天国か地獄


 03

 ――洗面室。
 動く度に腹部の皮膚が突っ張るように痛んだ。……けれど痛みがあるからこそ生きてると実感することはできた。
 本気で殺されるかと思った。今思い出してもぞっとしない。阿賀松に疑われたときのあの目、あの声、思い出すだけでも心臓が痛くなるようだった。
 殴られた節々が痛い。恐らく酷い顔になってるだろう、目の前の鏡を見るのが恐ろしかった。
 水を飲み口を濯ぐ。口内に出来た傷が痛み、血の味が広がる。それを吐き出し、もう一度口の中に水を含むという動作を繰り返した。
 ――阿佐美は大丈夫だっただろうか。
 気になったが、知るのが怖かった。
 それからシャワーでなるべく傷を避けてお湯を浴びた。それでも、完全に避けれるわけではない。
 痛みを伴うシャワーを終え、俺は髪を乾かし制服に着替えた。またこうしてこの制服に袖を通すことができるとは思わなかった。

 そんなことを考えていると、玄関の扉がノックされる。その音に全神経が反応するのが分かった。
 先程まで収まっていた心音が一気に間隔が短くなる。呼吸が浅くなる。
 ……阿佐美かもしれない。そうだ。……出ないと。
 この学園にいる限り阿賀松から逃げられることはできない。そう自分に言い聞かせながらベッドから立ち上がり、玄関口へと向かう。
 そして恐る恐る扉を開いたとき。

「……っ、……」

 扉の向こう側、覆い被さるような背の高い陰に阿賀松の顔が過ぎり、咄嗟に顔を上げれば――そこには阿佐美が立っていた。
 はっとする俺、そして対する阿佐美も俺の顔を見て息を飲んだ。
 阿佐美の口がゆうき君と動いたように見えたがそれも一瞬。

「っ……部屋、上がっていいかな」

 阿佐美は息を吐き出すように、そう重々しく言葉を紡ぐのだ。断る理由もなかった。俺は頷き返す。腫れ上がった顔が突っ張り、顔全体が痛んだが我慢できないほどではない。
 俺は扉を開き、阿佐美を招き入れる。
 見たところ、阿佐美は怪我はないようだ。ということは阿賀松は俺のことを別人だと信じてくれたのだろうか。そう一先ずは安堵したが、まだ安心しきるのは早い。
 自室、ソファーに阿佐美が座る。
 ……俺は阿佐美の顔を見辛くて、顔を合わせずに済むベッドに腰を掛けた。

「昨夜、伊織に問い詰められたんだよね。……顔の傷が酷い、今日はやっぱり休んだ方がいい。そんな顔じゃ、復帰早々怪しまれるだろうし」
「……っ、……」
「無理して喋らなくていいよ。……その傷じゃ、口を動かすのもキツイだろうから」

 阿佐美なりの気遣いだと思いたかった。
 けれど、阿佐美としても周りのやつらに変に探られることはまずいのだろう。それもそうだ、長期的に休んだやつが復学早々顔面腫れ上がってたら何事かと思われる。俺としてはそれは好都合だった。阿賀松にやられました、休学の理由も阿賀松に殺されかけて動けなかったからです。そう言い振らすことがなによりも手っ取り早い。……けれど、この学園は阿賀松の庭のようなものだ。教師も生徒も誰も、助けにならない。揉み消されて報復されて今度こそ死体を埋められるかもしれない。そう思えば下手な真似はできない。
 あくまで慎重に、確実に息の根を止められるタイミングを探すしか俺には残された道はない。

「……食事は俺が運ぶ。先生にも、俺の方から伝えておくよ。だから、その腫れが引くまではここにいて」

 誰にも会っちゃ駄目だよ、そう暗に阿佐美に言われているようだった。俺がサイトウならば、それに従うのが正解だ。
 ……それに、全身の痛みも酷い。俺は何も応えなかったが、阿佐美は何も言わなかった。沈黙を肯定と受け取ったのだろう。阿佐美もそれ以上強要することはなかった。
 その代わり、ソファーから立ち上がった阿佐美はベッドの側までやってきた。そして、手に持っていた袋を俺の隣にそっと置いた。

「……顔の傷、早めに薬を塗っておいた方がいい」

「これ、使って」そう、袋を受け取り中を覗けば傷薬とガーゼが入ってた。その他にもゼリー飲料も入ってる。
 俺が固形物を食べられない状況だとわかったからか、思わず阿佐美を見上げた。長い前髪の下、一瞬目があった――気がした。それはほんの一瞬のことだった、そのまま固まった阿佐美の口元が引き吊る。

「……っ、ゆうき君……?」

 そして、その口から出てきた言葉に思わず俺は阿佐美から目を逸しそうになり、堪えた。全身から汗が吹き出す。逃げては駄目だ、誤魔化そうとすれば余計怪しまれる。
 ――サイトウならば、サイトウならばどうするか。繰り返す。逃げ出したい心を必死に押さえつけた。
 暫く視線が混じり合っていた。確かに阿佐美の目がこちらを見ていた。絡み付くような視線を受け止めれば、やがて阿佐美の方から顔を逸した。

