13
「そんで、芳川先輩一人で阿佐美詩織の様子を見にいって、あのゴリ……貴音先輩は芳川先輩の様子を見に行ったってことか?」
「……そう、だね」
なぜそんなに説明口調なのかとか、色々言いたいことはあったがなによりも櫻田がこうして意識を取り戻したというだけでも喜ばしかった。
起き抜けざま再び頭突きをしたりされたりあったが、頭もちゃんと動くようにはなっているようだ。額の上に江古田の用意した袋に氷を詰めただけの簡易氷嚢を乗せ、櫻田はふむふむと頷く。
「俺達は君の看病を見るってことでここで留守番してたんだ」
「……無駄でしたね……寧ろ、もう少し痺れさせてもらった方が緩和されてマトモになれたかもしれません……」
「そ、それは……」
言い過ぎだよ、とあながち言えない。
けれど、俺は知ってる。なんだかんだ言いながらも江古田もいつ目を覚ましていいように気にかけていたことを。こうして氷嚢まで用意してくれたのも江古田だし。
江古田の憎まれ口もきっと櫻田にもちゃんと照れ隠しと伝わっているはず……「んだとチビ?!」……気のせいかもしれない。
「と……取り敢えず、痺れはもう大丈夫? ……滑舌が回らないとかは……」
「……滑舌が悪いのはいつものことですから……」
「お前よりかはマシだボソボソ喋りやがってこの根暗野郎! ハキハキ喋りやがれ!」
「…………大丈夫そうだね」
今度こそほっと安堵する。
でも、まだ気が抜けない状況だ。
こうしてくだらないことで笑えるのも今だけかもしれない。そんな予感がずっと足元から全身へと絡み付いてきていた。
とにかく今はただ芳川会長の顔を見て安心したかった。
そんなときだった。俺の目の前、ベッドに腰を掛けていた櫻田は「よっこいしょ」と当たり前のように立ち上がるのだ。
「……って、櫻田君? まだ動いちゃ駄目だって……」
「問題ねーよ、ほら」
「っ、わ……」
「な、ビリビリしねえだろ?」
言いながら、人の首を撫でてくる櫻田。こういうときの距離感が途端に極端なほど縮まる櫻田にぎょっとする暇もなかった。
見兼ねた江古田が「櫻田君」とぼそぼそと咎めれば櫻田は面倒くさそうに舌打ちをし、そのままぱっと手を離す。
「っつーわけで俺も会長のところ行ってくる」
「……行ってどうするの……?」
「こっちはめちゃくちゃビリビリさせられてんだよ、やり返さねえのは性じゃねえ!」
確かに、櫻田としたら阿佐美は加害者なのだ。
俺も、櫻田には助けられたことになる。それでもやはり看過することはできない。かと言って、こうなった櫻田を俺に止められることはできるのだろうか。
早く連理たちが戻ってこないか願ったときだった。玄関口から物音が聞こえてきた。
俺達は玄関口に目を向ける。そして間もなくして扉が開いた。「会長ーっ!」と先走った櫻田が駆け寄るが、開いた扉の向こうから現れたのは……。
「残念だったわね、アタシよ」
ひょい、と櫻田を躱した連理は「あら、起きたのね洋介ちゃん」と安心したように頬を緩めた。肝心の櫻田は勢いを殺すことに失敗して再び転んでいるが、まあ大丈夫そうだ。
俺と江古田もそそくさと連理に駆け寄った。
「貴音先輩、お一人ですか……?」
「ええ、そうなの。部屋に行ったんだけど、阿佐美詩織はいなかったらしいの。それで、トモ君は……」
そう、連理が言いかけたときだった。
「――どうせこちらが待たずともその内沸いてくるだろう」
聞こえてきたその声に思わず顔を上げた。
連理の背後、もそりと起き上がっていた櫻田は「芳川先輩!」と目を輝かせる。連理も「トモ君」と驚いたような顔をしていた。
――芳川会長は二人の視線を無視し、ただこちらを真っ直ぐに見据えるのだ。
「櫻田が目を覚ましたというのなら、これ以上この部屋に長居するのは迷惑がかかるだろう」
