07
どれほどの時間が経ったのだろうか。離れ難く、動くことすらできなかった俺の腕の中、会長が顔を上げた。
「っ、会長……」
思わずぎゅっと回した手に力が入ってしまう。
緊張すらも心地よく感じるのだ。俺の腕を掴むこの手に拒まれていないと分かったからだ。
すると、伸びてきた手に頬を撫でられる。殴られるわけでもなく存外優しく触れられ、驚いた。
「ぁ、の……っ?」
「殴られたのか」
マスクで隠していたが、どうやら会長には気付かれてしまったようだ。痛みも腫れも引いていたが、微かに残った跡を触れられ俺は言葉に詰まる。
「阿賀松か?」
尋ねられ、俺は小さく頷き返す。会長は何を考えてるのか分からない、いつもと変わらない調子で「そうか」とだけ口にした。
けれど、指は離れない。すり、と指の腹で優しく触れられる。「痛むか?」と尋ねられ、首を横に振った。
「ずっと、あの男といたのか」
少しでも俺のことを気にしていてくれたのなら、そう思うことは高望みだと思っていた。けれど会長に尋ねられ、胸の奥がじんわりと熱くなる。
それと同時に俺の頭には阿佐美と裕斗の顔が浮かんだ。
……裕斗が生きてるということは、芳川会長に知られてはいけない。それだけが頭の裏にこびりついていた。
どこから話せばいいのか分からなかった。
「ずっとじゃありません」と、俺は言葉を選ぶ。
「怪我をして、暫く病院に入院してました。……そのあとのことは、よく覚えてなくて」
それは、予め阿佐美から聞かれたらこう返すといいと教えられていた言葉だった。……怪我ではなく、あくまで体調不良と突き通せと言われたがそれは芳川会長には通用しないだろう。
「怪我?」と目を細める会長。俺はシャツの裾を持ち上げ、まだうっすらと残った腹部――志摩に刺されたの傷の縫合部を曝した。
皮膚が伸び、薄くなったその傷を見た会長は「そうか」とだけ口にした。
「痛みは」
「今は、大丈夫です」
「誰にやられた」
その声は酷く冷たく響いた。
会長はこれが刺し傷だとすぐに分かったのだろう。伸びてきた指は傷跡に伸び、触れる。
「俺に知られると不都合な相手か?」
「……それは」
「志摩裕斗が消えたのと、この怪我は関係あるのか?」
恐らく、会長は気付いているのだろう。
俺と裕斗のこと――それから、阿佐美や阿賀松がどう関わっているのかも。それでも、今この場にはいない裕斗のことを芳川会長に告げるのはよくないと分かっていた。裕斗が生きてると知られるのだけは。
「裕斗先輩は、俺を庇って……」
今でも鮮明に思い出せる。刺されたときの刃物の感触も、あのときより近くに感じた恐怖にも。……志摩の目も。
芳川会長は驚くわけでもなく、ただ黙っていた。
会長が裕斗のことを快く思ってるわけではないと分かっていた。けれど。
「――志摩亮太か」
ぽつりと芳川会長が口にしたその名前に、全身が凍り付く。まさか見られていたなんてことはないはずだ、そう思いたいが、目を見開く俺に会長は「図星か」と静かに続けた。
「ど、うして」
「あの男を刺そうとする人間なんてゴロゴロいるが、君を優先して刺そうとする人間は限られてるからな」
「……ッ」
「君と志摩裕斗が姿を消した同時期から姿を消した生徒となると絞られてくる。縁方人、あの男も怪しいが……あいつは君よりも先に志摩裕斗を刺すだろうからな」
芳川会長がどこまで知って、気付いているのか分からなかった。会長相手に嘘や誤魔化しは墓穴を掘るだけだと分かっていたつもりだったが、本当に全部気付かれてしまっているのではないかと恐ろしくもなる。
それに、気になることもあった。
「っ、志摩は……いないんですか」
「志摩亮太なら当分見ていない。志摩裕斗もだ。縁方人、阿佐美詩織……それと君もだ。そしてようやく顔出したのは阿佐美詩織と君だけだ」
……縁が戻ってきていることは会長も知らないのか。
けれど、志摩には俺も会っていない。嫌な汗が滲む。再会したときの縁の姿を思い出し、背筋が薄ら寒くなった。動悸が浅くなる。そんなことはないはずだ、と思いたいが相手は阿賀松だ。
――俺が死んでも替え玉を挿げ替えようとした阿賀松伊織なのだ。
血の気が引いていく。冷たい汗が流れる。言葉を吐くこともできなくなる俺に、会長も何も言わなかった。その代わり、立ち上がるのだ。
どこに行くのかと視線で後を追いかければ、そのまま会長はグラスに飲み物を用意する。そしてグラスに注がれた水に口をつけた会長は「君も座れ」と静かに促すのだ。
末端が痺れるようだった。俺は覚束ない足取りでソファーに腰をかけ、会長の用意してくれた水を喉に流し込む。
「俺には君だけが戻ってこれた理由が分からない」
「……俺、だけ……」
「あの男の考えることだ、君が忠誠を誓わない限り君のようななにもかもを知ってる不都合な存在を野放しにするとは思えない」
会長の言葉は鋭い。
元より阿佐美も阿賀松も、俺を俺として戻したつもりはないのだ。何も知らないサイトウのつもりでこの学園へと戻した。
「……俺は、」
会長のことを信じたい気持ちと、会長を巻き込みたくない気持ちがせめぎ合う。下手すれば俺だけではなく裕斗たちにも迷惑が掛かる。
けれど、会長をこれ以上騙すような真似をして傷付けたくないというエゴが強く芽生えるのだ。とっくに手遅れだとわかっててもだ。
けど。
「……俺は、一度殺されました」
会長が顔をあげる。視線が突き刺さる。
何を言ってるのか、俺だって分からない。けれど、事実なのだ。
