天国か地獄


 14

 気付けば、浴室には俺一人だけになっていた。
 芳川は先にリビングへと戻ったのだろう。
 俺は暫くその場から動くことができなかった。制服が濡れようと、汚れようと、どうでもよかった。
 動かなくなった阿佐美を見て、阿佐美の体から熱が抜け落ちていくのを感じて、俺は。なにも。ただ。俺は。

「――」

 膝を抱え、ただ目を瞑っていた。ナイフを握り締めたまま、呼吸を繰り返す。
 最後まで、俺はなにが正しいのかわからなかった。
 少なくとも俺の行動は選択は間違っている。そう分かっていた、他にもっと道はあったのではないかとも。
 それでも、俺は選んだのだ。
 俺が、選んだのだ。芳川会長を選んで、阿佐美を殺したのだ。


 どれほどの時間が経過したのかも分からない。ぴちょん、ぴちょんと、シャワーヘッドから水が垂れる音だけがそこに響いていた。
 あれだけノイズがかったようにうるさかった頭の中も、心音も、今だけは凪いでいた。

 リビングには芳川会長がいた。
 浴室から出た俺を見て、芳川会長はソファーから立ち上がる。

「そろそろやつが戻ってくるはずだ。……場所を移動するぞ。あいつを迎えるには準備が必要だ」
「……分かりました」

 芳川会長は恐ろしいほどいつもと変わらない。けれど、以前のような恐怖はなかった。
 芳川会長のことを理解できない、そう思っていた。ずっと、俺には何故そんなことができるのかわからなかった。怖かった。それでも、今だけはほんの少しだけその気持ちが分かった。

 自分の手で阿佐美を傷つけた時、直前まで頭に無数に湧いては思考をかき乱していた不安や恐怖、動揺といった感情が阿佐美の熱とともに消え失せていた。
 嘆くことも、怒ることも、弔うこともなにもかもがおかしい。
 手を下したのは俺だ。俺が、殺した。
 それだけが事実であり、それ以外は全て俺が持つべき感情ではなかった。

 芳川会長はなにも言わなかった。予め用意していたらしい着替えを差し出される。芳川会長の私服なのだろう、いつも会長が用意してくれた新品のサイズのぴったしのものではなく、少し大きめのTシャツだ。俺はそれに着替えた。
 似合うとも似合わないとも会話なんてない。着替えた俺を一瞥した会長は「行くぞ」と小さく口にする。そして、そのまま俺を置いて玄関口へと向かって歩き出すのだ。
 浴室には、阿佐美がいる。阿佐美が、いる。いるのだ、まだあいつが。それでも、振り返ってはいけない。俺は、俺だけは――。


 部屋を出た芳川会長は行き先も言わず、ただ歩いていく。エレベーター、ではなく非常階段へと向かうのだ。道中数人の生徒とすれ違ったが、俺たちだと分かると無言で道を避けるのだ。芳川会長は目すらもくれず、ただ非常口へと向かう。
 夏だというのに非常口は酷く冷たい。鉄の階段を登っていく。俺は、芳川会長の背中をただついていく。この先になにがあろうと、

「……ッ」

 なにがあろうと。

「……ッ、……」

 先を歩いていた芳川会長が立ち止まる。
 何故、と思ったとき、伸びてきた手に手を掴まれた。自分が立ち止まっていたと気付いたのはそのときだ。
 手首の骨が折れるのではないかと思うほど強い力で引き上げられる。手首を掴む芳川会長の掌が酷く冷たく感じるのは俺の体温が熱いからか。
 会長はやはりなにも言わなかった。俺もなにも言えなかった。
 再び二人分の足音が学生寮、最上階へと向かって響き出した。

 学生寮六階――最上階。
 六階は普段一般生徒が足を踏み入れることはまずない。俺も、こうして足を踏み入れた事は初めてだった。
 何故芳川会長がここにきたのかわからないまま、俺はその後ろをついていく。

 他の階同様、いくつかの扉が並ぶ通路。窓の外は暗く、照明すらついていないその場所にとって月の灯だけが頼りだった。
 この先に用があるのだろうかと思った矢先だった。非常階段へと繋がる扉の前、会長に腕を引かれた。抱き竦められるような体制に驚くのも束の間、暫くもしない内に開いたままの扉から人影が現れた。その人物に驚く暇もなかった。芳川会長の手にいつの間にか折り畳みナイフが握られてるのを見て青褪めた。
 一瞬の出来事だった。躊躇なくその人影に襲いかかった芳川会長。待ってくれ、と止める暇もなかった。が、その人物は会長の気配に気付いたようだ。真正面からその刃を右手で受け止める。

