16
夜の生ぬるい風が肌を撫でていく。
会長に手を掴まれたままやってきたのは学園校舎内。学生寮のほうは騒がしく、夜の静かな町に救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
恐らく誰かが通報したのだろう、そんな音をどこか他人事のように聴き流しながら俺は会長の後ろへと着いて行っていた。
足音を立てないように、それでも心臓の音まではどうすることもできない。
――学園校舎内、最上階。
――生徒会室。
久し振りにやってきた生徒会室は酷く殺風景に映った。リコール問題が起きてからまともにここに人が集まることもなくなったのだろう。
春、ここに何度もお邪魔させてもらった時の記憶が蘇る。よくも悪くも賑やかで、転校してきたばかりの俺を気遣って会長はよくここに部外者である俺を招き入れてくれた。
なつかしさ、ではない。後悔とも違う。一種の寂しさのようなものが胸の内に広がった。もう二度とあの時には戻れない、そう改めて知らしめられているようなそんな感覚だ。
静まり返った生徒会室には人気はなかった。けれど、それもいまのうちだろう。会長が関わっていると割れている今、誰が会長を追いかけてやってきてもおかしくはない。
……例えば、阿賀松伊織。
「会長……」
片付いた会長机の前、修繕された壁一面のガラス窓を背にした芳川会長はこちらを振り返る。
「君には、改めて伝えておかなければならないことがある」
それはいつもと変わらない落ち着いた、静かな声だった。
頷くことが精一杯の俺を真っ直ぐに見据えたまま、会長は「これからのことだ」と静かに付け足した。
「この先、君が阿佐美詩織について追及されることがあればこういえ。すべて、俺に脅されてやったことだと」
「俺には余罪もある。けれど君は初犯だ。それも脅迫が絡むとなると情状酌量の余地はあるだろう」一瞬、芳川会長がなにを言っているのかわからなかった。言葉の意味は分かるが、なぜ今になってそんなことを言い出すのかがわからなかったのだ。
「っ待ってください、詩織のことは……俺がしたことです。なんでそんなこと……」
「言っただろう、これからのことだと。これは、君に必要なことだ」
「会長っ」
我慢できず会長に詰め寄ったとき、鉄の匂いが更に濃くなる。それでもじっとすることなどできなかった。その腕にしがみ付いたとき、会長に抱きしめられた。冷たく、乾いた血がこびり付いた指先が頬に触れる。
覗き込まれる目、その視線から目を逸らすことなど出来なかった。僅かにフレームが歪んだその眼鏡に手を掛ければ、会長は俺の手に自分の掌を重ねるように眼鏡を外すのだ。そして、俺が口を開く前に唇を重ねられる。
ほんの一瞬、それでも長い間唇を重ねていた気がする。そこに性的なものはなかった。ただ熱を確かめるような、手探りのようなぎこちない口づけだ。
言葉にし難い感情が溢れ出す。
「会長……ッ、俺は、会長に着いていくと決めました」
だから、置いていかないでください――その先は言葉にすることはできなかった。
会長が何を考えているのかわかってしまったからだ。会長はそんな俺を見下ろしたまま、ふ、と笑った。
「……ああ、そうだな」
まるで憑き物が取れたような顔だった。
俺を憐れむようでもあり、今にも泣きそうにも見えたのは目の錯覚ではないはずだ。それでも、それも一瞬のことだった。
何が起きたのかわからなかった。腹部、衣類越しに硬いなにかが押し当てられたと思った次の瞬間、頭の中でばちりと凄まじい音が響く。
「っ、え……」
この感覚には身に覚えがあった。腹部から地面に向けて電流が走る。神経の伝達が阻害され、その場から動くこともできなかった。
どうして、会長。
そう言葉を発することもできなかった。
スタンガンを手にした会長は、それを俺の腹部から離した。全身の筋肉が収縮し、石になったように動けなくなる。そんな俺を前に、芳川会長は目を伏せた。
会長の唇が動く。何かを言っていたが、その声が俺に届くよりも先に意識が遠のいた。
駄目だ、ここで気を失っては駄目だ。駄目だ、会長を一人にしては駄目だ。
俺も、俺も一緒に行くのだと決めたんだ。
――決めたのに。
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