短編


 01

 殴られることには慣れていた。受け身の取り方も、覚えてきた。
 けれどやはり、自分よりも体格のいい、それも大人に殴られると思考がぶっ飛びそうになる。
「クソガキ、殺してやる」と血走った赤い目がこちらを捉える。
 唾が掛かりそうなほどの至近距離、手の豆が潰れて分厚く堅い掌は、俺の首を掴まえた。
 ああ、と思った。今度こそ、やばいかもしれない。
 ぼんやりとした頭の中、部屋に目を向ける。カーテンから差し込む日の光。転がる日本酒の瓶と、缶ビール。何日も閉め切った部屋の中にはアルコールとヤニ、それから腐臭が充満していた。
 掌に力が籠もった。足元が浮き、体重が掛かる。開いた口からはうめき声と、唾液が溢れる。
 苦しい。なけなしの力でやつの腕に爪を立てるが、太い腕は鋼のように硬く、びくりともしない。四肢が痙攣する。思考が遠のく。
 ……いつか、こんな日が来ると感じていた。
 締め上げられる。頭に血が登り、焦点が定まらない。鬼のような形相の男は、魚みたいに口を開閉させる俺を見て、笑い、それから、唇を重ねた。
 皮膚に噛み付くようなそれに今更何も感じない。感覚もなくなってきて、ただ、舌を受け入れる。
 ――殺してくれ、早く、早く、早く、俺を、殺してくれ。
 確かに忍び寄る死に、心臓が脈打つ。下腹部が濡れる感覚を覚えた。
 ――ああ、今度こそ、やっと、俺は……。
 そう、目を細めた瞬間だった。

「何をしている……ッ!!」

 聞こえてきた声に、首を締め上げていた手が一瞬緩んだ。
 誰だ。この声は。霞む視界の中、ぼんやりと眼球を動かした矢先のことだった。
 侵入者は転がっていた酒瓶を拾い上げ、そして、躊躇なく俺に覆いかぶさっていたそいつの頭目掛けて振り下ろした。鈍い音とともに、筋肉が硬直し更に強い力で首を締め上げられた。厭な音ともに辛うじて残っていた器官すらも押し潰され、瞬間、下腹部から熱い液体が垂れるのを感じた。それからすぐ、俺を掴んでいた手が離される。否、額から紅い血を流しながらあいつは、目を剥いて倒れたのだ。
 俺の体は畳の上に投げ出され、受け身も取れず、倒れ込む。
 そのまま咳き込む俺に、侵入者は駆け寄ってくる。

「雨崎、大丈夫か、しっかりしろ、雨崎!」

 大きな手が体を抱き寄せる。眼鏡がない今、景色は全て霞んでいたが、名前を呼ばれ、気付いた。侵入者は、担任の|秦野《はたの》だった。
 流石に、今回のは、本気で殺されるかと思った。いっそ、そのまま死ねた方が良かったのかもしれない。頭から血をながし、ぴくりともしないあいつの姿を朧気に眺めながら、俺は、青ざめた秦野の頬に手を伸ばした。

「……なんで、来たんですか」

 久し振りに人間の言葉を発した気がした。
 潰された器官は喋るだけで酷く痛んだ。それでも、秦野の耳には届いていたらしい。
 秦野の顔が、緊張するのがわかった。太い首、浮かぶ喉仏が上下するのが見えた。

「……言っただろう、お前を解放するつもりはない、と」

 震えた声、いい大人のくせに。と、悪態をつく気力もなかった。
 秦野は俺の体をきつく抱きしめる。スーツが皺になるのも気にせず、俺の体液で汚れることも構わず、抱き締め、それから、俺の胸元に顔を押し当てた。
 子供みたいだと、思った。俺よりも一回り年上で、体だって俺の二倍くらいはある。
 皆から『秦野先生』と慕われ、教壇で堂々と弁を振るうあの秦野が、泣いてる。
 それがどうしようもなく情けなくて、みっともなくて、可哀想で、俺は、その広い背中にそっと腕を回した。