「か、いちょう……」
「……戻るぞ、齋藤君。部屋まで送ろう」
はい、と応える暇もなかった。伸ばされた手に手首を取られる。有無を言わせる隙などない。
それでも、戸惑うことよりも芳川会長が俺に手を差し伸べてくれたことに喜んでる自分がいた。
そう、恐る恐るその手を握り返そうとしたときだった。ふと、会長の手が熱を持っていることに気付いた。制服の袖口が濡れている。
「あら、もう戻るの?」
「ああ。……櫻田、お前はここにいろ。もしかしたらこの部屋にあいつが戻ってくる可能性もある。そのときはすぐに俺に言え」
「はーい! 芳川先輩の仰せのままに!」
どくん、どくんと心臓の音が弾む。
ただ手を洗っただけかもしれない。別に袖口が濡れてようが、拳が熱くなってようが、その手の甲に引っ掻くような傷が走ってようがなにもおかしなことではないはずだ。
和気藹々とした空気の中、自分だけが芳川会長に対する違和感に気付いているのか。
「……? あら? どうしたの、佑ちゃん」
不意に連理に呼びかけられ、全身が凍り付く。
咄嗟に反応しようとして「いえ、大丈夫です」と声が裏返ってしまう。
そんな俺を、芳川会長だけがただ黙って見ていた。俺は、顔を上げることができなかった。
……その手を握り返すことも。
掴まれた手が酷く熱い。緊張しているのか、自分でも分からない。地に足がつかないような感覚の中、俺はただ無言で先を歩く芳川会長の背を追いかけることで精一杯だった。
江古田の部屋を出て、通路を歩いていく。
何もない、全て自分の気のせいである。連理もそう言っていた。そう自分に言い聞かせることしかできなかった。
芳川会長の部屋へと辿り着くまでの時間は酷く永く感じた。二人分の足音と、自分の鼓動だけがやけに煩く聞こえた。
――芳川会長の自室。
会長は何も言わずに扉を解錠し、そして扉を開いた。『入れ』と促すようなその視線に俺も何も答えることができなかった。最初から、逆らうつもりなど毛頭なかった。
会長の部屋の中は荒れた様子もない。なにも、なかった。いつもと変わらない光景の中、背後で会長が扉を閉めるのが聞こえる。
俺は正直ほっとしていた。最悪のことを考えていたからだ。もしこの扉を開けた先にボロボロになった阿佐美がいたら――そんなことを考えては戦々恐々としていた。
けれど、そうではなかった。そんなことはなかったのだ。それだけで安堵する。やはり、全て自分の考えすぎなのだと。
「齋藤君」
そんな中、不意に声を掛けられる。振り返ればすぐ背後に会長がいて、思わず緊張した。
「君に見せておくものがある」
その声はいつもと変わらない、抑揚のない平坦な声だった。
その一言に厭な想像が駆け巡り、一瞬、ほんの一瞬だけ俺は反応に遅れてしまった。
「……っ、お、れに……ですか?」
「ああ、付いて来い」
ほっとしたのも束の間、再び騒がしくなる心拍数を必死に抑え込みながらも俺は会長についていく。部屋の奥、浴室へと繋がる扉へと向かう芳川会長に全身が震える。
何故、何故そっちに行くのか。見せたいものとはなんなのか。どうして。
行きたくない、見たくないと本能が叫ぶ。それでも逃げ出すことができなかった。
脱衣所も変わらない。けれど、嫌な予感だけは感じる。
回る換気扇。熱の籠もった湿気。皮膚を刺すような緊張感の中、芳川会長は浴室の扉を開く。その瞬間、俺は無意識に目を反らしていた。
――悪い予感ほど、的中するのだ。
「阿佐美詩織なら、既に捕獲済みだ。――もう、君が心配する必要はない」
長い手足を縛られ、浴槽の中へと窮屈そうに体を丸めた阿佐美は口をガムテープで塞がれているようだった。濡れた前髪の下、気絶しているかどうかすらも分からなかったがその肩が微かに動いている。
「か、い……ちょう……」
