天国か地獄


 19【side:芳川】

 頭が軽い。足も、体も。こんなに清々しい気持ちになることなどそうそうない。
 程よい失血のお陰なのだろう。それとも煩わしいもの全ておいてきたお陰か。これほどまでに自分が身軽だと感じることは今までなかった。
 ようやくこの時が来たのだと、散々俺の邪魔をしてきた目障りなあの男に直接手を下すことができると思うと顔面の筋肉が引きつりそうだった。渇いた笑いが込み上げてくる。

 警報の鳴り止まない廊下の中、一人足を進める。
 彼は足手まといにならないよう、眠らせて生徒会室の仮眠室のベッドに縛り付けておいた。どうせ生徒会室も時期に家捜しの対象になるはずだ。
 タイムリミットは、それまでだ。
 邪魔が入らない今しかない。

 目の前、学生寮へと続く長い通路。暗幕で外部からの明かりを完全に遮断されたその通路に人影を見つけた。
 背の高く、赤い人影を。

「遅かったじゃねえか、芳川」
「…………」

 立ち止まり、顔を上げる。こちらまでこないのか。真っ先に飛びかかって殴ろうとしてくるのかと思ったが、冷静さはあるらしい。
 阿賀松伊織は笑っていた。いつもと変わらず、ピアスをぶら下げた唇を歪め。

「待ってたんだぜ、ずっと。お前のこと。良かった、元気そうで。だよなあ? お前に先にくたばられちゃあこっちは困んだよ」

 その手に握られた長い棒、その柄の先端部に取り付けられた金属の刃が薄暗い照明を反射させる。
 手斧か。撲殺でもするつもりなのか。殺したい相手に得物を手に取るような男とは思えない。だとすれば。
 咄嗟に俺が窓から離れたのと、阿賀松の手の中のそれが大きく振り被られるのは同時だった。分厚い金属の刃は暗幕越し、窓ガラスごと叩き割る。鼓膜を震わせる耳障りな破壊音とともに紙かなにかのようにいとも容易く破れる窓ガラス。
 この男が考えることなど、簡単に分かった。斧を抜く反しで頭部を打ち抜かれそうになり、後退して躱す。
 空振ったその斧は反対側の窓へとめり込み、パンと耳を劈くような音が再び響いた。

「殴るのは初めてか? 下手くそが」

 吐き捨てたとき、あいつは笑った。「ああ、器物損壊はな」と。
 大きな風が吹き抜ける。瞬間、カーテンのレースのように大きくはためく暗幕が俺とやつの間を遮った。
 ――しまった。
 夜目は利く方だと自負していたが、遮蔽されるとなると別だ。考えるよりも先に頭を腕で庇った瞬間、覆った左腕、その腕の筋を断ち切り骨に斧の先端がのめり込む。その振動は衝撃となって全身へと走り、鋭い激痛に変換される。
 舌打ちをし、まとわりつく暗幕ごと引きちぎって腕でに深くささった斧の刃先を掴み、柄ごと引っ張る。
 のめり込む刃先はより深く骨まで到達し、骨まで断ち切ろうと力を加えられるのを阻止しなければならなかった。なにがなんでも。
 例え、肉を断とうとも。
 痛みなど些細なものだった。全身の血管が焼け付くような激痛に脂汗が滲む。痺れ、収縮する筋肉を力づくで動かし、まだ無事な右手で斧ごとを奪おうとしたときだった。
 風に吹かれてそのまま落ちていく暗幕の向こう、阿賀松伊織は笑っていた。

「お前やっぱ、眼鏡掛けてた方がいいぞ。周りが見えねえんなら」

 阿賀松の手が斧を離れる。瞬きをする暇もなかった。ハンマーで顎を殴られたような衝撃と振動にほんの一瞬、脳味噌が機能停止した。それもすぐ、大きく抉れ骨を覗かせた腕の痛みにより現実へと引き戻される。
 打ち所が悪かった。ろくに庇うこともできなかったのも原因だろう。
 視界が傾き、全身の筋肉への神経回路が麻痺し、遅れている。けれどそのお陰で、痛みにも耐えられた。胸倉を掴まれ、続けざまに二発目を殴られる。殴られた拍子に拳を受け流し、衝撃を緩和させた。そのままやつの胸倉を掴み返し、その腹立つ鼻っ面に頭突きをかました。皮膚が避けようが、血が溢れようがどうでもよかった。奪った斧を握り直し、ほんの一瞬ダメージを食らった瞬間のあいつにできた隙を狙ってその腹に斧を思いっきり叩き込んだ。
 けれど。

「……ッ、く、はは、お前はやっぱ馬鹿だな、目の前しか見えてねえ、イノシシか?」

 手斧の刃先にひっかかり、大きく裂けたシャツの下。防刃プレートでも仕込んできたのか、斧の刃先に手応えはなく、皮膚まで通らない。そんな俺を見、阿賀松はたらりと垂れる鼻血を舌で舐め取り、笑う。

