14.5
【side:阿佐美】
全身が冷たくなる。冷たいのに、熱い。
自分の胸に突き立てられたナイフを眺めながらその時を待っていた。
――本当に、ゆうき君は甘い。甘い。
――俺も。
辛うじて意識を保っているのが奇跡のようだった。細い一本の糸に繋ぎ止められている。もう、痛みも感じない。力も入らない。胸のナイフを引き抜けばそれは呆気なく途絶えるのだと分かっていた。
俺に出来ることは、もう残されていない。
寒い、震えが止まらない。滴り落ち、浴槽の底に溜まっていく血液も固まってきている。全ての音が遠くなり、落ちていくシャワーヘッドの音だけがやけに大きく響いた。霞む視界。目を閉じたまま、その時を待っていた。
複数の足音。扉の開く音が聞こえた。
そしてすぐに浴室の扉は開かれる。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、乾き始めていた眼球を無理矢理動かした。
そこに現れた兄を見て、全身の力が抜けそうになった。
「……ッ、詩織……」
なんて顔をするんだ、と思わず笑ってしまいそうになった。固まり始めた表情筋を動かすことはできない。
伊織はいつだって自信と活力に満ち溢れていた。弱音なんて吐くこともない。自分が勝つのだとわかっていたからだ。そしてそれをただの過信ではなく体現させる、させようとする努力をする――それはよくも悪くも俺には決してないもので、だからこそ憧れた。
誰の前でも、俺の前でさえ伊織は伊織だった。
そんな伊織が、初めて見せたその表情に俺はどれだけ自分が伊織に酷なことをしてしまったのだと実感した。
伊織を裏切った。伊織を騙して、挙げ句それを取り戻すこともできずにこの様だ。
「――……ごめん、伊織」
「すぐに救急車が来る。いいか、馬鹿なことを考えんなよ。テメェには聞かなきゃなんねえことがいくつもあるんだからな」
「……うん」
血で汚れることも構わず伊織は俺を抱え、部屋へと移動する。器官が詰まる。呼吸は浅くなり、気道を広げようと、もっと空気を吸おうとすればするほど余計詰まるような感覚になっていく。
足の下に何かを差し込まれ、伊織はどこからか引っ張ってきた毛布をかけるのだ。
「っ、伊織さん……」
部屋の外が騒がしくなる。懐かしい声がした。
仁科だ。俺の姿を見て青ざめる仁科が目に入った。仁科を無視して伊織は俺に声を掛ける。
「……詩織、寝るんじゃねえ。いいか、許さねえからな。それだけは絶対に」
本当に変わらない。
自分勝手で、俺の意志も無視して俺を導いてくれるのだ。そんな伊織には何度も救われた。
本当に、俺は伊織の足を引っ張ってばかりだ。
俺が、伊織の言うことを聞かなかったから。
「っ、……詩織、おいッ!」
不謹慎だと分かっていても、少しでも伊織が俺のことを心配してくれてるのだと分かったことが満足だった。
遠くなる。握り締められた伊織の熱も段々遠退いていく。心臓の音は早くなり、視界がどんどん狭まっていく。
――これは罰だ。
――伊織への贖罪の機会すら与えてもらえない。
握り返すこともできないまま、残された一本の糸は音を立てて切れた。
「ッ、……詩織……」
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