「それでもここに戻ってきたのは、やり残したことがあったからです」
「やり残したこととはなんだ?」
こんな荒唐無稽な俺の話を聞いた上で尋ねてくる会長。鼻から信じるつもりはないのか、それでも俺にとっては十分だった。
「阿賀松伊織に然るべき処罰を受けてもらいます」
案外その言葉はすんなりと口から出てきた。
芳川会長が相手だからか分からないが、俺の言葉を聞いた会長の視線が僅かに揺れた。
そして、こちらを睨むように見るのだ。
「……本気で言ってるのか」
「本気です」
「勝算はあるのか」
「あの人に俺を殺させます、そうしたら現行犯で……」
「馬鹿が」と会長が声を荒げるのと、俺の腕を掴むのはほぼ同時だった。手元のグラスが傾き、中の水がテーブルを濡らす。それを拭うことすらも許されなかった。
先程までずっと表情を崩さなかった会長の顔に浮かぶのは怒りだ。至近距離で睨まれ、思わず息を飲む。
「あの男がそれぐらいで動じるようなやつなら、俺がとっくの昔にやっている」
「会長……?」
「あの男が好き放題やって何故まだここにいるのか分からないか?警察が取り合わないからだ、あの男の後ろ盾が邪魔だからだ。死人が出たところで不運な事故として処理されて終わりだ。事件として取り扱われることはまずない、その前に揉み消されるからだ」
「……っ、そ、れは……」
会長の熱量と言葉に気圧され、思わず口籠る。俺だって、阿賀松の家柄や人脈のことは考えた。それでも流石に死人が出ればと思ったが、俺の目論見が甘かったのか。
「あの男に正当法は効かない。君がいくら体を張ったところで行方不明者が一人増えるくらいだろう」
「……ッ」
「君は無駄死したいのか?」
いくら辛い思いをしようが、どれだけ耐えようが阿賀松には一ミリも伝わらないまま息絶える。最悪死よりも辛い目に遭う可能性がある。……それは汎ゆる可能性の中でも一番最悪なものだった。
何も言えなくなる。だったら俺はなんのためにここまで戻ってきたのか。阿賀松に復讐するため?その復讐すらもまともに果たせないならばなんの意味が。
「……話にならんな」
苛ついたように前髪を掻き上げる会長。その一言にびくりと震えたとき。
「君は余計なことを考えるな」
「っ、会長……」
「俺はもう会長ではないと言ったはずだ」
俺が居ない間にリコールされた、と会長は阿佐美に言っていたのを思い出す。
「皮肉なもんだな、こっちの方がよほど性に合ってる」
「ぁ、の……」
「あの男を裁くのに一番手っ取り早くて確実な方法が一つある。
――司法に頼らず、私刑に掛けることだ」
そう、会長はなんでもないように口にした。
その目は笑っていない。
シケイ――私刑。
会長が言わんとしてることに気付き、思わず息を飲んだ。つまり、会長は阿賀松を。
「……そ、んなことしたら、会長は」
リコール騒ぎどころではなくなるのではないか。
青ざめる俺に、会長は呆れたように笑うのだ。
「自分が下手したら犬死にする選択をしておいて何を言ってるんだ」
「っ、でも……」
それとこれとはまるで話が変わってくる。
既に心が決まっているのだろう、気休めの言葉では会長が揺るがないのはわかっていた。それでも言葉を探すが、見つからない。
そんな俺をただじっと見つめたまま、芳川会長は口を開くのだ。
「――依願退学することになった」
その一言に、思わず顔を上げた。
「どの道お終いだ。あいつに終わらされるくらいなら俺の好きなようにするだけだ」
何故、この人はこんなに平気な顔をしてそんなことを言うのか俺には分からなかった。
悔しそうにするわけでもなく、淡々と。まるで当たり前のように口にする会長に胸の奥が苦しくなる。咄嗟に、俺は会長の腕を掴んだ。
会長のし線はこちらを向いたまま離れない。
「っ、どうして……」
「元々そういう約束だったからだ。その約束を俺が破った」
「約束?」
「……この三年。卒業するまで問題を起こさずにいることだ」
ああ、と思った。俺は何もこの人のことを知らないのだと知らされた。会長は何も教えてくれなかった。それで、俺のせいで会長は。
「何故、君がそんな顔をする」
「っ、ごめんなさい……俺が……」
君のせいだ、君のせいで台無しになった。そう会長に言われたときのことを思い出した。そして、その言葉の真意をこんな形で知らされるのだ。
知っていたら、俺は最初から会長を頼らなかったのに。俺が会長を巻き込んだせいで。
ごめんなさい、と繰り返そうとしたとき。伸びてきた手に顎を掴まれる。強引に視線を合わせられ、息を飲んだ。
「後悔してるのか?」
冷たい声だった。それでも、その声は柔らかく響いたのは会長の目がどことなく優しかったからかもしれない。
俺は、自分自身が分からない。何が最善なのかもわからない、それでもずっと迷いながらも必死に振り落とされないようにしがみつくのが精一杯だった。
けれど、これだけは言える。
「……俺は、会長に着いていきます」
阿佐美の手を振り解いたときにはもう決まっていた。善悪もなにも関係ない、自分の本能に従うだけだ。頭と心は噛み合わない、それでも心が強く会長といることを望んでいた。償いか罪悪感か未だ分からない。それでも、どうだっていい。
会長は何も言わなかった。その代わり、唇を塞がれる。深く口付けされ、俺は逃げなかった。その腕にしがみつき、口を開いて会長を招き入れた。
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