天国か地獄


 09

「っ、……」

 詩織、と喉元まで出かかって飲み込んだ。櫻田に制服を掴まれ、背後に隠される。
 そして、俺と阿佐美の前に立つのだ。

「悪いけど今お取り込み中なんすよね、お喋りならまた今度……」
「……」
「おい、人の話聞いてんのかよ」

 櫻田の制止も無視して阿佐美はこちらへと近付いてくる。その長身がゆらりと揺れた。
 俺の方へと歩みを進める阿佐美に、咄嗟に櫻田が動いた。
 そして、櫻田が阿佐美に掴みかかるのを見て思わず「待って」と声を漏らしてしまう。
 瞬間、阿佐美の目がこちらを見た。見開かれた目、そしてその血の気の失せた唇が動く。

「……っどうして……どうして、帰ってきたの……?」

 ゆうき君、と動くその唇に俺はただ全身が、指先から熱が抜けていくのを感じる。不思議と心の中は凪いでいた。

「……ゆうき君」
「さっきからごちゃごちゃと……っ、おい、いい加減に諦めろっての……ッ!」

 躊躇などなかった。阿佐美の胸倉を掴んだ瞬間、櫻田が拳を固めるのを見た。咄嗟に櫻田の背中にしがみつき、その腕を止める。全身の体重を掛けるが、舌打ちをした櫻田に振払われた。
 受け身など取ることもできず、そのまま床に尻餅を付けば櫻田はハッとしたような顔をする。それでも慌てて立ち上がり、待って、と今度こそ櫻田の腕を掴めば櫻田がこちらを睨んだ。

「っ、なんだよさっきから」
「っ、待って……お願いだから……」
「ああ?だってこいつは……」

 と、櫻田が言いかけた矢先だった。何かが弾けるような凄まじい音ともに、櫻田が目を見開いた。その視線の先、無表情で立つ阿佐美が手にしていたそれを見て息を止める。
 黒い塊はスタンガンだ、それを櫻田の首筋に押し当てた阿佐美はそのまま崩れ落ちる櫻田の体を支えた。

「っ、待って、詩織、それ……ッ」
「………………」

 なんで何も言わないのか。どうしてそんなものを持ってるのか。そして、なんで櫻田に使ったのか。頭の中思考が巡る。逃げなければならない、そう脳内で鳴り響く警笛。
 それなのに、まだどこか希望を抱いている自分がいたのだ。話せば阿佐美も分かってくれるのではないかと。……先に裏切ったのは、俺だというのに。

「っ、……し、おり……」
「……ゆうき君」

 そう、伸びてきた手に息を飲む。その指先が頬を触れそうになったとき、櫻田が阿佐美の手を掴んだ。

「っ、に、げろ……ッぐ、ぅ゛……ッ!!」

 櫻田の言葉を遮るように躊躇なく二発目スタンガンを押し当てる阿佐美に血の気が引いた。痙攣を起こす櫻田、それでも阿佐美の手を止めていた。
 考えるよりも先に、俺は駆け出していた。櫻田を助けなければ、そう思うが今の丸腰の俺では阿佐美に捕まるのがオチだ。
 すぐに、すぐに助けに行くから――ごめん、櫻田君。
 そう口の中で呟き、駆けていく。阿佐美は運動が苦手だと言っていた。早々追い付かれないと思いたかったが、それでも手足が冷たく震えて上手く動けない。
 とにかく、芳川会長の部屋から離れよう。どこへかなんて考えていない。

「っ、待って、ゆうき君……ッ」

 一瞬、ほんの一瞬。そう聞いたことのないほどの大声を張り上げる阿佐美の声が縋りつくような子供のように聞こえた。
 それでも、後ろを振り返ることはできなかった。
 心臓から全身へと血液が流れていくのが分かった。
 どうしよう、芳川会長に、けどそんなことしたら阿佐美が。けど。

 ――学生寮四階、非常階段。
 扉を背に息を吐く。阿佐美はまだ追いつかないはずだ。そうわかっていても、ずっとここにいるわけにはいかない。
 どうすれば、と考えたときだ。不意に、制服のポケットの中に違和感を覚えた。ポケットに手を突っ込めば、指先に触れた何かが触れた。
『それ』を取り出せば、そこには部屋の鍵が入っていた。俺の鍵ではない――もしかして、と息を飲んだ。
 櫻田の部屋の鍵か?ルームナンバーらしき番号が表記されたキーホルダーもぶら下がっていた。この短時間で俺のポケットに鍵を入れられる人間は限られてる。
 考えるよりも先に俺は階段を下った。向かう先は学生寮二階、一年フロアだ。

