天国か地獄


 10【side:芳川】

 学生寮四階、自室前。
 連理とともに戻ってきたその場所には明らかな変化があった。自室前、その扉にもたれかかるように寝転がっている人影を見つけるなり連理は「洋介ちゃん!」と駆け寄った。

「洋介ちゃんっ、洋介ちゃん!……よかった、生きてるみたいね」

 そもそもこいつがただで死ぬとは思わない。
 見ればわかる、顔色も悪くない。ただ気を喪っているだけだ。
 けれども、何故こいつだけをここに捨てているのか。
 その理由は少し考えれば分かるものだつた。

「連理、それを部屋まで連れていけ」
「えっ?でもトモ君は」
「阿佐美詩織を探す」
「それならアタシも……っ」
「必要ない。……それより、打ちどころが悪いかもしれない。様子を見てやれ」

 ぐったりとしてる櫻田を見て置いていくわけにはいかないと判断したようだ。連理は少しだけ考え込み、「分かったわ」と苦々しく口にする。

「けど、一人で無茶な真似はしないでよ。佑ちゃんも心配するだろうから早く戻ってきて、お願いよ」
「分かった」

 余計なお世話だ、と出かけた言葉を飲み込んだ。
 そのまま軽々と決して華奢ではない櫻田を背負った連理はそのままエレベーター乗り場へと向かう。それを確認して、目の前の扉を見た。

 ――阿佐美詩織。二年生。
 去年、突如編入してきた転校生だ。編入テストは満点を取り、常に学年の主席に居座っていた。それなのに、ろくに授業には出ない。部屋に引き籠もり、それでも成績は優秀なので教師たちもなにも言わない。
 最初からなにもかもが不自然だったのだ。
 阿佐美詩織という人間はこの世に存在しない。入学したデータもなければ戸籍もない。それなのに阿佐美詩織はこの学園に一人の生徒として存在していた。それは、学園側の協力がなければ到底無理な話だろう。
 扉に鍵はかかっていなかった。ドアノブを掴めばすんなりと扉は開く。ひんやりとした空気が流れ込んできた。
 そして見慣れた部屋の中、その男はいた。

「……芳川君」
「なんだ、もう会長と呼ぶのは辞めたのか」
「もう君は会長じゃなくなったからね」

 阿佐美詩織と名乗るその男はソファーに腰を掛けていた。最初から俺が部屋に戻ってくるのを分かっていたのだろう。
 驚くわけでもなく、ただそう淡々と続ける。いつものおどおどとした様子も吃りもない、この男の素がどちらなのか興味もない。それでも、人の部屋に土足であがられるのは不愉快だった。

「こんなまどろっこしい真似をせず最初から俺を呼べばよかったはずだ」
「……勘違いしてるようだけど、俺は君には興味はないよ。……正直、どうでもいい」
「何故お前が齋藤佑樹に固執する。……――阿賀松伊織」

 阿佐美詩織――改め、阿賀松伊織はただ変わらない様子で俺を見ていた。

 阿賀松伊織がこの学園で二人存在していることは極一部の人間しか知らない。俺が知ったのもきっかけは偶然だった。
 あの日も、今と同じような酷く凪いだ気持ちだったのをよく覚えている。音もなく、興奮もない。ただ冷静だった。
 志摩裕斗がいなくなった学園で唯一目障りだったあの男を始末する。俺の頭の中にはそれしかなかった。
 けれど、それは成功し、失敗した――この男のせいでだ。
 ゆっくりと立ち上がった阿賀松は前髪を掻き上げる。長い前髪で隠されてきた髪の生え際付近、額の一部の皮膚が薄く伸びている。その傷口には覚えがあった。俺がこの男の頭をカチ割ろうとしたときにできたものだ。
 その目はただこちらをじっと見ていた。怒りもなにもない。

「俺は、君に対して怒りもない。君の考え方は理解できるからね。けど、彼はなにも関係ない。ゆうき君を俺達に巻き込むのは間違っている」
「それならお前の片割れに言ってやったらどうだ」
「君は分かってるだろ。俺に伊織は止められない」
「…………」