「何故、俺達の後を着けていた。――灘」

 掌でナイフの刃を掴んだまま、その人物――灘和真は真っ直ぐに芳川会長を見据えていた。掌から腕、肘へと赤い血が流れ落ちていく。
 灘はやはり、眉一つ潜めることはしなかった。「なにか不都合でも」とただ静かに問い返すのだ。

「いや、ないな」

 ナイフを引き抜いた会長が灘の首筋にその先端を突きつける。灘は自分に向けられた刃先と目の前の会長をゆっくりと交互に見た。

「か、会長……ッ!」
「会長、貴方は冷静さを欠いています」
「そう見えるか?」
「少なくとも、俺の尊敬していた貴方ならばこんな自暴自棄な真似はしなかったでしょう」
「そう思うのならばそれは買い被りだ」

 ぷつりと刃先が首筋に押し付けられる。灘の首筋が赤く濡れていく。シャツの襟まで赤く染まっていくが、灘は顔色を変えないまま芳川会長の手を掴んだ。赤く、血で濡れた手で。

「ここで俺を殺しても何の意味もありません」
「驚いた。命乞いでもするつもりか?」
「いいえ。……ですが、貴方がしようとしていることは貴方のためにならない」
「ならば説教か。……お前らしくない」

 言い掛けて、会長は笑った。自嘲するように、つまらなさそうに鼻を鳴らすのだ。
 灘は、少なくとも会長のことを諦めていなかった。まだ生徒会のためになにかできるのではないのだろうかと考えていた。今、会長がしようとしていることはそれを自ら手で裏切る行為だ。
 止めることは、できた。「これくらいでいいではないですか」と会長の手を掴むこともできた。けれどそうしなかったのは。

「一人か?」
「いいえ。貴方のしていることは他にも筒抜けでしょう」
「そうか」

「なら問題ないな」と会長は灘の胸倉を掴んだ。皮膚に埋まった刃先に出血量は増えていく。首から下を赤く染めたまま、灘は会長のナイフを掴むのだ。血で滑る指先では思うようにいかないのだろう。

「助けを呼ばなくていいのか」
「……、……」
「お前の仲間は薄情だな。お前がこのまま死んでも構わないそうだ」
「――仲間では、ありませんので」

 ほんの一瞬のことだった。芳川会長の手を掴んだ灘はそのまま自分の首に刃を更に埋め込むのだ。瞬間、吹き出した血に会長の手が濡れる。悲鳴を上げそうになったとき、吹き出た血で濡れた会長の手から真っ赤に染まったナイフを取り上げるのだ。灘は片手で首を抑えるが、その出血量まで抑えることはできない。どくどくと溢れる血を滴らせる灘に目を奪われていた。そんな矢先、伸びてきた灘の手に腕を掴まれた。そして、そのナイフの赤く染まった先端が喉元に向けられる。
 濃厚な血の匂い、背後から聞こえてくる灘の呼吸音に息が止まりそうになった。

「……ッ、……」
「――頭を冷やしてください、会長。貴方は騙されています」

 灘の掌から血が垂れる。恐らく、こうして話すことにすら痛みを伴ってるはずだ。立っていることすらも普通なら困難だろうが、灘は俺を拘束したまま淡々と、いつもと変わらぬ調子で続けるのだ。

「俺が、その男に惑わされてるだと? ……だとしたらそれこそ勘違いも甚だしい。俺はいつもと変わらない」
「ッ、会長……」
「俺は元からこういう人間だ」

 どこまでが本気で、どこまでが嘘なのか。俺にはずっとわからなかった。けれど、今ならば分かる。会長の本音なのだと。
 会長は、きっと俺がここで灘に殺されても変わらない。それは本当なのだろう。ショックも受けることはなかった、それでよかった。俺のせいで会長の負担になることはないのだから。
 灘の根が優しいことは知っている。だから、俺を本気でどうこうするつもりはないのだと。
 ――それが悪手だった。

 俺を無視して、灘に殴り掛かる芳川会長。灘はそれを防御しようとしたが、既に致命傷を負った灘の体は思い通りに動くことすら困難な状態だった。辛うじてそれを防ぐ灘。これ以上は危険だ。とにかく灘にナイフを収めてもらった方が早い。そう思ったが、なにもかもが甘かった。
 灘は力を振り絞り、芳川会長の右腕に深くナイフを突き刺した。赤く染まっていくシャツに、芳川会長は己の腕に突き刺さったナイフを見て笑った。確かに笑ったのだ。

