天国か地獄


 27【END】

 栫井の車は暫く走って、停まった。そして、やってきたのは古びたビジネスホテルだった。
 ここに、会長がいるのか。思いながらも、ホテルに足を踏み入れた。
 フロントで鍵を受け取り、そのまま狭い通路を歩いていく。本当に素泊まりするためだけの宿泊施設なのだろう。エレベーターを使って二階まで上がる。そして、一回同様客室がずらりと並ぶ通路の奥――窓際のラウンジで窓の外を眺めていたその人影を見た。

「……ッ、……」

 その後ろ姿を見た瞬間、ずっと抱えていた不安や微かな疑念、それすらも全て吹き飛んだ。

「っ、か……いちょう……」

 そう、口にしたとき。窓を眺めていたその人はこちらを振り返った。あのときと変わらない、鋭い視線。黒い髪の下、眼鏡を掛けたまま会長は俺をただ見ていた。

「――君は、本当に理解ができない」

 手にしていた本を置き、会長は立ち上がる。そして、胸倉を掴まれる。黒革の手袋で覆われたその手袋越し、強い力で引っ張られ息を飲んだ。

「何故、ここにきた?」
「……っ、会長……」
「――……俺に殺されると思わなかったのか」

 一瞬、会長の言葉の意味がわからなかった。
 目の前の会長を見上げれば、すぐ唇が触れそうな距離に胸の奥が痛いほど裂けそうになる。

「約束、したので……」

 会長に殺されても、それならそれで俺は良かった。
 会長を裏切って、また会長を一人にするくらいなら俺は会長の手で終わらせてもらった方がまだよかった。
 そんなことを言えばきっと、会長はまた不可解な顔をするのだろう。

 けれど、会長はそれ以上なにも言わなかった。
 その代わり、唇を塞がれる。栫井の前で、とか、人がいつ来るかもわからないこんな場所で、などそんなことを気にする気にもならなかった。
 熱く、触れた箇所が焼けただれてしまいそうなほどの熱から逃げることなどできなかった。俺は芳川会長に抱きついたまま、ただそれを受け入れた。
 会えなかった五年間を埋めることにきっと、俺達は夢中だったのだろう。長い口付けのあと、会長は俺を引き離す。

「余計な手間が省けた」

 そう、会長は上着のポケットに隠し持っていたナイフを放り出したのだ。

「……これ」
「君の刑期は分かっていた。……君が出所して、どこかへ逃げるつもりならば殺すつもりだった」
「……っ、もしかして、それで、仮釈放……」

 会長は何も言わなかった。自然な動作で煙草を咥え、火を着けるのだ。ぢ、と音を立て先端に灯りが灯る。

「ここにきたってことは、調べたんだろう。俺のことを。――あの男のことも」

 いつの間にか栫井の姿はなくなっていた。俺は会長に促されるまま、向かい側の椅子に腰をかける。
 あの男のことは、裕斗のことだろう。
 はい、と頷けば、そうか、と会長は息を吐いた。

「責めないのか」
「……俺は、その場にいなかったのでなにがあったのかわかりません。けど、会長は……会長は理由もなくそんなことをする人だと思いません」

 そう続ければ、会長は「ははっ」て口を開けて笑うのだ。見たことのない笑顔だった。
 自嘲するような、そんな嘲笑だ。

「お前に俺の何が分かるんだ?」
「会長は、俺を助けてくれました」
「……思い上がるのも甚だしいな。――言っておくが、君のためじゃない。俺のためだ」

 そう言って、会長は笑みを消した。会長だって分かっているはずだ、その言葉の意味を。
 俺を助けたところで会長に利益などなにもない、それどころか不利益すら被る。それでも、それを選んだことの意味を。

「私欲を満たすためにお前のことを好いてる男を殺したんだぞ、俺は」
「……はい」
「……君は、やはりどこかおかしいな。君こそ、一度脳を見てもらうべきではないか」

 会長はそう言って、短くなった煙草を灰皿を押し付けた。そして、二本目を口に咥えたのだ。
 会長が言わないのならば、それでもいいと思った。
 俺が今こうして会長の隣にいて、会長が俺の隣にいる――それが答えで、現実で、俺達にはそれだけが全てだった。
 これから先、明日からのこともない。会長の傷も、その手袋の下も、裕斗と交わした言葉も――俺は会長が言わないのならば聞くつもりはなかった。
 会長が生きていて、一人ではなくなるなら。
 ――それ以外、どうでもよかった。
 俺達は二人で窓枠の外、浮かぶ明るくまんまるの月を眺めていた。
 一直線に登る一本の煙がまるで線香の煙みたいだ、そんなことを思いながら。


 天国か地獄 √β【罪と罰】END


「……それより、いい加減それをやめたらどうだ」
「え?」
「俺はもう会長でも芳川でもない。……いつまで学生気分で居るんだ」
「っ、え、あ……でも……」
「知憲でいい」

「名字で呼ばれると、ややこしくなる」そう、会長は――知憲さんはそっぽを向いたまま口にした。

「と、もあきさん」
「……用があるとき以外は不必要に呼ぶな」
「っ、は……はい、知憲さん……」
「………………」

 短くなった煙草を灰皿に押しつけ、知憲さんは無言で三本目を取り出し、火を着けた。
 静かな田舎のホテルの一角、俺達に流れる時間だけが酷くゆっくりと進んでいく。
 そんな気がしたのは、恐らく願望が入っていたのかとしれない。なんて。

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