「……本当に、そっくりだね」
「…………」
「俺、これで失礼するよ。……また」

 じゃあね、とは言わなかった。俺の視線から逃げるように阿佐美はそのまま部屋を出ていったのだ。
 ……危なかった。本当に。
 阿佐美が出ていったあと、そのまま閉まる扉を見つめる。
 もしバレていたらと思うと生きた心地がしない。……逃げては駄目なのだ、今まで通りではだめなのだ。震える掌をぎゅっと握り締める。
 取り敢えず、体が普通に動かせるようになるまでは安静にしておこう。……せめて、走って逃げることができるくらいにはならなければ。
 なんて思いながら、俺は阿佐美から受け取った傷薬で簡単に手当を試みた。
 時間が経てば経つほど傷口の熱は増す。それでも、この熱が引けば大分収まるはずだ。
 そう言い聞かせ、俺は着たばかりの制服を脱いで部屋着に着替え、そのまま暫くベッドに横になっていた。

 ……。
 …………。
 ……………………。

 遠くから聞こえてくるチャイムの音に目を開く。どうやら転寝してしまったようだ。
 冷蔵庫にしまい忘れ、サイドボードに放置したままのゼリー飲料はすっかりぬるくなっていた。
 ……阿佐美はまだ来ていないようだ。時計の針を確認すれば、既に昼近くだ。
 この時間帯、本来ならば授業を受けてるはずだ。寮全体が酷く静かな気がした。心臓の音と時計の針の音しか聞こえない。
 そんな中、部屋の扉の方から物音がした。
 阿佐美だろうか、そう体を起こし、扉へと駆け寄ったとき。俺が扉を開くよりも先に目の前の扉が開いた。

「……ッ!!」

 何故、と思うよりも先に俺は目の前にいた人物の顔を見てぎょっとした。
 そこにいたのは。

「……っ、な、だ……くん……」
「…………」

 思わずその名前を口にしていた。
 なんで、どうしてここに。灘がいるのか。
 複数の鍵がぶら下がったそれを手にした灘は俺の姿にさして驚くわけでもなく、変わらない無表情のまま俺を見下ろしていた。

 喋るなと言われた。けれど、あまりにも突然のことでつい声が漏れてしまったのだ。

「な、んで」

 ここに、と言いかけたとき。
「失礼します」と灘は扉をこじ開け中へと入ってくる。そしてすぐに扉を閉め、内鍵を掛けた。
 あまりにも突然のことで対応に遅れてしまう。けれど、逃げるという選択肢は俺にはなかった。
 ――頭のどこかで理解していたのかもしれない、ここに戻ってくると必然的に灘も来ると。

「昨夜、阿佐美詩織を着けさせていただきました。そうしたら、貴方がここに戻ってきた」
「っ、……」

 まさかずっと見張っていたのか。言葉を失う俺に構わず灘は俺の腕を掴み、部屋の奥へと歩いていくのだ。慌てて動いたせいか全身に痛みが走り、咄嗟に「待って」と声を上げたとき。

「貴方の帰還を知ってる者は」
「……っ」
「阿賀松伊織と阿佐美詩織――彼らの他に貴方がこの部屋に戻ってきてることを知ってる者は」

 尋ねられ、思わず「二人だけだ」と言い掛けて言葉を飲んだ。そして代わりに首を横に振る。
 嘘を吐いたわけではない。この学園では阿賀松と阿佐美しかいない。……サイトウも裕斗も、今は連絡する術はないのだから。
 灘は「そうですか」とだけ呟いた。けれど、納得した様子もなければ俺を離す気配もない。

「……っ」
「ならば早急にここへ出ます。間もなく阿佐美詩織が戻ってきます」
「っ、どうして……」

 ずっと堪えていた言葉が思わず口から出てしまう。
 どうして、こんなこと。助けてくれてるわけではないとわかっていた、それでも灘の意図が読めない。
 カーテン開こうとしていた灘は視線だけを一瞬ちらりとこちらへと向ける。そしてすぐにそのカーテンを開いた。明るい日が差し込み、その明るさに思わず目を細めた。

「……貴方にこのタイミングで戻ってこられるのは厄介なので」

 窓が開き、生暖かな風が吹き込む。
 どういう意味かといい掛けたときだった。灘は再び俺の腕を掴んだ。

「貴方には俺と来てもらいます」
「……っ、ど……して……」

 まさか、と芳川会長の顔が頭を過る。灘と芳川会長はまだ繋がっていたのか、そう思ったが灘の口から出た言葉は予想外のものだった。

「貴方には確かめたいことがあります」

 そう灘が口にしたときだった。
 背後から白い腕が伸びてきた。そして、口元を何かで塞がれる。

「……ッ!!」

 生傷と痣が目立つ白い腕だった。灘ではない第三者がこの部屋にいると知ったときには何もかも遅かった。
 視界が回る。意識が遠退いていき頭が白く染まっていく中、全身の筋肉から力が抜けていく。熱も。何かが落ちるような音がした。それが自分の体だとは思わなかった。

「ごめんね。こんな真似して。……だって君、抵抗しそうだったからさ」

 薄れ行く意識の中、灘ではない声が落ちてくる。
 何故、何故あの男の声が聞こえてくるのか。
 これも幻聴だというのか。
 襲いかかってくる睡魔に堪えられず、意識はとうとう俺の手から離れていったのだ。

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