誰ソ彼【裕斗視点】
案外、呆気ないものだと思った。
掌越し、伝わってくる鼓動と熱、噴き出す真っ赤な飛沫を眺めて思う。
「ぉ゛……ッ、……――ッ」
「悪いな、伊織」
お前のことは嫌いじゃなかった。
お前と過ごした時間も楽しかった。
けど、お終いだ。全部、終わらせよう。
包丁の刃を横に引く。器官に穴が空き、漏れる声に血液と空気が混じって何を言ってるのか最早わからなかった。壊れた水道のように血液は止まらない、それを塞ごうと伸ばした伊織の手から更に血が溢れる。
言葉は発することはできずとも、その目から言わんとしてることは分かった。
痛いだろう。苦しいだろう。ならば、さっさと楽にさせてやらなければならない。
ソレがせめてもの温情だった。
――こいつにできる、俺の最後の恩返しだった。
引き抜いた包丁の血を払う。
「もう、終わりにするか」
【誰ソ彼】
「……裕斗さん」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと手こずったが、ちゃんと死んだみたいだ」
「……」
通路は酷い有様だった。濃厚な血の匂いは暫く離れないだろう。
俺は、立っていることもやっとである知憲に近付いた。あいつは俺の顔を見ると、酷い顔をした。
まるで人を亡霊かなにかのように思ってるような、そんな顔だ。
「……ッ、なんで、お前が……」
「その話はまた後でする。下に車またせてるから、お前は大人しくしておけ」
「不要だ」
「良いから言うことくらい聞け、それともこのまま死んでも良いのか?」
腕の末端は既に血の気が失せている。
唇の色もだ、傷口は熱を帯びているが、こうしている間にも大量にあいつの身体からは血が失われ続けている。
――このまま誰かが大人しく待ってる人すらも惜しかった。
その身体を抱え、窓から放り投げようとしたとき、「仮眠室に」と知憲は口にした。
「……っ、……仮眠室に、あいつがいる」
そう、吐き捨てる知憲。俺が聞き逃したらどうするのか、深く聞く暇もなかった。俺は窓の下にマット敷いて待機してる栫井平佑を確認し、そのまま落とした。
これから先はあいつの生命力の問題だろう。
青褪めた栫井があいつを運ぶのを一瞥し、俺は着ていたシャツを脱ぎ、志木村から受け取ったタオルで血を拭いた。
「裕斗さん」
「分かってる。お前も一旦この場を離れた方がいい。巻き込んでいてなんだけどな」
「……本当に、今更ですよ。それに、別に僕は構いませんよ」
「そうか。……じゃあお前も知憲の方手伝っててくれ、多分、あいつ一人じゃ荷が重いだろうからな」
真新しいシャツを着替え、血で汚れたタオルとシャツを志木村に渡せば、志木村は珍しく真面目な顔をしてこちらを見た。
「――裕斗さんは、どうするんですか」
「あいつから頼まれたことがある。……その約束を守るだけだ」
志木村はそれ以上なにも言わなかった。汚れた衣類を荷物に纏め、「分かりました」と頭を下げた。
「無理はしないでください。馬鹿なことも――」
「はは、志木村お前面白いこと言うな。これが馬鹿なことじゃなかったらなんなんだ?」
思わず笑い返せば、志木村は目を伏せた。言いかけた言葉を飲み込み、「失礼します」とその場を離れていくのだ。
その後ろ姿を見送り、一人残された俺は割れた窓の外を見上げた。丸い月が薄ぼんやりと辺り一帯を照らしていた。
――生徒会室。
知憲の言葉通り、仮眠室にはあいつはいた。
宝物でも隠すように、大事に蓋をして失くさないように縛り付けられたあいつが。
あいつはずっと、自分のことよりもあいつの――知憲のことばかりを心配していた。
俺の役目は齋藤を安全な場所へと避難させることだった。他の奴らに見つかる前に、保護をしてもらう。それだけだったはずなのに。
存外、俺は心が狭い男だったようだ。あいつが泣きそうな顔をして必死に知憲のことばかりを口にしてるのを見て、聞いた瞬間、自分の心臓の奥に知らぬ感情が広がるのを感じた。
齋藤を幸せにしたい。
齋藤に笑っていてほしい。
痛みも苦しみも関係のない場所で、平穏に過ごさせてその自責から逃れてほしかった。
――それだけだったのに。
「――齋藤、お前はあいつのところへは行かせない」
伏し目がちなその瞳が大きく見開かれる。
そして次に齋藤が示したのは拒絶だった。嫌だ、離してくれと。あの人のところに行かせてほしいと。
いつだって、分かっていたはずだ。こいつが傍にいたいと願ったのは俺ではない、あいつだ。
恋愛感情なんて生易しいものではない。知憲は、こいつを縛り付けている。それでも、俺の説得一つでどうにもならないところまできていた。
錆びた鎖は雁字搦めに絡み、縺れたまま一体になりつつあったのだ。
――なあ、齋藤。俺はあのとき、本当はお前をあの場に連れて行く気なんてなかった。知憲を探すフリをして保護させようと思ったのだ。
それでも、なんでだろうな。あまりにもお前が知憲知憲言うからさ、しょうもない対抗心が湧いたんだ。
『俺だってお前のためならなんだってするつもりだぞ』って。伊織の死体の前で何度も言いかけた。……けど、やめた。
そんなことじゃないのだろう。それに、お前がそれでも首を縦に振ってくれなかったらきっと俺は自分でも自分がどうなるかわからなかった。
――だから、あのとき、俺の話を聞いてくれたお前が俺を受け入れてくれたとき、本気で嬉しかったんだ。
「……っ、裕斗先輩……」
齋藤は自分が幸せだと泣いていた。
腕の中、華奢な身体を震わせて声を震わせて泣いていた。
人のために苦しんで、人のために泣く齋藤のことが俺は羨ましかった。俺にはずっと、わからなかった。
昔からだ、他人に共感することが苦手だった。
だからこそ余計、他人の痛みを自分の痛みのように感じ、一緒に背負う齋藤が放っておけなかった。
せめて、その重荷を軽くしてやりたかった。お前は一人じゃないのだと教えたかった。
それなのに。
「……っ、齋藤……」
「っ、先輩、ん……っ、ぅ……ッ」
小さな唇が震え、必死に呼吸をしようと開く。それを塞ぎ、何度も貪った。
俺の存在が、齋藤にとって重荷になっていた。
助けるべき齋藤に救われていた。
齋藤に、背負ってもらいたかった。
――おかしいよな、本当。自分でも気付いたときには手遅れだったんだ。
知憲に説教なんて出来る立場ではなくなってる。それでも、それでも後悔していないのだ。
齋藤がいてくれたから、齋藤が幸せだと言ってくれたから――それだけで報われた。
報われたはずだったのに。
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