったのか、ミコト否愛知命の実弟は「ヒいた?」とこちらを見上げた。

「いや、ひかないよ。少し、驚いただけだ」
「ふーん、面白くないな」

 まあいいけど、と実弟。
 あまりにもこう無頓着というかサバサバし過ぎている実弟に反応に困る。というか、愛知命の家族が目の前にいるということ自体に。

「ミコトは頭がちょっとアレだったんだよね、結構。だから、虐められても犯されてもずっと笑ってた」

 そして、そんな俺に構わず独り言のように続ける実弟。
 その内容はあまり気持ちがいいものではなく、しかし実弟は「まあ、そんとき俺はミコトがなにされてたか知らなかったんだけど。本人も特に気にしてなかったみたい」と他人事のように笑い、こちらを見た。

「だけどある日、ミコトは自分が異常だって知らされたんだ」

 そいつにね。そう、ミコトの幽霊のフリをした目の前の実弟は目を細め、薄く笑んだ。

 そいつというのは先程実弟が言っていた探してる男のことだろう。
 言葉に詰まり、なんだか聞いてはいけないことを聞いたような息苦しさを覚えた。

「そいつを見付けてどうするんだ」
「それはあんたには関係ないよね」
「そうだな、確かに関係ない。なら、無関係の俺にここまで喋っていいのか」

 そう相手の目を見詰め返す。絡み付いた視線は離れない。そんな俺の問い掛けに対し、実弟は「まあ、どうせ別にいつかはバレるだろうしね」と自虐的に笑う。
 そして、ふと笑みを消した。

「それに、俺には時間がない」

 時間。その一言に、俺はすべてを納得した。
「今年でミコトのことを知ってる人間が皆卒業してしまう」そう続ける実弟から焦燥感が滲む。
 手荒な行動に出た本人もこんなに時間が経つとは思っていなかったようだ。

「じゃあ、君が探してる男というのは三年にいるということか」
「ミコトより一つ下で、名前はタスク。それが、俺がミコトから聞いたそいつについて」

 不意に実弟の口から出たその名前に全身の筋肉が緊張した。
 まただ。鼓動が加速し、口の中が乾き始める。

「ずっと探してるけど、見付からない。今の三年を中心に噂を流してもらってるけどそれらしきやつもこない」
「……それで、知らないやつとセックスしてたのか」
「片っ端からやるには手間が掛かるし生憎俺は下手に出歩けない。喧嘩沙汰にしたら問題になるし、確かめるにはこれが一番効率いいんだよ」

 なるほどね、と頷き返す。
 確かに効率は良いだろう。良いだろうが、賢い選択とは思えなかった。
 少ない言葉だけでは実弟の目的が理解出来なかったからこそ、余計に。

「それじゃあ、ここまで言ったんだから手伝えよ」

 一頻り話し終え、実弟はそんなことを言い出す。
「俺も?」というか、手伝うってなんだ。
 思わず聞き返してしまう俺に実弟は「勿論」と笑顔で頷いた。

「自由に校内を歩き回ることが出来るやつが仲間にいると役立つしね。それに、ここまで俺に口割らせたんだから責任取ってよ」

「お礼ならするから」と口角を持ち上げまたあの嫌な笑みを浮かべる実弟は、言いながら立ち上がる。
 その白い指先は自身の身に纏っていたシャツに触れ、そのままボタンを外す。

「……ミコト君」
「違う、恵」

 そして、ずいとこちらへと詰め寄った愛知命の亡霊のフリをした実弟は「それが俺の名前」と微笑んだ。
 詰め寄ってくる愛知恵に嫌な予感がして思わず後ずさる俺の背後に積まれた机がぶつかった。その上に腰が落ちる。

「めぐむ、くん」

 構わず覆い被さってくる恵の肩を掴み、慌てて動きを止める。

「別にそんなことをしなくても手伝う。だから、そういうことに自分の身体を使うのはやめてくれ」
「そんなに嫌?」
「うん」
「変なの、皆喜ぶのに」
「周りと一緒にされるなんて心外だな」
「俺からしてみれば皆一緒だよ。ただの棒」

 涼しい顔をして中々酷いことを言う恵になんだかもうどうすればいいのかわからなかった。
 いつ振りだろうか。こんなに気が動転したのは。

「じゃあ、お礼とかそういうのじゃなくてただのボランティアって考えてよ。そうしたらいいだろ」

 狼狽える俺に負けじと迫ってくる恵に眉を潜める。
 こいつ、ただやりたいだけなんじゃないのか。
 兄の自殺の原因になった生徒を探すためとか言って、その手段に病み付きになったなんて可笑しな話でもない。