 話にならない。ならばすっこんでいろと言ったところでこの男はそうしない、間違っていると思いながらもその行動言動、なにもかもが矛盾している。
 ――だから目障りなのだ。けれど、今の俺にとっては都合のいい存在であることも違いない。

「それで、あいつを使って俺を誘き出して潰すつもりだったのか?その身体で」

 あの男と遺伝子を分け合った双子でありながらもその身体能力は劣っている。後遺症の残ったその身体では一般的な男子生徒にすらも力負けするだろう、それはこの男も自覚してるはずだ。
 阿佐美詩織が授業に出ず、不登校になったのは著しい体力の低下が原因だろう。人以上に食事を取って栄養を補おうとしてもその身体も筋肉もボロボロになっているはずだ。
 現に、阿佐美はなにも言わない。だとすれば、こうして無駄な時間を過ごす理由は一つ。

「それとも、大好きなお兄ちゃんにおねだりでもするのか。助けてくれって泣きついて。……わざわざ時間稼ぎをしてまで」
「分かってて君は俺の話に付き合ってくれるんだね」
「生憎、俺もお前の兄貴に用事がある。寧ろ手間が省けて助かったところだ」

 逃げも隠れもせず、俺がここへ来ると分かっててただのんびりとしているわけではない。
 扉に内鍵を掛ける。どうせあの男は合鍵を使うだろう。それでも関係ない。少しの時間稼ぎになれば十分だった。
 戸棚を開けば、隠していたバッドのなにもなくなっている。瞬間、背後に人影がした

「もしかして、君が探してるのはこれ?」

 そう阿賀松の声が背後からした瞬間、身を屈めた。頭上を通り抜けるバッド。寸でのところで躱したとき、首筋にばちりと押し当てられるそれに目を向けた。話に聞いていた通り、その手にはスタンガンが握られていた。

「……ッ、は」

 首筋に太い鉄の杭を打たれたような痛みが走る。毛穴が開くような感覚とともに脳が白く染まる。が、堪えられないものではない。寧ろ、目を覚ますような激痛に笑いが漏れた。
 阿賀松の手首を掴み、そのまま自分の首から引き剥がせば目の前のやつの顔が驚きに染まる。

「……っ、な……」

 末端が痺れるような感覚はあったが、それもすぐに回復する。スタンガンをもぎ取り、その塊をやつの胸――心臓に押し当てた瞬間やつの全身の筋肉が大きく跳ね上がった。

「ッ、あ゛……ッ」
「……だから、お前は甘いんだよ。あいつなら、確実に心臓を止める方法を選ぶ」

 反射的に逃げようとするやつの胸倉を掴み、先端を押し当て続ければやつの筋肉が突っ張ったまま硬直する。焦点の合ってない目がこちらを睨む。声を発することもできないようだ、それでも尚俺を止めようと食い込む指に力は入った。

「ぉ゛、……まえ……ッ」
「まだ喋られるのか。……元から麻痺してるようなやつには通りにくいのか」

 ならば電圧を上げてやろう。スタンガンを操作し、やめろと制止してくるやつを無視して再びその心臓に押し当てた瞬間聞いたことのない声を上げる阿賀松。
 やつの身体から響くスパーク音を聞き流す。皮膚を引っ掻く爪先すらも痛みはない。
 押し当て続ければ、その悲鳴も次第に聞こえなくなる。吹き出した汗。麻痺してるのか、それとも痙攣か。小刻みに痙攣していたが、それも次第に収まっていく。
 スタンガンで人が死ぬとは聞いたことがないが、気絶するほどの電流は流れてるようだ。俺の腕を掴んだままそのまま気を失っているやつを引き剥がした。

「つまらんな」

 手応えもなにもない。けれど、この男をこのまま帰すつもりはなかった。ビリビリと痺れる指先を拭い、落ちた鉄バッドを拾い上げる。
 こいつには聞きたいことは山ほどある。
 それに、あの男が戻ってくるならばもてなしくらいはしてやらなければ気が済まなかった。

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