05
部屋を出て、どっと力が抜けそうになる。
こうして自分が無事……とは行かずともこうやって開放してもらったことがただ予想外だった。
それほど灘も悩んでるということなのだろうか。
まだ気が抜けない状況だ。俺は辺りに人気がないのを確認して通路を歩き出した。
力が入らない。呼吸をする度に器官にヒリつくような痛みが走った。
どうやらここは学生寮の四階のようだ。
いないとは思うが、こんなところを阿賀松に鉢合わせにでもなったらと思うと気が気でなかった。
かと言って誰とも会いたくない。
俺は人目から逃げるように非常階段を使って三階へと戻った。
――学生寮三階、自室前。
ようやく戻ってきた自室の扉を開こうと、縺れた指先でカードキーを取り出したときだった。いきなり目の前の扉が勢いよく開く。
「っ!」
「……」
そこにいたのは阿佐美だった。
どうやら一足遅かったようだ。無言で佇んでいた阿佐美だったが、そこに立っていたのが俺だと分かるとほっとしたように息を吐いた。それから「入って」と扉を開くのだ。
俺はそれに従い、扉の中へと入った。
いまの俺は阿佐美からしてみればサイトウなのだ。以前のように阿佐美が接してくれるわけではないと分かっていた。それでも、あまりにも態度が違う阿佐美を前にすると戸惑ってしまう。
それをなるべく顔に出さないようにすることが精一杯だった。
「……今までどこ行ってたの?その痣、前はなかったよね」
阿佐美の言っている痣とは拘束されていたときの跡を指しているのだろう。指摘され、赤く擦れた拘束跡に気付く。さっと袖を伸ばして隠そうとしたとき、「手当するから、そこ座って」と阿佐美は口にするのだ。
大丈夫だと否定する気力もなかった。俺は言われるがままソファーに腰を下ろす。
阿佐美は仁科ほどではないが、それでも丁寧に簡易手当を施してくれる。
阿佐美のことを怖いと思いたくなかった。
信じていたいが、今となっては気を許せない相手であるという現状がただ苦しかった。
「それで何があったか話してくれる?」
「……喉、乾いたから」
「そっか。冷蔵庫にあるジュースじゃ足りなかった?」
怒鳴るわけでもない、それでも突き放すような言葉にただ心の奥がざわつくのだ。
ごめん、と言いかけてやめた。サイトウに謝り癖はない。
「君がそのつもりならそれでもいいよ。けど、もし俺の目の届かないところだと何か起きても対処しきれない」
「……分かってる」
「ならいいよ、勝手にしても」
そう、手当を終えた阿佐美は俺から手を離し、立ち上がる。そのまま部屋を出ていく阿佐美に咄嗟につられて立ち上がろうとして、「無理して起き上がらない方がいいよ」と背中を向けたまま口にするのだ。
「どこに」
「……俺が一緒だと落ち着かないだろうからね。暫く寝泊まりは別の場所でするから」
「また朝来るよ」それだけを言い残し、阿佐美はそのまま部屋を出た。
一人残された部屋の中、俺はテーブルの上に置かれてるゼリー飲料と弁当に気付く。どうやら阿佐美が用意してくれたようだ。
……阿佐美なりの気遣いなのだろう。いっそ突き放してくれた方がまだよかったのに、阿佐美の根の優しさを思い出しては胸が苦しくなる。
俺は一人の食事を終える。口の中が痛んだが、痛みを堪えて全て胃に収めた。
◆ ◆ ◆
それから暫く傷を治すことに専念する。
外で何が起きてるのかも分からないが、食事を届けに来てくれる阿佐美は特になにも言わなかったので俺も聞かなかった。
灘のことも気になったが、あれから灘の動きもない。……それともただ俺が気付いていないだけなのかは分からないが。
そしてこの学園に戻ってきて一週間弱が経つ頃。
「腫れは引いたみたいだけど……痛みは?」
大丈夫だという意で頷き返せば、目の前の阿佐美は「そっか」とほっとしたように口にする。
久し振りに袖を通した制服は以前よりも大きくなった気がした。
「それじゃあ、今日から復帰だね」
「……」
「不安?」
「……少し」
それは思わず口から出てしまった本音だった。
口にしてから、別に、と流すべきだったと気付いたが阿佐美の表情が少し和らいだ気がした。
「……大丈夫だよ。俺でもたまにゆうき君だと間違えてしまいそうになるんだから。……それに、あっちゃんもね」
あっちゃん、という固有名詞に心臓が痛いほど反応する。
阿佐美が励ましてくれてるのだとわかったけど、素直に喜べない自分がいた。
それから「それじゃあ、行こうか」という阿佐美に連れられ、俺はマスクを付ける。緊張しないはずがない。
目的を果たすまで、バレてはならない。
阿佐美と阿賀松だけには、絶対に――。
部屋を出て、食堂へと向かう。
生徒たちが多く賑わう通路、俺の顔を見るなり他の連中はぎょっとした。顔の傷はもう引いたはずだ。ならば、余程俺が学校に戻ってきたことが可笑しいということか。
俺たちの間に会話はなく、人目を無視してエレベーター乗り場へと向かう。
――学生寮三階、ロビー。
人の姿を見るなりざわつく周囲。突き刺さる視線は酷く痛いが、なぜだろうか。昔ほど怖くはなかった。……自分が自分でないと思い込むことで、普段から感じていた恐怖や緊張を緩和することができているのかもしれない。
不意に、その中一際強い視線を感じた。
つられてそちらにちらりと視線を向けたときだった。――俺は息を飲んだ。
「っ、ゆ、う……君」