 ◆ ◆ ◆

 一年フロアに来るなんて早々ないので道に迷わないか心配だったが、幸い部屋順は二年フロアと相違ない。
 部屋の番号を確認しながらも歩いていく。三階同様、その階に人気はなかった。
 そして目的の櫻田の部屋が近付いていることに気が付く。そのまま部屋まで向かい、扉の前へと立つ。そして恐る恐る鍵を使えば、あっさりと扉のロックは解除された。
 緊張する手でドアノブをそっと捻れば、ゆっくりと扉は開く。
 そして、息を飲んだ。

「……っ、……」

 明かりのついたままの部屋。
 そして奥から聞こえてくるのは誰かの声。人がいる、と気付いた瞬間、扉の影からゆっくりと人影が現れた。

「……あれ……」

 そう、ぽつりと。吐き出すようなそのか細い声、視線を僅かに下げればそこにはクマのぬいぐるみがいた。……違う。

「……櫻田君……じゃ、ないんですね……」

「……ご無沙汰、してます……」先輩、と今にも消え入りそうな声とともにくまのぬいぐるみの奥から覗いてくるのは江古田だった。
 何故、江古田がここにいるのか。
 普通に考えれば櫻田のルームメイトが江古田ということなのかもしれないが、それでも、今この状況で他者と出会うのは避けたかった。それも、先程芳川会長の部屋までやってきていた江古田だ。
 江古田のことを信じたい反面、阿佐美を見てしまった直後で思ったよりも自分が動転していることに気付いた。

「……先輩……?」

 固まる俺を不審に思ったようだ。そう尋ねてくる江古田に、俺は考えるよりも先に思わず江古田の肩を掴んでいた。

「っ、……江古田君、櫻田君が……」
「……また、なにかしでかしたんですか……?」
「違う、俺を庇って」

 俺はまだいい、それでも、櫻田のことが気掛かりだった。そう口にすれば、江古田はふう、と小さく息を吐く。

「……取り敢えず、説明してもらってもいいですか……櫻田君のことは、それから決めるんで……」

 取り乱すわけでもなく、相変わらず俺の目を見ないまま江古田は口にした。いつもと変わらない江古田のお陰か幾分冷静さが戻るのが分かった。
 俺は江古田に事情を説明する。……阿佐美のことも、スタンガンのことも話した。巻き込むような真似をしたくはない、阿佐美のことを悪だと思いたくない。そもそもこれは俺が招いた結果なのだ、そううなだれる俺に江古田は携帯片手に「……ややこしくなるので結果だけ言ってください……それ以外の余計は情報はいらないので……」と呟くのだ。そして全てを話し終えたとき、江古田の部屋の扉が叩かれる。
 ノックの音に過敏になっていたが、江古田はすぐに扉を開こうとする。江古田君、と止めようとするが江古田はそれを無視して扉を開いた。
 瞬間、弾かれるように扉が開いたのはほぼ同時だった。

「りゅうちゃん!!洋介ちゃんが危険な目に遭ってるって本当なの?!」

 間一髪、手にしていたくまのぬいぐるみを緩衝材にすることにより扉を防いだ江古田だったがあまりの勢いにぺたんと尻もちを付いていた。
 そして現れた客人に、江古田は座り込んだまま「……ええ、らしいですよ……」と口にした。
 ――親衛隊総隊長、連理貴音。
 あまりにも強力な助っ人の登場に、俺は隠れる暇もなかった。
 まさかこんな形で再会するなんて。
 それは連理も同じのようだ。俺の姿を見るなり、まるで幽霊でも見たかのように目を見開くのだ。

「って、うそ、佑ちゃん……?!」
「……ご無沙汰してます、貴音先輩」

 気まずくないわけがない。
 それでも、ここで無視をするのもおかしな話だ。
 そう、頭を下げて会釈をすれば連理はうる、と目を潤ませたがそれも一瞬、俺の怪我を見ると顔を顰めるのだ。

「無事だった……わけじゃなさそうだけど、良かったわ。ずっと探してたのよ……怪我は?痛いところはない?」
「は、はい……あの、でも俺よりも……」
「あっ、そうだったわ!洋介ちゃんよね」

 本気で心配してくれていたようだ。駆け寄ってきた連理だったが、すぐに気を取り直したように江古田に向き直る。

「りゅうちゃん、さっきのメッセージどういことなの?」
「……どうもこうも、齋藤先輩から聞いた内容まんまです……」
「その、櫻田君が俺を庇ってくれて……その、阿佐美に」
「阿佐美って……二年の子よね。でもなんであの子が洋介ちゃんを?」
「それは、俺を庇ってくれて」

