天国か地獄


 04

 ほんの数秒のことだ。飛び起きようとして、手足が拘束されてることに気付いた。
 芋虫さながら地面の上に転がされていた俺はなんとか拘束を解こうとするが、拘束は固く、ちょっとやそっとでは解かれない。
 甘かった、油断していた。
 相手が灘だと分かっていたのに、俺のことを快く思っていない灘だとだ。
 あの場には俺と灘ではないもう一人が潜んでいた。そして、俺はそいつに眠らされた。それまではなんとか辿ることが出来た。
 意識が途絶える直前、鼓膜に残ったあの声が蘇る。――聞き間違えるはずがない、甘く、人を惑わそうとするあの声は。

「……っ、……」

 もう一度部屋の中を見渡そうと軋む上半身を無理矢理捻る。部屋の中には何もない、窓も時計もない。近くに物があれば蹴り飛ばして物音を立てることくらいはできただろうが、なにもないのだ。声をあげようにも、口の中にはハンカチがねじ込まれていて咥内の水分を奪われているところだった。
 聞きたいことがあった、そう言ってたのに。
 それだけが目的ではなかったのか。そう、奥歯を噛み締めたときだった。
 扉が開く音がした。はっとし、身構えようとしたとき。キイキイと、何かが軋む音がした。音だけではない、タイヤが擦れる用の音だ。
 首を動かし、恐る恐る顔を持ち上げればそこにいた男に息を飲んだ。

「や、齋藤君。久し振り。……こんな姿で悪いね」

 視界に入ったのはまず銀色だった。そして、タイヤ。それから――顔を覆う白。ガーゼと包帯を巻かれた顔と、青みがかった濃紺の頭髪。
 車椅子に腰を掛けた縁方人は俺を見下ろし、いつもの笑顔を浮かべて微笑んでいた。
 一瞬、脳で情報を処理することができなかった。
 声と、特徴的な髪の色が見えなければ俺は目の前の男を縁だと認識することはできなかっただろう。
 言葉も出なかった。
 けど、思い出す。そうだ、縁はあのとき阿賀松に腿を撃たれ、それから――その先縁の姿を見ることはなかった。
 あまりにも酷い姿だった。ガーゼと包帯で隠されてはいるものの、その言葉もまだ喋り辛そうだ。唯一覗く目だけは以前と変わらない。
 縁は俺の顔の前まで車椅子を移動させると、そのままその包帯で覆われた指先をこちらへと伸ばす。思わず逃げることすらも忘れていた。俺の唇を撫でるように触れ、そのまま口を開かせた縁は口の中の異物を抜き取るのだ。唾液で濡れたハンカチを床へと投げ捨て、縁はふたたび背もたれへと体を預けた。

「……いてて、っと……もう喋っていいよ。それとも、水分が必要かな?」
「っ、えにし……先輩……」
「驚いたよ、君、生きて戻ってこられたんだね」

 それはこちらの台詞だ。そう言いたかったが、声が上手く出なかった。縁は手にしていたボトルのキャップを開く、そしてストローの口を俺へと向けるのだ。
「ただの水だよ」どうぞ、と縁は続けた。目の前で揺れる透明の液体の喉越しを想像すれば、思わずごくりと喉が鳴る。……けれど、相手は縁だ。
 それに、いきなり眠らされたこんな状況で、この男が差し出すものを口にするほど平和ボケはしていない。首を横に振れば、縁は「そう」とだけ口にし、ボトルを引き上げる。そのまま自分でストローを咥えるのだ。

「お互いに悪運が強いと思わないかい?」
「……なだ、君は……」
「あいつに会いたいの?……別に構わないけど、今はここには居ないよ」
「…………」
「それにしても、酷い顔だ。……ああ、お互い様だけどね。……熱は引いてるからあとは腫れが引くのを待つだけだろうけど、それまでに新しい傷が増えないといいね」