それは、相手も同じだ。
まるで幽霊かなにかでも見たかのように声を絞り出すそいつ――壱畝遥香に、俺は『ああ』と思った。
――不思議だった。あれほど怖いと、会いたくないとさえ思っていた壱畝のことが今は何も感じなくなっていたのだ。
「ゆうき君」
不意に、阿佐美に名前を呼ばれる。
構わなくていい、ということなのだろう。俺は壱畝から視線を外し、そのまま阿佐美の後を追いかけようとしたのだがすぐにその肩を掴まれた。
「っ、待てよ」
思いっきり掴まれた肩に指先が食い込む。
痛みがないわけではない。けど、それよりも他に優先するべきことがあるからだろうか。意識が逸れ、真正面から痛みを感じずに済んだ。
「なんだよ、お前……っ」
なんだよはこちらのセリフだった。
人の顔を見るなり吐き捨てる壱畝。
すぐに俺と壱畝の間に入った阿佐美は「離して」と壱畝の手首を掴み、俺から強引に引き離した。
「……っ」
「ゆうき君はまだ本調子じゃないから」
「……っ今までどこに行ってたんだよ、おい」
「壱畝君」
「お前、口も利けないのかよ!」
それは最早怒声に近い。
二人きりのときならまだしも、周りもいる中こんな風に取り乱す壱畝を見たのは初めてだった。
何人か普段の壱畝を知ってる人間もいる中、注目の的になってもお構いなしに壱畝は阿佐美を無視して俺に向かって怒鳴りつけるのだ。
不意に伸びてきたその手にネクタイを掴まれそうになり、咄嗟に俺はその手を振り払った。
「……ッ!!」
「…………」
乾いた音とともに壱畝の目が丸く見開かれる。
――ああ、やってしまった。
阿佐美も驚いたように俺を見ていたが、それでもこうするしかなかった。……こうするしかなかったのだ。
俺は固まる阿佐美の制服の裾を軽く引っ張った。「行こう」と耳打ちをすれば、阿佐美は小さく頷いて応えてくれる。
「……っ、おい、待てよ、まだ話は終わって……ッ!」
「…………」
「ゆう君……ッ!」
このままこの場にいても悪目立ちするだけだ。
今にも追ってきそうな勢いの壱畝を置いて、俺たちは丁度開いたエレベーターに乗り込んだ。
俺はすぐに扉を閉めた。
ついていないと思う。
いつか絶対に顔を合わせなければならない相手だと思ったが、まさかこのタイミングで鉢合わせになるとは。
今になって壱畝に掴まれた肩が、腕が、じんじんと熱を持ち出した。
……あんな壱畝の情けない顔、見たことなかった。
もしかしたらしてたのかもしれない。今までまともに壱畝の顔を見てなかったからこそ、改めて向き合ったからこそそんな風に思えるのか。
一階へと向かう途中のエレベーター機内に会話はない。
阿佐美にお礼を言うのもおかしな気がした。
あいつのことがずっと怖かったのに、怖くて仕方なかったのにこうして見ると案外呆気ないものだと思ってしまったのはより強い恐怖を身近に感じてしまったからか。
それから俺たちは一階の売店へと向かった。
阿佐美は何も選ばない。周りのことを気にしてるようにも見えた。
何か食べた方がいいんじゃないか。普段あんなに食べてたのに。そう気になったが、俺はあくまでサイトウなのだ。
自分の分のパンだけを手に取り、俺達は近くのラウンジで休憩することになる。
最中も会話らしい会話もない。不思議と息苦しいとも感じなかった。
食事を終え、ゴミを捨てて立ち上がる。
そのままラウンジを出ようとしたときだった。
――学生寮一階、ラウンジ前通路。
「っ、佑樹?!」
丁度食事にでも行くつもりだったのだろうか――そこには驚いた顔をした十勝がいた。
つい「十勝君」と応えそうになるのを堪えた。
前に見たときよりも元気そうな十勝に内心ほっとする反面、正直会いたくなかった。
……こんなところ、見られたくなかった。
「っ、良かった……本物だ……」
余程心配してくれていたようだ。
……そういえば、ちゃんとまともに十勝と会ったのも大分前のように感じた。まるで泣きそうな顔をして安堵の声を漏らす十勝に俺はどう反応すべきか考えていた。
無言のまま動けなくなる俺に違和感を覚えたようだ。
「佑樹?」と心配そうにこちらを覗き込んでくる十勝に、俺は息を飲んだ。そのときだった。
阿佐美だ――阿佐美は俺から十勝を引き離そうとした。
「十勝君、ゆうき君はまだ本調子じゃないから」
「……なあ、お前も今までどこに居たんだよ。なんか様子おかしいし……」
「ゆうき君は体調崩して別荘で療養してたんだ」
「……っ、なんでお前が答えんだよ、阿佐美」
それは絞り出すような声だった。十勝に指摘された阿佐美は言葉に詰まる。
「それは……」と前髪の下、阿佐美の視線が揺れるのを感じた矢先だった。
周囲が一気に静かになるのを感じた。そして、近付いてくる足音に十勝が振り返る。
そして。
「喋らせたくない理由でもあるのか?」
「会長」と尻尾を振る十勝の声など俺の耳には届かなかった。
十勝の背後から現れたその人に、その声に、全身が凍り付く。同時に、今まで通っていなかった血がようやく全身へと流れ出すような感覚に襲われた。
「……っ……か、いちょう……」
ずっと、ずっと、夢にまで見ていた芳川会長は記憶のときよりも痩せた気がした。
以前よりも鋭くなった双眸は真っ直ぐに俺を捉えていた。
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