天国か地獄


 06

「声は出るのか」

 会長の言葉は冷たく胸の奥に突き刺さる。
 咄嗟に口を紡ぐが、遅い。指が震える。会長が目の前にいる。駄目だ。取り乱すな。そう自分に言い聞かせるが、手足が酷く冷たくなっていくのだ。違う。心臓が焼けるように熱い。

「会長。貴方はゆうき君に接近禁止命令が出されていると伺いしましたが」
「なにか誤解してるようだが、俺はもう生徒会長ではない。それに、俺たちはただの通りすがりだ。まさかリコールされた身分ならば部屋から出るなとまで言うつもりか?」

「あの男と同じように」と続ける芳川会長に、阿佐美の周囲の空気が明らかに変わるのを肌で感じた。
 怒ってる、いや、違う――警戒しているのか。
 空気感に堪えきれず、十勝がなんとなく居心地悪そうに会長を止めようとしていたが、芳川会長はそれを無視して阿佐美に向き直る。

「そういえば阿佐美、お前も暫く休みだったらしいが二人で仲良く旅行でも行ってたのか?」

 目の前、俺を背に庇うように立つ阿佐美だったが、阿佐美に触れられた肩からその指に力が籠もるのが伝わってくる。
 会長、阿佐美のことを嗅ぎまわっていたのか。含みのある物言いに阿佐美は「いえ」と即座に否定した。

「俺は私用で休みをもらってただけです。それじゃあ、俺たちはこれで」

 失礼します、と最後まで会長に対する姿勢は崩さなかった。小さく会釈した阿佐美は再び俺の手を引く。
 阿佐美は芳川会長と俺を会わせないようにしている。俺のためなのか、それとも不都合だからか。恐らくその両者だろう。
 阿佐美の考えは分かった。俺だってそうするだろう。それでも――強く後ろ髪を引かれる。
 阿佐美に手を掴まれ、強い力でいっぱられる。後ろを振り返ってはいけない。今はまだ、駄目だ。堪えろ。そう言い聞かせる。煩いくらい脈打つ心臓を必死に押さえつける。
 会長の横を通り過ぎようとしたとき、俺は会長の目を見ないように俯き、目の前の阿佐美の足元を目で追っていた。
 ――その瞬間だった。

「新しい飼い主はそいつにしたのか」

 通り過ぎざま、俺にだけ聞こえるように吐き出されたその言葉に胸の奥に抑え込んでいた感情が溢れ出しそうになる。
 見ないように、我慢しないといけないとわかっていたのに、顔を上げてしまった。芳川会長の方を振り返ってしまった。
 表情は変わらない。それでも、静かに吐き出されたその声にただひたすら胸が締め付けられる。
 会長に嘘を付かない。もう裏切らない。自分だけは側にいる。そう決めたのは、俺だったのに。
 また俺はこの人を。

「……っ、ゆうき君?」

 立ち止まる俺を不審に思ったのか、阿佐美がこちらを振り返った。
 頭と体が噛み合わない。見えない鎖が足元に絡むように動けなくなる。
 駄目だ。俺は。こんな風じゃバレてしまう。駄目だ。心を鬼にしろ。そう思うのに。

「――こっちに来い」

 そう一言。……たった一言だった。
 会長の一言に、先程まで思い通りに動かなかった全身の拘束が解かれたようだった。
 阿佐美の手を振り払い、俺は芳川会長の方へと一歩踏み出す。
「ゆうき君!」と阿佐美が何事かとこちらを振り返るのと、会長の腕がこちらへと伸ばされるのはほぼ同時だった。
 会長は俺のマスクを掴み、下ろすのと同時に唇を塞いだのだ。
 十勝や阿佐美を含んだ周囲の人間はぎょっとする。俺も、驚いた。会長が、人前でこんなことをするとは思ってもいなかったからこそ余計、最初自分がなにされているのか分からずただ俺はより目の前に迫る会長から目を逸らすことができなかった。
 ほんの数秒だったと思う。唇の柔らかさに気付いたときには会長は唇を離していた。そして、なにも言わずに俺の手を取って歩き出した。