 キイキイと、手持ち無沙汰を誤魔化すように縁は慣れた手付きで車椅子を動かし、今度は部屋の隅へと移動する。
 お互いの姿、全貌が見える位置だ。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ、今更君に危害を加えようだとか、どうしてやろうかなんて考えられない。……そもそも、こんな体じゃ尚更だ。口説くのが精一杯ってところかな」
「……先輩は、どうして……どうやって……」
「それ、聞いちゃう?」
「なんてことはありません、『たまたま』この方が捨てられてるところを見かけただけです」

 奥の扉が開くとともに、聞こえてきたその声に全身が強張った。部屋の奥、現れた制服姿の灘に息が止まりそうになる。対する縁はさほど驚いた様子もなく、それよりもその言葉の内容に露骨に顔をしかめてるようだった。

「ううわ、いいよそんなこと説明しなくて」
「本来ならばあのまま放っておけば持って一時間というところでしたが……」
「はいはい、助けてくれてありがとうございました。灘和真君様々のお陰で俺はまだ生きてますよ、と」
「…………」

 灘は縁の言葉を無視し、俺の側まで寄ってくる。
 灘が、縁を助けた。俄信じられないが、現に殺されていたと思った縁がここに存在してることが全てだった。
 灘は俺の体を起こし、それから手の拘束を外す。
「足も」と頼もうとするが、灘は腕の拘束だけ外して俺から手を離すのだ。
 どうやら俺を自由にするつもりはないということらしい。

「君には色々聞きたいことがあったけど……取り敢えず裕斗君は一緒じゃないの?」

 そうあっけらかんと尋ねてくる縁に思わず息を飲む。
 不意打ちで裕斗の名前を出され、思わず反応しそうになるのをぐっと堪えた。

「……わかりません」
「本当に?……なんて、まあいいけどね。あいつらのことだし、まーた裕斗君どっかに隠してんだろ」
「……」

 試されてるのか、餌を撒かれてるのか。それでも裕斗の居場所を縁にだけは教えたくなかった。
 押し黙れば、興味を失ったように縁は俺から視線を外す。

「けど、君だけ帰ってくるのはやっぱり不自然だね。君こそ隠さないといけないのに。これじゃあ、自分から弱点を晒してるようなものだしね」
「……」
「……だんまりか。俺がいなくなったあと余程怖い目にでも遭わされたのかな。可哀想に」
「雑談をしてる暇はありません。……単刀直入に伝えます。俺達の目的は阿賀松伊織の告発です」

 思わず灘を見上げた。
 灘の表情はいつもと変わらない、だからこそ灘が本当のことを言ってるのだと感じた。

「……君は、当事者です。そして阿賀松伊織は被害者でもある君を利用してその罪を他者に着せるつもりでいる」

 誰に、なんて言わずとも分かった。芳川会長に濡れ衣を着せるつもりだ。
 そして、わざわざ阿佐美が自殺願望のある替え玉を用意させようとしたその理由も考えれば嫌でも分かる。それを覚悟してここへと戻ってきたつもりだった。
 ……そう。目的は灘と同じ、阿賀松伊織の告発のためにだ。
 灘は、まだ芳川会長の味方でいてくれるというのか。
 喉元まで出かかったが、言葉にすることはできなかった。

「間違いなく伊織は君を使うだろうね。芳川君は君にご執心、そんな齋藤君を使えば大嫌いな芳川君でたくさん遊べるしね」
「貴方は阿賀松伊織に協力するつもりなんですか」

 二人の視線がこちらを向く。答えは決まってる。俺だって最初から腹を決めてここへ来たのだ。けれど、問題はこの二人だ。……縁に至っては敵か味方なのかすら分からない。
 今この場ですべてを伝えるのは早計のように思えた。
 何も答えないでいると、灘は無言で俺から視線を外した。そして。

「まあ、いきなり色々言われても齋藤君も混乱しちゃうよね。それに、目が覚めたばっかなんだしあれこれいきなり脳味噌に詰め込むのは可哀想だろ」
「…………」
「ここにいる間はゆっくり考えをまとめればいいよ。……とはいえ、俺達には時間はないんだけどね」