「悪足掻きだな」

 ナイフを引き抜き、そのまま柄を握り直した会長が灘に向かってナイフを突き刺そうとしたときだった。

「はーい、ストップ」

 芳川会長のその背後、会長の肩を掴んだその男は場違いなほど柔らかい声で笑った。

「やるすぎでしょ、知憲君。いくら血の気多くてもその子、そろそろ本当に死んじゃうよ?」

 松葉杖に体を預けたまま、縁方人は目の前の灘を見下ろし笑った。

「――詩織みたいにさ」

 何故、この男が知っているか。
 血の気が引いていく。まさか見たのか、それとももう阿賀松が来たのか。
 困惑擦る俺を他所に、会長は縁の腕を振り払う。それを寸でのところで「おっと」と躱し、縁は「危ないな」と驚いたような顔をするのだ。

「俺のことも殺すつもり? フィジカル勝負で芳川君には勝てる気しないから勘弁してほしいんだけどな」

 言い終わるよりも先に、芳川会長の矛先が縁に向くのが分かった。見たところ、足の怪我もまだ完全に治っていないのだろう。それでも今はチャンスでもあった。チャンスとはなんなのか、自分で考えてわからなかったがそれよりも先に俺は灘に駆け寄る。「灘君」とその首から溢れる血を止めようとするが、水のように溢れるそれは留まる気配がない。
 青白い肌には冷や汗が滲み、その唇からも血の気が失せている。咄嗟に触れた指先の冷たさに息を飲む。

「な、灘君……ッ」
「……自分は問題ありません。それよりも、人を」
「……ッ」
「会長を止めたければ、その通路奥にある非常ボタンを押してください」

 喋るたびに血が吹き出し、灘の目が虚ろになっていく。
 会長を止める。違う。最初から、俺はこうなることを分かってて会長についていくことを選んだ。
 非常ボタンを押せば、会長も、俺も――間違いなく終わる。

「っ、齋藤君……まさか、君は」
「…………」

 ごめん、なんて謝る資格も自分にはない。
 俺は灘から手を離した。

「だから言っただろ、灘。芳川君は最初からこういう人間なんだって、自分のためなら他人がどうなっても構わない。胸が痛むこともないんだ、だってどうでもいいやつらばっかだから」

 そう、芳川会長の前。縁方人は笑う。そして通路の非常ボタンごと拳で叩き割るのだ。砕け散るその非常ボタンを再度潰した瞬間、けたたましい音が鳴り響く。胸に突き刺さったナイフを手に取り、引き抜いた。

「イテテ……っ、芳川君意外と結構限界来てるんじゃない? それとも心臓の場所の位置までわかんなく……」

 なっちゃった?
 そう言い終わるよりも先に、会長は縁を殴りつける。「ははっ」と声を上げ、髪を乱した縁は「ご乱心だ」と笑う。

「それともこっちが本当の君なのかな」
「黙れ」
「……ッぐ、ひ、は、はは……ッ! 流石に効くなあ……でも俺はそっちのが好きだよ、普段のつまんない君よりずっと人間らしくていい」

 殴られても怯むどころか挑発する縁。殴られた拍子に血管が切れたのだろう、噴き出す鼻血は縁の顔を赤く濡らし、縁はそれを舌で舐めとった。そしてそれを会長の顔に吐きかける。
 芳川会長の頬からどろりと落ちる鼻血混じりの唾液を見て縁は笑った。次の瞬間、芳川会長が縁の首を締めるのを見て血の気が引く。

「っ、か、会長……ッ」

 鳴り響く警報。何事かと非常階段の下から人の足音が聞こえてくる。恐らく、これが縁の狙いなのだと直感した。
 両手で締め上げられた縁の顔面が青く、赤く、変色していく。額に浮かび上がる血管、汗、見開かれた目と広角を釣り上げた歪なほどの満面の笑み。

「は……ッ、君じゃ、伊織に勝てないよ……ッ、早く逃げた方がいい……ッ、それから、なるべく楽に死ねるように……ッ、ぃ゛……ッ」
「……」

「会長……ッ!」

 いても立ってもいられなかった。縁の上に馬乗りになって首を締め上げていた会長に駆け寄り、その腕を掴む。血管が浮かびあがるほど力が籠もった会長の腕は硬く、俺の力では振り解くことができなかった。

