尻軽男は愛されたい


 05

 俺以外のやつには手を出す。多治見の言葉は聞きようによってはそう受け取ることが出来た。
 先ほどの俺の言葉がよっぽどムカついたのか、それとも質の悪いハッタリか。今の俺にそれを判断する術はない。
 それに、多治見の言葉にいちいち惑わされるつもりもない。

「髪、痛ぇんですけど」
「あっごめんねえ、掴みやすそうだったからさあ。ついね?」

 敢えて多治見の言葉には触れず、俺は乱暴に髪を掴み上げてくる多治見を見上げた。
 そう申し訳なさそうに続ける多治見だったが、その手は緩むどころか一層強くなる。
 多治見に髪を鷲掴まれ、髪ごと頭部を引っ張りあげられた俺は頭部の痛みを抑えるために膝を起こした。
 そのまま片膝を付き立ち上がれば、いくらか多治見と視線が近付いた。
 それでも、相変わらず見下されている。恐らく俺が直立したところで見下す多治見の目線は変わらないだろう。

「俺に手出さないって言ったじゃん」
「うん、言ったよぉ」

「だからあ、一発だけ」そう小さく唇を動かした多治見は、俺の頭を無理矢理押さえ付けさせた。
 俺が口を開く前に、暗くなった視界になにかが映り込む。
 口約束が絶対守られるものだとは思っていなかったが、こんな早く破られるのも珍しい。
 目の前に迫ってくるそれが多治見の膝だと認識したときには既に遅く、至近距離から顔面を蹴り上げられた俺は避けることも庇うことも出来ず無理矢理それを受け止めさせられた。

「い゙ッ……つぅ……」

 まともに蹴りを喰らい、遅れてその痛みがやってくる。
 ジンジンと痺れるような鈍い痛みに自然と顔の筋肉が強張った。
 感覚がない鼻からドロリと生暖かいものが溢れ、拭うこともできないそれは上唇の辺りまで垂れていく。

「あれれえ、鼻イッちゃった?どーせなら顔の骨がぐちゃぐちゃになるまで踏みにじってあげたいんだけどぉ今日はこれだけで我慢してあげるねぇ」

「ぼくってばぁ本当に優しいよねー」感謝してよねぇ、と笑う多治見は項垂れそうになる俺の顔を無理矢理上げさせる。
 こいつ、よりによって俺のイケメンフェイスを狙うとはどういうつもりだ。
 押さえるものがなく、ドクドクと溢れ出る鼻血は流れるように口の中に入ってくる。
 口内に広がる鉄の味。舌舐めずりをし、口許を濡らす血を拭う。不味い。こんなことしてかっこつけるもんじゃないな。なんて思いながら苦笑を浮かべたときだ。
 室内に、先ほどと同じ無機質な音が鳴り響く。恐らく、此花からだろう。
 数分前に交わされた多治見と此花の通話を思い出した俺は多治見に目を向けた。
 そんな俺を他所に、多治見は携帯電話を取り出す。

「じゃあ、ちょっといい子に待っててねえ。帰ってきたらあ、ちゃあんと家まで送ってあげるから」

 携帯を手にした多治見はそう肩を揺すって笑い、俺から手を離す。
 そして、「もしもーし」と電話に出ながら多治見は普通に部屋を後にした。
 どうやら鍵はかかっていないようだ。
 遠ざかる多治見の楽しそうな声と足音を聞きながら、俺は引いていく顔面の痛みをただ感じる。

 まあ、大人しくしてろと言われて素直に大人しくするやつなんていないよな。なんて思いながら、拘束された腕を使ってなんとか下着を上げた俺はそのまま立ち上がる。
 先ほどパイプで殴られた箇所がズキリと痛んだ。どうやら内出血を起こしているようだ。青く変色した自分の足首に「うわ」と顔をしかめ、慌てて視線を逸らす。
 ズボンどうしよう。置いてくか。足元に落ちたそれを見下ろした俺は少しだけ考え込む。
 履くことは出来るだろうが拘束された手では時間がかかるはずだ。
 多治見が戻ってくる前にさっさとここを出たい俺は、ズボンを足で蹴りあげ手で掴む。
 また後で履けばいいか。なんとも間抜けな格好だが、仕方ない。
 誰にも会いませんように。なんて思いながら、俺は多治見が出ていって開きっぱなしになった扉から通路へ出た。

 廃工場、通路内。
 室内同様薄暗いそこは酷く静かで、遠くで走る車のエンジンの音が聞こえるくらいだった。
 なるべく足音を立てないよう抜き足差し足で宛もなく通路を進んだ。
 先ほど、やすくんに連れていかれ多治見と鉢合わせになったあの窓際の通路を思い出す。恐らく、あそこから外へ出ることが出来るはずだ。あまり行きたくないが、今の俺にはあそこから出るという脱出法を知らない。
 見つかったら、まあ、そのときだ。