「準備させてくれたのはテメェだからな、芳川。……まあ取り敢えず、一発返しておくぞ」

 前髪を掴まれ、剥き出しになった顔面に叩き込まれる額は鈍器に等しい。骨と骨がぶつかる衝撃に眼窩の奥からどろりとなにかが溢れるような感覚が広がり、視界が白く染まる。夜なのに辺りは明るく、どこかしらの血管が切れたのだろう。汗が流れていたと思っていたが、それは赤くぽたぽたと落ちて床を汚した。
 理性など、とうになかった。諦めるつもりも、大人しくするつもりもない。腹に防刃ベスト仕込んでいるのならば目に見えて剥き出しなった部分を狙うだけだ。大きく斧を振り回し、その顔面へと叩きつけようとしたときだった。血で濡れた手は手斧の重みに耐えきれず、そのまま床へと音を立てて落ちる。
 意志ではなく、肉体に、あるいは握力、それらを司る部位にガタが来ているのだと。認めたくなかった。なにがなんでもこの男に致命傷を与える。殺して、道連れでもいい、なんとしてでも、この男を。
 手斧を拾うことすらもできない状況。裂けた腕を動かし、制服の下に隠し持っていたスタンガンを取り出した。ぬるぬると滑る指でその電源を入れたと同時に、そのガラ空きの首に抉り込もうとしたときだった。

「いい加減諦めろ、テメェはここでおしまいだって」

 ほんの一瞬、視界から阿賀松が消えたと思ったが違った。掠れ、血で滲み潰れた右目では捉えることができなかったのだ、やつが落ちた手斧を拾おうと屈んだのを。そしてそれを手にゆっくりと立ち上がったあいつはこちらを見下ろした。

「お前は本当に馬鹿だよなあ、このまま黙ってこの学園を出ていけばまだ許してやったってのによ。自分から死にに行くなんてな。……けど、俺はそんな馬鹿は嫌いじゃねえんだわ」

「テメェみてえなカスを除いてな」音が一瞬遠のいた。辛うじて動いていた右腕に叩き込まれる手斧の刃は深く、筋肉を引き裂き皮膚を突き破って骨を砕く。両腕の感覚が失せようとも、まだ足はある。動け。動け。食いしばった奥歯から空気が漏れ、とめどなく溢れる血に全身は冷たくなっていく。冷静になっては駄目だ。考えるな。いいから動け。そう体に力を入れ、裂けた左腕で斧を引き抜こうとする。けれど、掴むことが精一杯だった。指先を折り、ものを握って力を入れることができない。まだ、いけるはずだ。そう思った次の瞬間、斧を引き抜かれる。

「……だよなぁ、中途半端にあると未練持っちまうものだ。まだいけるってな。いけねえのに。可哀想に。俺は優しいから助けてやるよ、テメェはもう終わりだって」
「……ッ、ぐ、ぅ゛……ッ!!」

 更に深く、開いた腕の傷に斧を叩き込まれた瞬間皮膚の下、焼き付くほどの激痛と熱が止めどなく溢れる。
 食いしばった歯の奥、殴られた拍子に切れた口内に滲む血液混じりの唾液が溢れ、垂れた。
 痛みはない。痛くない。これ以上の痛みなど、いくらでもあった。
 そんな俺を見下ろしたやつの顔に先程までの不快な笑顔はなかった。その代わり、手斧を引き抜いた阿賀松は血と肉が絡んだその金属の刃先を俺の顎下、首の付け根に押し当てた。

「なんであいつを殺した?」
「……っ、……」
「あいつは関係ねえだろ」
「……貴様は、本当に何も知らないんだな」
「……あ?」

 刃先が皮膚を突き破り、新たな傷口から血が溢れる。少しでも突き上げられれば呆気なく動脈は押し切られ、致死量の出血により死ぬことは可能だろう。けれど、この男にまだ死以上の苦痛を与えさせられていない。まだ、それをするわけにはいかなかった。

「……阿賀松詩織は、お前にいくつもの隠し事をしていた。俺が殺さずとも、貴様が手を下すほどの秘密を」

 言い終わるよりも先に斧を抜かれ、そのまま斧頭に額を殴られる。両腕が使い物にならない現状、それを器用に避けることも、そのバランスを取ってなおかつ受け身を取ることなど不可能に等しい。
 直撃した斧頭は薄い皮膚を刳り、額から夥しい血が溢れ出す。手加減してるのだろう。簡単に殺す気はない。そうやつは言っていた。
 眼球に入らないように瞼を閉じるが、涙のように流れる血液が鬱陶しい。拭う腕もないのが、余計。

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