「人が、誰か人が来ます……っ、多分他の先生たちが……」
「………………」
「このまま阿賀松先輩が来る前に捕まったら、意味がないです」

 レンズの下、芳川会長の目がじろりとこちらを睨む。その距離の近さに今になって気付く。必死だったせいか、不思議と会長に対する恐怖心もなかった。振り払われるか、俺も同じように殴られるかもしれない。そう思ったが、会長の反応は想像していたものとは違った。
 縁の首を締めていた手から力を抜き、そして立ち上がる。一気に酸素を補給しようとしたようだ、激しく咽返る縁を一瞥し、会長は「行くぞ」と俺の腕を掴んだ。
 どこへ、なんて言わずとも分かった。
 警報が鳴り響く寮内、俺達は騒ぎに紛れて近くの空き部屋に入る。丁度入れ違いになったようだ、後方から悲鳴が聞こえてきた。血まみれの灘を見つけたのだろう。俺は芳川会長の腕を見た。灘に刺された腕からは血が溢れ続けていた。それでも、俺の手を掴む手は緩むことはなかった。

「……会長」

 少し休んだ方がいいのではないか。
 灘ほどの出血ではないが、会長の横顔に薄っすらと汗が滲んでいるのを見て胸の奥がざわついた。
 そんな俺の問いかけには何も応えず、会長は窓の外をじっと眺めていた。そして、ネクタイを引き抜き慣れた手付きで腕の付け根の辺りを縛る。ネクタイを噛み、キツく縛ったあとその患部を抑えた。

「……っ、お、俺のハンカチも……使ってください」

 会長の掌がべっとりと汚れるのを見て、俺はポケットから取り出したハンカチを渡せば会長はこちらを見下ろし、それから無言で受け取る。薄い、心許ない布切れだ。それでも、少しでも使えるのなら。
 応急処置を済ませた会長はそのまま窓を開いた。瞬間、室内に生温い風が吹き込む。
 物置部屋なのだろうか、使われていないソファーや椅子が置かれたその部屋の中。会長の呼吸が平常に戻っているのを確認して内心ほっと安堵した。

「……行くぞ」
「まだ、もう少し休んでた方が……」
「やつが戻ってきた」

 窓の外、学園関係者専用の駐車場を見下ろした芳川会長は呟く。
 つられて窓の外を見下ろす。いくつかの車が並ぶ中、一台の黒塗りの車が停車するのを見た。その後部座席から現れた人影を見て息を飲む。
 遠くからでも分かるほどの赤い髪――阿賀松だ。
 その姿を見た瞬間、ドクンと心臓が大きく跳ね上がった。全身に汗が滲み、呼吸は次第に浅くなる。
 阿賀松が一瞬こちらを見たような気がして、俺は咄嗟に窓際から離れた。そんな俺を一瞥し、会長はカーテンを閉める。
 薄暗い部屋の中、芳川会長は静かに続ける。

「それに、この部屋にも誰かくるだろう。犯人探しにな」
「でも、部屋の外には人が……」

 明らかに先程よりも騒々しい通路。この暗さとは言えど流石に人目をかいくぐるのは難しいだろう。
 そう口籠る俺に、芳川会長は「窓から移動する」と冷静に言い放つ。

「齋藤君、足に自信はあるか」

 どういうことかと尋ねる前に畳かけられ、俺は首を横に振った。すると「だろうな」と会長の目線が外れた。

「だったら俺の腕にしがみついていろ」

 そして、なんでもないように会長はそんなことを言い出すのだ。差し出された手に、思わずその手を取ることを躊躇った。赤く染まったその腕は先程刺された腕だ。赤い血に濡れたその掌に、血の気が引いた。

「っ、で、でも、会長……怪我が……」
「ならここに残るか?」

 冷たい声だった。
 会長は、俺が嫌だと断れば本気で俺をここにおいて行くつもりなのだろう。それが分かったからこそ、首を横に振った。

「お……俺も一緒に行きます」
「なら言うとおりにしろ」

 時間がない、そう会長は続ける。
 そうだ、俺も芳川会長ももう後戻りできないところまできている。
 あとはもう、目的を果たすことしかできなかった。どんなことをしようとも、この先のために。

「――わかりました」

 会長に従う。そう決めたのだ。
 俺は会長に頷き返した。
 決心はついていた。乾き始めた会長の血がべとりと皮膚につくのを感じながらも、俺は強く会長の手を握り返した。

 ――阿賀松伊織を殺す。
 そうすることでしか、俺達に明日はないのだ。

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