 阿佐美も十勝も誰も止めない。止められるよりも先に俺は会長の後についていった。
 どこへ行くのか、この先どうなるのかも知らない。後悔もない。それよりも会長がこうして俺の腕を掴んでくれてることが、一緒にいることを許してくれることがなによりも心が喜んでいるのが分かった。
 冷静ではなかった。最初から道を踏み違えているのだ。俺たちはずっと。
 乾見た目よりもがっしりとして分厚い掌は俺の手を離さない。振りほどこうとも離す気がないと思うほどの力の強さに痛みよりも安堵を覚えていた。

 ◆ ◆ ◆

 ――学生寮、芳川会長の部屋。
 エレベーター内、通路中も移動中も俺達の間に会話らしい会話もなかった。二人分の足音が響く。時たま人とすれ違っては、繋がれた手を見て何を思われようが頭になかった。会長が何を考えてるのかも分からない。扉に入れば殴られることも覚悟していた。けれど、扉に鍵を掛けた会長はそこでようやく俺の手を離した。
 そして、俺が言葉を吐き出そうとしたときだった。視界が陰る。そして、伸びてきた腕に全身を抱き締められるのだ。

「っ、会長……」
「君には、聞きたいことが山ほどある」
「……はい」
「言いたいこともだ」

 当たり前だ。何度も会長を騙すことになった。覚悟はしていた。
「はい」と小さく答えれば、耳元で芳川会長が言葉を飲むのが分かった。その先の言葉は出てこない。ただ、その代わりに全身を覆う腕に力が入るのだ。
 時計の針の音だけが響く部屋の中に、心臓の音がとくんとくんと脈打つ。
 会長の熱が、心臓の音が触れた箇所から流れ込んでくる。ああ、きっと今頃阿佐美は俺のことを馬鹿なやつだと思ってるだろう。それとも、俺がサイトウではないと気付いたのか。今度こそ阿賀松に殺されるかもしれない。全部、覚悟していたことも計画もなにもかも台無しだ。裕斗の心配していた通りだった。俺には無理なのだ。
 それなのに、不思議と心が満たされていた。俺はそっと会長の背中に腕を回した。
 ――会長にこうして抱き締められるだけで救われた気でいた。一過性の気の迷いだと、気休めだと、毒にも薬にもならないと。後先考える頭もなく、目の前の会長にしがみつく。

 ああ、会長の言ったとおりだ。恐怖も、これからのことなど全部がどうでもよくなってくるのだ。
 充足感。多幸感。或いは別のなにかか――どちらにせよ、恐ろしいものだと思った。

 どれほど時間が経過したのかも分からない。扉が叩かれようが、気にならなかった。会長はようやく顔を上げた。

「……なんで来た」

 それは突き放すような冷たい声だった。
 人に来いと言っておいて、この人はただそう口にするのだ。会長はきっと俺が言葉でどう上手く答えようが何一つ響かないだろう。
 伸びてきた指にマスクを外され、じっと覗き込まれる。唇が触れ合いそうなほどの至近距離。
 ふと、会長の指が頬に触れる。

「お前は馬鹿だな。阿佐美詩織についておけばよかったものを。俺と来たら、お前はまたあいつらに目の敵にされるぞ」
「……それでも、いいです」

 嘘だと思われてもいい。答えれば、「死にたいのか?」と会長は訝しげに眉根を寄せる。そして、「賢いとは思えない」とも吐き捨てた。
 会長の声が、言葉が心地良い。懐かしくて、それでもよかった。

「……本当に馬鹿だな」

 頬を滑る指に髪を掻き上げられる。その声が僅かに震えていたのは気のせいか。目を伏せる会長はそう息を吐くように口にした。ああ、間違いないだろう。
 けれど、それは。

「お前も……俺も、どうかしている」

 そう、芳川会長は自嘲する。
 目をつけられているのは俺も、芳川会長も同じだ。キスなんてしたら、まだ俺達に関係があると公言してるも同然だ。
 芳川会長の言葉とは裏腹に、その声音が嬉しそうに聞こえたのは俺の願望なのかもしれない。それでも、良かった。俺ははい、とだけ答えた。今だけは全部忘れていたかった。現実逃避だと分かってても、この時間が止まってほしいとすら思えたのだ。

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