 そんなテンションのまま歩くこと暫く。
 血は止まったが、やはり顔を動かす度に蹴られた箇所が疼いた。
 血が固まって気持ち悪いなんて思いながらひたすら窓際目指して歩いていたら、あっさりとそこに辿り着くことが出来る。
 先ほどと変わらないガラスのない窓に、破片の山。木箱は俺が置いたときのまま動かされていない。
 よし、さっさと帰るか。なんて思いながら足の痛みを堪えながら木箱の上に乗ったときだ。
 窓枠を掴み、そのまま外に目を向けた俺は目を丸くする。
 窓の外、小さな林と草むらに囲まれたそこには一つの影があった。

「お前、なんでここに……っ」

 たった今窓から飛び降りようとしていた俺に目を向けた青年、もとい此花清音は携帯電話片手に目を丸くさせる。
 相変わらず素晴らしいくらいの自分の運の無さに笑えてきた。
 このまま降りるべきか、否か。
 咄嗟に頭を回転させるが、答えは出てこない。
 それどころか、飛び降りようと構えて立てた右足首がずぐりと疼くように痛む。

「あ」

 そして、痛みでバランスを崩した俺はそのまま建物の外へ足を滑らした。
 血を流しすぎたお陰かそれとも生まれつきか、脳が正常に働かずまともに受け身が取れなかった俺はそのままべしゃりと地面に落ちる。

「おいっ、なにやってんだよ馬鹿」

「いってぇ」と呻く俺に顔をしかめた此花は、まるで馬鹿でも見るような目をして俺の元まで歩いてきた。
 というかハッキリ馬鹿っつった。
 俺の腕を引っ張り強引に立ち上がらせた此花は俺を見て「うっわ、ひっでぇ顔だな」と呆れたような顔をする。
 鼻血のことを言われているとわかっていたがこれは素で傷付いた。

「おい、やす!こっちに来い」

 ふと、俺の服から土埃を払った此花はそう暗がりに向かって声をかける。
 ……やすだって?
 ついさっき聞いたばっかりの名前に俺は僅かに反応した。
 やすって、やっぱり伏見保行のことだよな。なんて思っていると「は、はいっ」と変に上擦った声が聞こえてくる。
 どこか聞き覚えのあるその情けない声はやはりやすくんのものだった。

「あれっ……もう先輩連れてきたんですか?」
「ちげーよ、なんか勝手に逃げ出してきたらしい」
「勝手に逃げ出してって……」

 近付いてくる人影、もといやすくんは俺に目を向ける。
 そして「ひぃっ」と情けない声を上げた。
 この野郎ノコノコと顔出しやがってと恨めしく思う反面またか、またこのパターンかと切なくなる。
 ぽっと頬を赤くされることに慣れている俺にとって、顔を真っ青にするこのリアクションはプライドが傷つけられるので是非やめていただきたい。

「せっせっ先輩、はなはな鼻血が……!」
「見たら分かる。ほら、連れて行くんだろ。さっさと行け」

 人の顔を見るなり過剰に取り乱すやすくんに対し、慣れているのか冷静な此花は言いながら俺の背中を軽く押しやすくんに突き出す。
 腕を拘束された今、俺はされるがままにやすくんと向かい合った。
 連れて行く?……どういう意味だ。
 ふと此花の口から出たその言葉に引っ掛かった俺は僅かに眉を潜める。
 そんな俺を他所に、やすくんは俺の腕を掴み「あっはい」と頷いた。

「お前も物好きだな、本当。ほっときゃあいいものを……そんなんだから公太郎に目ぇ付けられるんだよ」

 そう溜め息混じりに続ける此花は携帯電話を取り出す。
 着信を知らせるためのイルミネーションがチカチカと点滅していた。
 ずっと暗がりにいたお陰か、光に慣れてない俺の目が自然と細くなる。
 それを手にした此花はもう一発浅い溜め息を吐いた。

「おい、木江大地」

 そして、名前を呼ばれる。
 背後からする此花の声。
 フルネーム呼びとか白々しいな、なんて思いながら俺は「なんすか」と応答する。
 鼻を蹴られたせいか顔が酷く痛み、それを押さえようとすればするほど呂律が怪しくなった。

「よかったな、いいやつに恩売っといて。でも勘違いすんじゃねえよ、お前は今俺にデカイ貸し作ってるんだからな」
「せっ先輩……あの、今は先に多治見先輩のところ行っといた方が……」

