天国か地獄


 18

「っ、な、何言って……るんですか」

 こんなことしている間にも芳川会長の身になにかがあっているかもしれない。そう思うと落ち着いてなどいられなくて、こうして止めようとしてくる裕斗がわからなくなる。
 なにがなんでも裕斗の腕から抜け出そうとするが、裕斗は片腕に力を込めるのだ。行くな。そう、俺を抱き締めるのだ。

「なあ、お前はなんで知憲がここに縛り付けてたかわかるか?」

 子供相手に諭すような優しい声だった。
 裕斗がただの意地悪でしてるわけではない、わかっていても、それでもなんでそんなことを言うのか。

「っ、そんなこと……」

 言い掛けて、言葉尻は消えていく。
 そんなこと……分かっていた。分かっていたからこそ、考えたくなかった。
 俺の反応から察したのだろう、裕斗は「齋藤」と俺の名前を呼ぶのだ。

「……っ、そんなこと、分かってます」
「なら……」
「で、でも……っ、それは俺の意志ではありません……っ」

 自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
 会長は自分の本心を話すような人ではない。その分、その行動に全て反映されてるのだ。気絶する直前に会長が話した『これからのこと』、そこに自分のこれからについて含まれていなかった。
 最初から、会長の目的はただ一つ――阿賀松伊織を殺すことなのだろう。そのあとどうするかなんて、会長は話してくれなかった。
 全てが無意味になったと会長が言っていた。だからこそ、自分にその矛先が向けられることに怖じ気付くこともなく他人を傷付けられたのだ。
 ――会長は、死ぬ気なのだ。
 直接聞いたわけではない、それでも会長の危険を顧みない言動や行動から導き出されたものはそれだった。

 だからこそ、余計俺はこのまま芳川会長一人に全てを背負わせたくなかった。

「っ、齋藤……ッ」
「は、離してください……ッ」
「齋藤……ッ」

 恐らく、以前の裕斗だったら俺は逃げ出すこともできなかったのだろう。それでも、今の裕斗が使えるのは腕一本だけだ。
 全力で藻掻き、その腕から抜け出そうとする。それでも、裕斗も意地だったのだろう。手首を掴まれ、捻りあげられる。

「っ、齋藤」
「……ッ、ゆ……ッ、……んんッ」

 痛みに呻くよりも先に、抱きしめられたまま唇を塞がれる。
 なんで、こんなときに。邪魔をするように唇を塞がれ、重ねられる。こんなことしてる場合ではない、そう思ってるからこそ余計困惑した。
 ぬるりと舌が触れ、強引に唇割り開かれる。恐らく意識を逸らさせようとしたのだろう、この状況では少なくとも俺にとっては逆効果だった。
 咄嗟に裕斗の舌を噛む。咥内に血の味が広がった。痛みがないわけではないはずだ、それでも、裕斗は俺を離さなかった。
 指先が白くなるほどの力で掴まれたままの手首は最早感覚すらない。それでも頑なにキスを拒み、抵抗する俺に裕斗はやがて諦めたようだ。唇を離し、己の血で赤く染まった唇を拭う。
 そして、俺の肩口に顔を埋めるのだ。

「頼むから、齋藤、お前だけは行くな……ッ、あいつのことは俺が見てくる、だから」
「っ、先輩……」
「分かってるんだろう、お前だって。あいつは許されないことをした、それを自覚してお前を置いて行ったんだよ。お前も共犯だと分かれば無事では済まない」

 どこまで広まってるのか、そもそも裕斗がいつこの学園に戻ってきたのか。聞きたいことはあった。それでも、優先事項はそれではない。

「……俺は、あの人を見捨ててまで逃げたいって思いません」
「それが知憲の意志だとしてもか」

 会長の意志。裕斗の言葉も受け取りようによってはそうなのだろう。けれども、もっとその根の奥深くにあるものはそれではない。会長が本当に求めているものを俺は知っている。
 ――約束したのだ、なにがなんでも芳川会長から逃げないと。会長についていくのだと。
 例え芳川会長が『逃げろ』と言い出しても、きっとそれだけは受け入れることはできないだろう。
 あの人は平気で騙り、偽る。自分自身すら誤魔化して生きてきたのだ。
 だったら、俺の返答は最初から決まっていた。

「――はい」

 裕斗が目を伏せる。深く息を吐いた。まるで自分を落ち着かせるように、深く。

「……齋藤、お前は強くなったな」

 ずるりと、俺の身体を拘束していた裕斗の腕から力が抜け落ちる。

「っ、先輩……」
「俺の方がよっぽど弱い。……なにがなんでもお前を助ける、そう思ってたのにな」

 自嘲混じりに呟き、裕斗は俺から手を離した。

「お前の気持ちはわかった。……けど、俺も一緒に行く」
「……っ、どうして……」
「お前だけで止められるのか? あいつらを」
「……ッ!」
「まさか身を呈して止めるわけじゃないよな」

 図星を刺され、言葉も出てこなかった。俯く俺に、裕斗は苦笑した。

「……取り敢えず、一人で突っ走るのだけはやめてくれ」
「っ、でも……」
「ああ、分かってる。けど恐らく、あいつらがまだこの学園に残ってるとは思えない。すでに騒ぎになって警備員たちも校内中探し回ってるからな」
「じゃあ――」
「齋藤、お前が気絶してからどれほど経ってるかわかるか?」

 尋ねられ、俺は首を横に振る。壁掛け時計を確認する暇すらなかった。それでも、まだ夜は明けていないところからしてそう経っていない……そう思いたい。

「あ……っ、でも、学生寮の警報器……」
「警報器?」
「……っ、は、はい……あれが鳴って……それから学生寮から校舎に移動したので三十分もかかっていないと思います」

 裕斗はなにか言いたげな表情をしたが、言葉を飲んだ。そうか、と苦々しく言葉を吐くのだ。

「じゃあお前が気絶していたのは十分から二十分ぐらいだな。だとすれば……」

 そう、裕斗は生徒会室へと向かう。そしてガラス窓の外から校舎の下、関係者専用の駐車場を見下ろした。

「車も、停まってるな。……と、なると、あそこか」
「っ、それって……」
「なあ、齋藤は知ってるか? 一部の生徒しか通れない通路のことを」

 裕斗の口から出たその言葉に、思わず固唾を飲んだ。
 いつの日か十勝に連れて行ってもらったことも、芳川会長と通ったこともあった。生徒会専用の通路、あそこには専用のカードキーがなければ通れない。
 けれど、今の芳川会長が通れるとは思えない。おまけに会長は既に退学する身だ。

「……もしかして、生徒会の人専用の……?」
「ああ、あそこなら警備員が来るのも遅れるだろうな。外からも内部の様子は分からない、邪魔が来ないようにするなら俺ならそこを選ぶ――俺が、伊織だったらな」
「……ッ! っでも、どうして阿賀松先輩が……あれは生徒会の人じゃないと……っ」
「回収せる方法はいくらでもある。知憲が持ってるのかは知らないが、それ以外から直接取り上げることもできるだろう」

 脳裏に浮かんだのは入院したままの栫井と先程深手を負った灘の顔だった。もしあのあと、阿賀松が灘と接触して直接本人から受け取ることもできる。

「……ッ、……」
「そうじゃなければ、もう既に捕獲されてもおかしくない時間だ。取り敢えず、俺たちも向かおう」
「っ、わかり……ました……」

 少なくとも十分も気絶していた、その空白の時間を考えるとただ生きた心地がしなかったが悲観してる暇すらもない。
 俺は裕斗とともに生徒会室を後にした。

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