天国か地獄


 20

 俺にやれることは残されている。

「……っ、はあ、……っ」

 まだ指の先、末端に電気が溜まっているような感覚だった。
 まるで自分の体ではないように、神経の伝達がちぐはぐな感覚のままそれでも無理矢理身体を動かして裕斗の後を追いかけていく。
 裕斗はその間もなにかを言いたげにこちらを振り返ったが、「大丈夫です」と先に口にすれば「そうか」と前を向くのだ。その代わり、手を掴まれて。
 裕斗の方が負担が多いはずなのに、握り締められた手は力強かった。

 やってきた目的地、生徒会専用通路前。
 通路へと繋がる扉は開いていた。施錠が外されたまま電源が落ちているのか、それとも緊急時だからロックを解除されているのか。
 扉を開き、中へと足を踏み入れた俺は制止した。
 どこからともなく吹き抜ける冷たい風、そして、その風とともにどこからともなく漂うこの匂いは。

「……ッ、……!」
「おい、齋藤……っ!」

 待て、と止めようとしてくる裕斗の制止に構わず、俺は暗幕のカーテンがはためくその場所まで駆け寄った。足が縺れようが、転びそうになろうが考える余裕もなかった。
 薄暗い中でもわかった。床の上に滴った血と、そしてそれを引きずるような跡。伸びた先は学生寮へと続いている。

 “なにかがあった”、それは一目瞭然だった。
 冷たい汗が滲む。強烈な目眩と、吐き気。考えたくなどない、考えたくない、これがなんなのか、誰のものなのかなんて。

「おい、齋藤……ッ、って、これ……」
「…………」
「齋藤、待てって、おいっ!」

 引きずるように続くその血痕を追いかけようとしたとき、裕斗に肩を掴まれた。

「齋藤、俺も一緒に行くって約束しただろ」
「……っ、先輩……」

 一人ではないと分かっていても、それでも不安は腹の内側で膨れ上がる。
 最後に会ったときの会長とは比べ物にならないのどの出血量、それを目の当たりにして平然としていられるわけがなかった。それでも、裕斗に声を掛けられてなんとか自分を保つ。
 そうだ、迂闊に動いてはならない。分かっていた。分かっている。

「あいつなら大丈夫だ。きっと……俺よりもタフなやつだからな」

 肩を優しく叩かれ、辛うじて頷くことで精一杯だった。
 裕斗に宥められ、それから再び俺たちは歩き出した。

 廊下に落ちていた血痕は乾き始めていた。黒く変色し、フローリングにこびり付いていたのを思い出す。
 どれほどの時間が経過しているのか、考えたくもない。けれど、足を進めれば進めるほど学生寮の方へと近づくほど建物全体が騒がしかった。
 そして、渡り廊下の終着点であるエレベーター前。
 本来ならば生徒会専用のエレベーター、そこから発せられる耳障りな警告音。開かれたままの扉、その機体の奥ーー壁を背に座り込む人影が一つあった。
 赤だ。網膜に焼き付くほどの赤。その人物は項垂れ、長い足を放り投げたまま動かなかった。
 首から下、元々真っ白だったであろうシャツの胸元は赤く染まり、その腹部に突き立てられた一本の包丁とその周囲に広がる赤い血はエレベーターの床まで広がっていた。
 真っ赤な水溜まりのようだと思った。

「……ッ、……」

 なんで、と考えるよりも先に裕斗に手で顔を覆われた。

「……っ、見るな、齋藤」
「……ぁ、……ッ、ど、して……」

 どうして、どうして――阿賀松伊織が、死んでいるのか。
 首を掻き切られ、腹を深く刺されて。そのままうごかなくなっているのか。
 阿賀松の足が戸締まりの阻害になり、そのせいでブザーが鳴っていたのだろう。強烈な、まだ夢を見てるようなそんな感覚だった。

「……俺が見てくる」

 俺から手を離した裕斗はそのままエレベーターへと歩いていく。本当はまだ生きているかもしれない、死んだふりして俺たちを殺すつもりなのかもしれない。そう思い、慌てて裕斗を止めようとするが届かなかった。
 エレベーターの個室の中、阿賀松の側に座り込んだ裕斗は阿賀松の腕に触れようとして、瞬間その身体がぐらりと傾き、床の上に崩れ落ちる。
 見開かれた目は瞳孔が開ききっていて、こちらを見ていた。その顔に浮かんでいたのは、見たことのないものだった。なにかに対して驚いているような、そんな顔だ。
 裕斗は阿賀松の顔に触れ、そのまま瞼をそっと閉じさせる。なぜだか、阿賀松を見下ろす裕斗の横顔を見た瞬間背筋にぞわりと寒気が走った。
 当たり前のように死体に触れる裕斗。何故、冷静でいられるのか。
 けれどそれを言えば俺も同じだ。俺たちは間違いなく冷静ではない。
 だけど――。

「……っ、阿賀松、先輩は……」

 こちらへと戻ってくる裕斗に尋ねれば、裕斗は目を伏せる。そして、小さく首を横に振った。

「……もう冷たくなっていた」
「……ッ」

 裕斗の言葉に、脳味噌の後ろの辺りが焼けるように熱くなる。強い目眩を覚えた。
 何が、起きているのか。
 本当に阿賀松が死んだ?
 ――じゃあ、誰が殺したのか。
 他に、姿は見当たらない。それにと、阿賀松の死体に目を向ける。血溜まりとは別に、廊下からエレベーターまで引き摺った後があるのだ。
 誰かが阿賀松の死体を引き摺って運んだ?
 誰が。

「……ッ、……」

 芳川会長の顔が過る。全てが杞憂ならばそれで良かった。じゃあ芳川会長はどこに行ったんだ。
 辺りを見渡そうとしたとき、複数の足音が響いた。次の瞬間、眩い光が視界を白く塗り潰した。
「君たち、止まりなさい」そう声を荒げるのは警察か、警備員か。俺にはもう判断つかなかった。
 ただ、この場から忽然と姿を消したその人物の行方だけがただ知りたかった。
 せめて、会長が無事かどうかだけでも。
 エレベーターの中の死体に顔色を変える大人たちに混ざって、俺は辺りを見渡した。薄暗い通路の奥、確かになにかが動いた気がした。
 けれど、それはすぐに気配を消した。追いかけようとするが、「勝手に動くな」と取り押さえられる。

「っ、か、会長は……ッ」

 会長は。会長はどこに。俺を置いていって、どこに。最後まで一緒にいると約束したのに、俺は。

「……齋藤」

 怪訝そうな顔をする周りの人間たちの中、裕斗は伸ばした俺の手を取った。

「――大丈夫だ、きっと」
「っ、で、も」
「大丈夫だから」

 何を。何を根拠に言ってるのだ。子供を宥めるように俺の手を握り、繰り返す。大丈夫なはずがない、そう首を横に振り、裕斗から離れようとするが裕斗は俺の手を離さなかった。

「っ、ゆ……」

 裕斗先輩、と言いかけたとき。伸びてきた手に身体を抱きしめられた。
 人前でだとか、周りの人が見てるのにとか、そんなことがとても些細なものに感じるほどの熱に、その力に息が止まる。
 頬に裕斗の指が触れる。頬から顎の付け根まで、輪郭を確かめるように這わされる指先。額がぶつかるほどの距離。額に裕斗の前髪が掛かり、鼻先が触れる。真っ直ぐとこちらを覗き込んだまま、裕斗は「大丈夫だ」と再び繰り返して笑った。

「――……お前は、俺が一人にさせないから」

 だから全部忘れろ、そう言うかのように裕斗は「齋藤」と俺を呼んだ。

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