 ◇ ◇ ◇

 俺は、学校が嫌いではない。
 中学生にもなると皆勉強なんてだるいだとかサボりたいなんて口にしたが、俺は、そんなことを考えたこともなかった。
 かといって特別学校が好きというわけではない。ただ、逃げ場が欲しかった。家にいるのが嫌だった。だから、毎日通わなければならない学校という存在が俺には必要不可欠だった。
 両親が離婚して、母親に引き取られ、市街地の片隅のアパートで母親と二人暮しすることになったのは小学生上学年の頃。
 母親は俺の自分の生活費を稼ぐために水商売を始めた。よくある話だ。女手一つで俺を育てるにはそうするしかなかったのだ。
 家では一人でいることかいつしか当たり前になっていた。子供心ながら寂しいと思ったこともあったが、もとより、一人でいるのは慣れていた。誰といるよりも一人で本を読むことが好きだった。
 だから、母親が仕事中、冷えたご飯をレンジで加熱し、テレビを見ながら食べる。それから空いた時間を使って勉強して、図書室で借りてきた本を読む。そんな生活がいつしか当たり前になっていた。
 そんな生活にも慣れてきた頃、母親が彼氏を連れてきた。
 俺が中学に上がった頃だ。母親が俺に紹介したのは、自分よりも十は離れた若い男だった。
 実業家だかなんだかいっていたが、どうにも普通の男のように思えなかった。
 父親とは違う、知らない男が俺と母親の家に転がり込んできたのだ。
 最初は週にニ、三度くればよかった。母親はその度男と部屋に籠もり、薄い壁からは生々しい声が聞こえてくるのが嫌で、俺は音楽を聞いて必死に目を反らしていた。
 いつしか男が来る頻度は増え、泊まることも多くなった。
 俺は、男のことが好きではなかった。母親が仕事に出ていく時間帯になっても我が物顔でこの部屋に居座り、そして、俺を呼ぶのだ。

「なあ、お前、オナニー知ってるか?」

 最初、そんなことを言われてびっくりしたのを覚えてる。
 男の傍にはいつも飲みかけの酒が置かれていた。
 自慰行為のことは、知っていた。読み物をしてるとそういう描写が出てきて、何度か試したこともあったのだ。それを知られたのかと思い、焼けるように顔が熱くなった。
 知らないです、と逃げようとするが、筋肉のついた太い腕に抱き込まれ、体を寄せられるのだ。
「なら、お兄さんが教えてやるよ」なんて、アルコールの臭気を漂わせながら、俺の服を脱がせる。
 うちは、あまり裕福ではない。
 食事も、他の同級生と比べたらあまりよく取れてない方だろう。事実、俺はあまり発育がよくないと言われた。
 健康診断では栄養失調気味だとも言われたこともある。母親が馬鹿にされてるみたいで、俺は、それを母親には伝えなかった。だから、人前で裸になることに酷く抵抗を覚えた。
 そして今、この男に自分の体を見られることが耐えられなくて、恐怖でしかなくて、暴れた。けれど、子供と大人、それも体格のいい男の力の差は歴然だ。されるがままになるしかなかった。
 初めて他人と体を重ねたのはそのときだ。
 酔っ払った母親の彼氏に抱かれた。
 痛みしかない行為は暴力行為にも等しい。声が枯れるほど泣き叫び、男のものを捩じ込まれたのだ。
 それからだ、男が更に家に入り浸るようになったのは。
 ほぼ同棲状態といった方が適切か。恐らくろくに働いていなかったのだろう。男は母親が仕事にいく時間帯を狙って俺の部屋の扉を開け、俺を抱いた。

 家に帰ることが苦痛だった。だから、できる限り家に帰らないようにギリギリまで粘った。図書室に遅くまで残った。
 何度か母親が帰ってくるまで外で過ごそうともしたが、警察に補導され、結局、迎えに来たあの男に捕まるのだ。
 俺が遅く帰ってきた日の行為は、いつも以上に酷かった。殴ることもあった。首を絞められ、本気で殺されると思った。
 それなのに、死にそうになりながらも射精する自分が気持ち悪くて、その翌日は決まって自己嫌悪で死にそうになった。
 それから門限が設けられる。