 相変わらず本心の読めない表情で縁は続ける。
 時間がない、というのはどういうことなのだろうか。
 灘へと視線を向ける縁につられ、俺は灘を見た。

「灘君、齋藤君はこのままにしとくつもり?」
「彼が部屋にいないことは阿佐美詩織も気付いてるでしょう。ずっと監視してるようでしたし。でしたらわざわざ部屋へ帰す必要性もない」
「流石ストーカー君」
「……っ、監視って……」
「そのままの意味です。……念の為、ここまでのルートは監視カメラをかい潜りましたが時間の問題でしょう」

 淡々とした灘の言葉に焦りは感じない。それは縁も同じだ。

「……二人は、これからどうするんですか」
「さあ、どうしようかな。けど、このままだったらきっとすぐ詩織に捕まるからな」

 いきなり拉致された状況だ。そんな中全ての信頼を預けようとは思わない。
 けれどこのまま答えを出し渋っているとすぐにあの二人には捕まってしまうだろう。……それでは本末転倒だ。

「……灘君、拘束を外して」

 灘の目がゆっくりとこちらを向いた。

「駄目です」
「二人とも、見つかるのはまずいんだよね。……俺はこのまま部屋に戻る。そうすれば、まだ暫く自由でいられるはずだ」

 俺の言葉の意図に気付いたのだろう、縁の口元が笑みを浮かべるように歪んだ。

「ん?なに?部屋に戻って二人に泣きついて助けでも求めるの?」
「信じてくれないならそれでも大丈夫です。……でも、このままじゃ時間の問題なんですよね」
「……」

 躊躇いがなかったわけではない。
 縁のことはまだ信じきれていない。いつ阿賀松に告げ口をされるかも分からない。それでもだ、ここまで来た時点で手段を選んでる余裕なんてなかった。
 ここで共倒れになるくらいなら、肉を断ってでも骨を守るべきだ。そう思ったのだ。

「……灘君」
「どうする?灘君」

 お願い、と唇を結ぶ。縁に柔らかく尋ねられる灘だが、珍しく灘は返答に詰まった。
 ……相変わらず、表情は変わらないが。
 迷っている。灘ならば俺の言葉なんて一蹴しようと思えばできるはずだ。
 そんな灘が見せた一瞬の隙だった。

「俺のことが信じられないって言うなら、盗聴器でもなんでも仕掛けていいよ。……見張っててくれてもいい。このまま闇雲に動くよりは、ましだと思う」
「貴方のメリットは」

 静かに尋ねられる。理屈だけではない、俺の言葉でなければ信じないということか。
 こんな形ではあるが、灘たちの目的も聞かされた。……全てを隠し切ろうと思うのはあまりにも傲慢なのだろうか。
 けれど、背に腹は換えられない。

「……俺も、灘君と同じだよ」

「阿賀松を失墜させる。……そのために戻ってきたんだ」だから、ここで俺達が足を引っ張り合う必要はない。あまりにも不毛だ。そう続ければ、灘は黙りこくったのちに俺の足の拘束を外した。

「俺は君を監視しています。少しでも危険だと判断すればすぐに保護させていただきます」
「……っ、灘君……」
「行ってください」

 そう、灘は拘束具を手にしたまま俺に背を向けた。
 灘も灘なりに色々思うところはあるはずだ。すべて信じているわけではない。それでも。

「分かってくれてありがとう、灘君」
「……」

 元はと言えば拉致ったのは灘たちだが、それでも以前の灘ならばこんな真似はしただろうか。……聞きたいことも、気になることもあったが今は阿佐美のことが気がかりだった。
 俺は「じゃあまた会いに行くよ」なんて手を振る縁を一瞥し、そのまま部屋をあとにした。
 灘は最後まで何も言わず、ただこちらをじっと見ていた。

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