 阿佐美が櫻田と敵対する理由などそもそもない。
 阿佐美はあのとき間違いなく俺を探しに来ていた。櫻田は巻き込まれてしまったのだ。

「……正直、櫻田君なら心配しなくても大丈夫だと思います……阿佐美先輩が齋藤先輩を尋ねてきてるというなら、齋藤先輩が櫻田君を助けに来るのを待つのに利用するくらいかと……」

「……そもそも、あの人がそんなことすること自体あんまりイメージ付きませんけど……」そうぽそぽそと呟く江古田。
 確かに、と以前の俺ならば江古田の意見に同意してただろう。けれど今の俺にはもう阿佐美のことが分からない。
 本位ではない、と信じていたかった。
 けれど、あのときの躊躇いのなさを見て阿賀松が重なって見えたのだ。
 ……阿佐美はなんとも思っていない。

「でも、それでも……このままじゃ櫻田君が……」
「なーに言ってるのよ佑ちゃん、りゅうちゃんもなにも助けに行くなとは言ってないのよ!ねっ?」
「……いえ、僕はふよ……」
「そのためにアタシが来たんだから、洋介ちゃんのことは心配しないで!」

 そう肩を掴まれ、ぎょっとする。明るい笑顔、俺のことを励まそうとしてくれてるのだろう。
 そんな連理の明るさに救われる。その隣で江古田は「……人の聞いてください……」と連理の背中をぽすぽすぬいぐるみで叩いていた。そして連理にぬいぐるみを取り上げられる。

「洋介ちゃんはアタシに任せて、りゅうちゃんはここで佑ちゃんと待機してね」
「……一人でいくつもりなんですか、いくらゴリ……先輩でもなにかあっては一人では都合悪いかと……」
「そんなわけないでしょ、ちゃーんとナイト様は呼んでるわよ」

「ナイト?」と俺と江古田の声が重なった。
 そのとき、部屋の扉が荒々しく叩かれる。まさか阿佐美が来たのかと怯えたが、玄関扉へと歩み寄った連理は「来たようね」とこちらに向かって微笑んだ。そして扉が開く。
 扉の向こう、佇んでいた人物に思わず息を飲んだ。

「……っ、会長……」

 ――芳川会長だ。
 俺の方をちらりと見た芳川会長はすぐに連理に向き直る。

「阿佐美詩織の居場所は確認した。……あいつは俺の部屋にいる」

「伸びた櫻田も一緒にな」と続ける芳川会長。
 状況が状況だ。それでも俺に触れようともしない会長に連理は何か言いたげだったが、諦めたようだ。

「分かったわ。じゃあ、行きましょうか」

 そう、芳川会長と共に出ていこうとする連理。二人の背中に思わず「あの、俺も」と着いていこうとすれば、その先を続けるよりも先に「駄目だ」と芳川会長が声をあげた。
 俺を止めようとして手を伸ばしていた江古田も驚いたようだ、びくりと反応する。

「お前はここにいろ」

 一刀両断、取り付く島もない。

「トモ君、他にも言い方ってんなあるでしょう」
「いいから行くぞ。先手を打たれると面倒だ」
「はいはい、分かったわよ」

 そう先に部屋を出ていく芳川会長に肩を竦めた連理だったが、出ていく直前こちらを振り返り「気にしないでね、佑ちゃん」と口を動かす。
 連理も気を遣ってくれたのだろう。それでも、芳川会長のあの態度も俺を心配してくれてるからだろうと思うと落ち込むこともなかった。
 ……芳川会長のことがほんの少しだけ分かったからかもしれない。
 それでも心配じゃないとなると嘘になる。
 どうしても、芳川会長が栫井から助けてくれたときのことが過るのだ。
 連理も一緒にいるのだからあんなことはないと分かってても、芳川会長の目的は阿賀松を引っ張り出してくることなのだ。
 ……俺は、誰の心配をしてるのだろうか。
 芳川会長?……阿佐美?
 考えてはいけないと無理矢理思考に蓋をする。それでも、胸の奥がざわつくのだ。

 暫く考え込んで動けないでいると、ふと江古田に腕を掴まれる。そして江古田はそっと「……どうぞ……」とぬいぐるみを抱えさせてくれた。これも江古田なりの励ましなのだろう。
 ……ありがたくもらっておく。

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