「今度六時過ぎて帰ってきたら殺す」

 そう男に囁かれ、俺は恐怖のあまり吐きそうになる。
 逃げ場など、なかった。
 相談することなんて出来ない。母親といるときのあいつは、優しい。見たことのない甘い顔で、母親を抱き寄せるのだ。
 もし、殴られたりするのが俺ではなく母親になるとと思うと、助けを求めることができなかった。
 他の大人もそうだ。母親の彼氏に毎晩女のように抱かれてるなんて知られると思っただけで生きた心地がしない。
 いっそのこと、誰かがあの男を殺してくれないか。そう、願うことしかできなかった。諦めるしかなかった。男が飽きるまで、言いなりになるのが一番よかった。そうすれば、男の機嫌がよくなるのだ。
「お前は可愛いな」と「俺のものだ」と、まるでお気に入りの玩具で遊ぶみたいに無邪気な顔で笑うのだ。
 男のいる家に帰りたくない俺にとっての唯一安息の場は昼間の学校だった。
 現実逃避するみたいに勉強に打ち込んだ。本を読んだ。そうすることで、毎晩の悪夢を忘れることができたからだ。
 けれど、体中に跡を残されるようになってから、ただでさえ苦手だったのに人前で着替えることができなくなる。
 皆が恋だとか友達だとかで盛り上がってる中、俺は、ただ机に向かっていた。そうすることでしか忘れる方法を知らなかった。
 みんなの話にもついていけない、運動も得意ではない、かといって並外れた話術があるわけでもない。人と話すことは得意ではなかったが、あの男に抱かれてから一層、他人と接することに嫌悪を覚えるようになる。
 違う、他人と話していると、自分の醜さが、汚さが、浮き彫りになるようで嫌だった。だから、最低限のコミニュケーションを除いて、俺は他人を避けた。
 中学生にもなるとそういうものは肌で感じるようになるらしい、周りも俺をいないもののように扱うようになる。

 そんな中、変化が訪れたのは二年の春だった。クラスが変わったのだ。
 相変わらず家では母親と男は続いていて、結婚資金が溜まったらどこの式場で挙げるかなんて恐ろしい会話が繰り広げられるようになった頃だった。
 新しく担任になった秦野は、変な男だった。
 元々はアスリート志向だったくせに、今では社会を担当している。鬱陶しいほど情に厚く、所謂熱血教師というやつだ。
 一年の頃の担任は、良くも悪くも生徒に対して無関心だった。
 歯向かってくる生徒以外には隔てなく接する人間で、お陰で俺の家庭環境のことや一人でいることをとやかく言われることはなかった。――けれど、秦野は違う。
 俺が友達がいないことを心配して、俺が一人でいるといつもあいつは俺に話しかけてくるのだ。
 静かな場所で食べたくて、いつも人気のない校舎裏で食べてたら「雨崎、飯か?奇遇だな、先生も一緒に食べようかな」なんてでかい体で隣に座ってくるのだ。
 聞いてもないのに自分の話をしたり、人のことを根掘り葉掘り聞いてくる。平気で立ち入ってほしくない場所に土足で踏み込んでくる。……俺が嫌いなタイプの人間だった。
 大学時代は水泳をやっていたという秦野の体は今でも衰えるどころか、より一層鍛え抜かれていたと思う。
 無駄のない逆三角形の上半身は、俺に恐怖とコンプレックスを与えるのだ。
 大人が、大人の男が、怖かった。自分みたいなちっぽけな存在を簡単に潰せそうな大柄な男が、特に。
 俺は、秦野を無視するようにした。目を合わせたら嬉しそうに駆け寄ってきて、その度、周りが怪訝そうに見るのだ。
 秦野は特に女子生徒からも人気があった。顔は整っているし、何より、うざいほどの明るい性格だが中学生たちからみてそれは『個性的で面白い教師』という範疇に収まるらしい。
 生徒たちからの人望もあり、他の教師や保護者たちからも好かれていた。そういうところも余計好きではなかった。
 なにもかもが対照的だった。
 だからかもしれない、秦野は『片親でおまけに友達のいない生徒』である俺相手に庇護欲を掻き立てられたのだろう。
 そのお陰で、秦野に贔屓される俺は周りに妬みの目を向けられるようになる。
 誰にも干渉されたくなかった。面倒だった。せっかくできた安息の地を荒らされたくなくて、俺はある日、秦野を倉庫に呼び出した。
 無視し始めて一週間経つか経たないかくらいのことだ。呼び出したときは「ようやく話してくれたな」と秦野は嬉しそうに笑っていた。
 けれど、俺の血相からして何か感じたのだろう。「もう俺に関わらないで下さい」と言った時、秦野の表情が曇った。
 特別扱いされていると周りから言われること。俺は別に好き好んで一人でいるということ。秦野のお節介は迷惑であること。
 全部、吐き出した。未だかつてないほど、喋った気がした。
 秦野は、黙って聞いたあと、「そうか」と「悪かった、気づかなくて」と暗い顔して口にした。
 その日から、秦野は俺を特別扱いすることをやめた。皆の秦野に戻ったのだ。
 それでよかった。再び訪れる安息の時間。家に帰るまでの時間だけでも、心を休められることができたらよかった。