「だから……」

 性欲処理に喜んで使われるほどの易い貞操観念は持ち合わせていない。
 そう、なんとか恵の体を退かそうとしたときだった。

「香春さん」

 不意にかけられたのは先程とまで打って変わったか細い声。その声に、全身の神経に電流が走ったのがわかった。
 全身の毛穴という毛穴から汗が滲み、胸が締め付けられる。目を見開き、恵を見上げれば真正面で目があった。

「少し、だけでいいから。ちょっとの間だけ、俺に付き合って」

 愛知命と瓜二つの顔。だけど、確かに雰囲気が違うはずなのに、今にも泣きそうな目の前のそれは愛知命そのもので。
 言い表せない虚脱感が全身に襲いかかり、気が付けば恵を掴んだ手からずるりと力が抜ける。
 ああ、俺はこんなにも泣き顔に弱かったのだろうか。

 廊下へと繋がる壁一面暗幕が張らされた薄暗い空き教室内。反対側の窓からは赤い夕日が射し込み、目に染みる。
 机に腰をかけた俺の上には愛知恵が股がり、上半身にしがみつくようにその華奢な腕は俺の体をしっかり抱き締められていた。
 耳元に寄せられた唇に耳朶をなぞられ、吹き掛かる恵の熱い吐息にこちらまで恥ずかしくなってくるのがわかる。

「っ、ふ……んん……」

 耳朶に這う恵の小さな舌。それは熱く湿り、隅々まで耳朶を舐める。鼓膜にくちゅりと濡れた音が響き、背筋がぞくりと震えた。
 これは、やばい。視線を横に向ければ熱っぽくこちらを見詰める恵と目が合い、恵はいらやしく微笑んだ。

「……あんた、緊張し過ぎ。もしかして童貞?」
「童貞じゃなくても誰だっけこんなことされたらビックリする」
「ビックリしてんの?」

「心臓、すごいバクバクいってるね」言いながら、俺の胸板に手のひらを置いた恵は「かわいい」と紅潮した頬を緩ませる。その笑顔にどくん、と心臓が跳ねた。

『かわいいね』
「……っ」

 脳裏に蘇る、忘れたはずの記憶。そこに浮かぶ笑顔が目の前の恵とだぶり、全身が熱くなるのがわかった。

「あはは、耳まで真っ赤……ぁッ?」

 気が付いたら、恵を抱き締めていた。
 男にしたら線の細い体は腕の中にすっぽりと収まり、暖かい。

「香春、苦し」

 何事かと目を丸くする恵は俺の腕をばしばしと叩き、引き剥がそうとする。が、それでも俺はその体を離さなかった。
 ああ、駄目だ、本当に。もう忘れようと思ったのに。
 もがく恵をぎゅう、と更に強く抱き締めれば、恵もなにか察したようだ。動きを止め、どこか心配そうな顔をしてこちらを見上げた。

「……香春?」

 戸惑いの色を滲ませた掠れた声。
 次々と胸に沸き上がってくる感情を押さえきることが出来ず、俺は情けないことになっているであろう自分の顔を隠すように恵の肩に顎を乗せ、上半身を密着させた。目頭が熱くなり、息が乱れる。
 本当、なにがしたいんだろう。俺は。
 自虐的な自問を投げ掛けながら、俺は恐る恐る背中を撫でてくるその優しい恵の手になにかを求めていたのは確かに事実だった。


 どれくらいの時間が経ったのだろうか。赤く染まっていた空はすっかり黒くなり、ただでさえ薄暗い教室内は真っ暗になる。
 立ち上がった恵は壁に取り付けられたスイッチを押し、教室内の電灯の電気を入れた。

 パッと明るくなった教室内。
 恵の顔がよく見える。相変わらず崩れない美形。こちらを振り返り、俺の視線に気付いた恵は笑う。

「あんたって、図体でかいくせに甘えん坊さんなんだ」

 言いながら歩み寄ってきた恵は床の上に落ちていた俺の上着を拾い、こちらに差し出してきた。

「ほら、服」
「……ああ、ありがとう」
「……」
「なに?」
「もしかして今恥ずかしい?」
「そうだね。かなり」

 この年になって他人の前で泣いたんだ。恥ずかしくて堪らない。その気恥ずかしさを紛らすように顔を俯かせれば、恵は「ふふ」と鼻で笑う。
 なんとなく照れ臭く、全身がむず痒くなるような事後独特の空気に居たたまれなさを感じたときだった。
 不意に、どこからか携帯の着信音が聞こえてくる。
 携帯を取り出す恵は苦笑した。どうやらお呼びだしがかかったようだ。

「じゃあ、邪魔した」

 彼にも用事がある。このまま長居するわけにもいかない。
 なんとなく名残惜しさを覚えつつも上着に袖を通す俺に恵は「うん、じゃあね」と猫のように笑った。

「明日からよろしく」

 その無邪気な恵の言葉に俺は純粋に嬉しくなり、そして戸惑う。
 言い知れぬ息苦しさに胸がつっかえたような錯覚を覚えながら俺は教室を後にした。

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