「あいつへの手向けには丁度いいだろう。……齋藤君」
そう芳川会長はどこからともなくナイフを取り出した。その先端は鋭く、鈍く、光を反射する。酷い顔をしている自分がそこに映っていた。
「もうじきあの男がここに来るはずだ」
「っ、……ぁ……」
「君はそこで見ていろ。君が選択したのは、こう道だというのをな」
心拍数が早まる。ぐったりとした阿佐美の体を引き上げる芳川会長。そのまま胸倉を掴み、阿佐美と首筋にそのナイフの先端を頸動脈に押し当てようとしてるのを見た瞬間、脳裏が赤く点滅する。いつの日かの栫井や裕斗の姿が蘇ったのだ。
気がつけば、俺は芳川会長の腕を掴んでいた。ナイフを手にしたまま、目をこちらに向けることもなく芳川会長は動きを止める。
「……なんのつもりだ」
それは、地を這うような低い声だった。
――これは、一番やってはいけないことだとわかっていた。わかっていたのだ。
それなのに、俺は。
「ぉ、俺が……やります……ッ」
ゆっくりとレンズの下、芳川の目がこちらを向いた。冷たい汗が額から滲み、流れ落ちる。蒸すような空気の中、この汗は暑さからではないと俺は分かっていた。
「か、会長だけじゃなくて……俺も、一緒に……やらせてください……」
指先から力が抜け落ちるのを感じながらも、無理矢理拳を作る。
覚悟を決めていた。なにがあっても付いていくと。もう、芳川会長を裏切らないと。
それでも、振り絞ったその自分の言葉は酷く他人のもののように聞こえてしまったのだ。
長い時間だったような気がする。暫くの沈黙の末、「勝手にしろ」と芳川会長は口にした。
「どの道、それは使い物にならないだろうからな」
「口のテープは剥がすなよ、煩いからな」と、阿佐美の胸倉から手を離した芳川会長はそのまま俺にナイフを手渡した。
俺は、驚いていた。芳川会長がこうもあっさりと俺にナイフを渡したことを。
それから、それを受け取ることに戸惑ってる自分も。
これは、俺の望んでいたことではなかったのか。違う。俺は、せめて阿佐美の致命傷を避けられたらと思った。俺ならば、できるのではないか。ほんの一瞬の甘い考えだ。けれど、本当にこれで間違ってなかったのか。
俺と入れ違うように浴室の入口からこちらを眺める芳川会長。そんな会長の視線を背中に受けながら、俺は手にしたナイフの柄を握る。芳川会長の熱が残っている。
「っ、……」
本当に、これでよかったのか。違う、これじゃなきゃ阿佐美は殺されてる。待てよ、このまま阿佐美を早く楽にしてあげた方が阿佐美のためじゃないか。違う、落ち着け。俺は。
――俺は、何をしたかったんだ。
お湯で濡れた阿佐美の体に触れる。恐ろしいほど熱を持った阿佐美に息を飲む。
濡れた前髪の下、薄く開いた阿佐美の目がこちらを向いた。口は塞がれているというのに、『ゆうき君』と俺を呼ぶ声が聞こえるのだ。
「っ、し、おり……」
阿佐美は、やり方は強引であれど俺を死なせまいと動いてくれた。逃げることにも協力してくれた。俺が一人で落ち込んでいるときも側にいて、心配してくれた。
「……ッ、……」
迷ったら駄目だ。分かっていた。今は一人だけじゃないのだ、芳川会長もいる。芳川会長は間違いなく阿佐美を利用するつもりなのだ。
ナイフの柄を握り直し、俺は阿佐美の胸元を掴む。触れた皮膚越しに阿佐美の心音が一層大きく伝わってくるのを感じた。まだ、阿佐美は生きてるのだ。
「――……っ」
――……ごめん、詩織。
指先が白くなるほど強くナイフを握り締める。
ほんの一瞬、阿佐美が諦めたように目を瞑るのを見て見ぬふりして、俺はその刃の切っ先を阿佐美の身体へと突き立てた。
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