 男は、いつか俺に飽きてくれるだろうと願っていた。
 けれど一年も経とうとしても飽きるどころか、余計深みにハマっていくように、俺を抱いた。
 男に抱かれることにも慣れていた、あんなに感じていた苦痛は薄れ、次第に、体を嬲られる快感に蝕まれていく。
 それでも辛うじて保っていた均等が崩れたのは、母親が倒れてからだ。
 結婚のため、昼間も働き始めた母親が過労のあまりに倒れ、病院に運ばれた。命に大事はなかったものの、一週間の入院を余儀なくされたのだ。
 母親は「迷惑掛けてごめんね」と泣きそうな顔をしていたが、俺は、ここまで母親を追い詰めていたことに申し訳なくて、それと同時に病院ならばゆっくりと休めるだろうと安心した。けれど、それが間違いだったのだ。
 あの男は、母親の眠るベッドを囲うカーテンを閉め、母親から隔てたあと、母親を労った時と同じ顔で俺の肩を抱き寄せた。

「邪魔なのがいなくなって、今週はずっと一緒にいられるな。……湊」

 耳を疑った。肩口に食い込む指に、汗がどっと溢れた。
 正気か、この男。頭がおかしいのではないかと、慄いた。
 しかし男は本気だったのだ。宣言通り、帰宅してからすぐ、日の明るい内から男は俺を抱いた。
 結局休日はそれでまるまる潰れた。
 明日になれば、学校がある。それまでの辛抱だ。そう言い聞かせ、目を瞑った。けれど、俺が甘かった。
 男は、俺を学校に行かせてくれなかった。
 酒を浴びるように呑み、それを口移しされ、せっかく着替えた制服を乱暴に脱がしながら、朝っぱらから玄関口で犯される。
 逃げることもできない。母親がいないことをいいことに、居間や風呂場、母親の寝室、あまつさえベランダで犯されたときは死を覚悟した。
 狂えたら、まだ良かった。この男のように快楽に溺れ、理性すらも失うことができればと何度も思った。それほど、苦痛だった。
 犬みたいに這いつくばらされ何度めかの男の射精を腹の中で受け止めたときだった、居間に電話の音が鳴り響く。
 俺が登校しないことに不審に思った学校から電話が掛かってきたのだ。男は少しだけ俺を見て、それから電話に出た。
「はい、雨崎です」と、俺に突っ込んだまま、耳障りのいい声で名乗るのだ。ぞっとした。それから、受話器の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 漏れてくる心配そうなその声は秦野だった。

「すみません、連絡が遅くなってしまって。湊は具合悪いので何日か休みもらいます、ええ、病院には行ったので。はい、すみません。……あ、僕は湊の母親の……婚約者ですよ。……え? あぁ、まあ、そうですね、あいつ今入院してるから代理で面倒を見てるんですよ」

 腰を抑えつけられ、エラ張った亀頭で中をねっとりと擦られれば、腰が酷く痙攣した。
 既に何度も絶頂迎えた体はもう精液がでない、ただ言いようのない甘い快感だけが持続的に全身を支配していた。
 何日か、という男の言葉に血の気が引いた。
 男は受話器を乱暴に戻したあと「しつけえ男だな」と苛ついたように吐き捨てる。何か、秦野に言われたのだろうか。
 乱暴な動作に震えれば、「お前じゃないから」と笑って、髪を掻き上げる。そしてまるで恋人にするみたいなキスを落とすのだ。
 それから一日中、俺は男にハメられていた。

 寝ているのか起きているのかもわからないそんな浮遊感と、明確な快感だけが支配する。
 様々な体位で抱かれた。色んなものを使われた。流石に野菜を捩じ込まれたときは罪悪感で死にたくなったが、そんな罪悪感も掻き消されるほど、抱かれる。
 そんな日が、本当に一週間続いた。
 食事して、抱かれて、風呂に入って抱かれて、気絶したように眠る。そして、体に違和感を覚え、一方的に味合わされる快楽によって叩き起こされるのだ。地獄のような一週間だった。
 寝不足と体の倦怠感、それから筋肉痛。食欲は湧かなかった。寧ろ腹に入れると気持ち悪くなって吐いてしまうのだ。このまま餓死して死ねたらどれほど楽なのだろうか。
 風呂場で抱かれているとき、ふと目に入ったときの自分の顔つきが変わっていてゾッとした。
 俺は、こんな呆けた顔をしていたのか、断じて違う、この男のせいだ、この男の色狂いが感染っている。それに気づいたとき、涙が溢れた。
 俺は、どんな顔して母親と話していたのか、それすらもわからなかった。

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