 そう宣言する此花に対し、恐る恐る横槍を入れるやすくん。
 出鼻を挫かれたような顔をする此花は「わかってる」とばつが悪そうに舌打ちをする。

「とにかく、俺はやすに言われたからやってるわけであって別にお前のために」
「先輩、あのなるべく早く行った方が……」
「ああもうッ、わかってんだよそんなことは!邪魔すんな!」
「ごっごっごめんなさい、ごめんなさい!」

 いきなり怒鳴られビクビクと縮み込むやすくんに、納得いかなそうな顔をした此花は「とにかく」と強く言う。

「……とにかく」
「……とにかく?」
「……とにかくだな……その……」

 すると、先ほどまでの威勢をなくし急に黙り込む此花。
 長い沈黙の末、此花は「もういい、行ってくる」と踵を翻した。ガサガサと草を踏み鳴らすような足音がその場に響く。
 こいつ忘れたのを誤魔化しやがった。

「先輩、あの頑張ってくだ……あ、行っちゃった」

 遠ざかる此花の足音。
 結局、なにがなんだったたのだろうか。未だなな一つ理解出来ていない俺は目の前のやすくんに目を向ける。
 此花を見送っていたやすくんは俺の視線に気付いたようだ。

「取り敢えず、話は後ででいいかな。……先輩に言われた通り先にこっから離れたいし。あ、そうだ。他に怪我とか……ってあれ、なんで下」

 顔面から視線を下ろしたやすくんは俺が下着一枚ということに気付いたようだ。
「もしかして盗られちゃった?」と尋ねてくるやすくんに俺は首を横に振り、「持ってきた」とやすくんに背中を向ける。

「ああ、腕縛られてるのか。これ、ちょっと解かせてもらうけどいい?」

 なんでそんな分かりきったことをわざわざ尋ねてくるのだろうか。
 YES以外の返事の可能性を考えているやすくんに内心苦笑しつつ、俺は「よろしく」と頷いた。
 少し顔の筋肉動かしただけだと言うのに、酷く顔面が痛む。
 今さらになって鏡見るのが怖くなってきた。

 俺の背後に手を伸ばしたやすくんはそのまま慣れた手付きで拘束を解いた。
 固く結ばれていたネクタイを広げたやすくんは「うわあ皺になってる」と顔をしかめる。
 そのままネクタイを自分の首にかけ着けるやすくんに、俺は自分を拘束していたそれがやすくんのものだと気付いた。
 もしかして、最初解きやすい拘束をしていたのもやすくんだったのだろうか。なんて思いながら、俺は手のひらを閉じたり開いたりして血行をよくする。
 多治見にキツく縛り直されたせいか手首は赤く擦れ、手の感覚が少しふわふわした。

「痛むの?」
「んー大丈夫っぽい」
「そっか、なら良かった」

 ほっと安心したように笑うやすくん。
 あれ、こいつもしかしていいやつなんじゃないのか。
 先程多治見と対峙していたからだろうか、尚更そんな気がしてくる。

「……」
「ていうか、あの、先にその……下」

 暗がりの中、ぼんやりとした正面のやすくんを眺める俺にやすくんはそう慌てて声を掛けてくる。
 ああ、忘れてた。やすくんに指摘され、俺は手に持っていたズボンをその場で穿き直す。

「穿いた?」

 着替える俺に対しわざわざ背中を向けるやすくんに、俺はファスナーを上げながら「穿いた穿いた」と答えた。

「じゃあ、そろそろ離れよっか。顔痛む?」
「すっげー痛む」
「え?ほんと?じゃあ早く手当てしなきゃ」

 確かにずぐずぐ痛むものの、血が出すぎたせいか痺れの方が勝っている。
 なんとなく大袈裟に言ってみれば、あわあわと慌てたやすくんは「歩ける?」と聞いてきた。
 歩けないって答えたらおんぶでもしてくれるのだろうか。
 なんてことを思いつつ、「歩けない」と答えればやすくんは「じゃあ頑張ろう」とか言い出した。
 いやまあ正論かもしれないがなんだこのやるせなさ。


 やすくんにしがみつくようにして廃工場を後にした俺たちが向かったのはちょっと離れたところにある公園だ。
 現在やすくんは近くのコンビニへ向かっており、一人公園に残された俺は噴水で顔を洗う。
 渇いた血を水で濡らせば指先にぬるりとした感触が蘇り、そのまま水で洗い流した。
 とっくに鼻血は止まっていたが、やはりどっか傷付いたのだろう。
 鼻柱が鈍く痛む。ボタボタと顎先から落ちていく水滴を手の甲で拭い、なにか顔を拭くものがないか近くを探してみたが深夜の公園にそれらしきものはない。
 それどころか、俺の鞄は行方不明になったまま未だ手ぶら状態だ。
 携帯だけでもなんとか無事を確かめたいが、あまり期待はしない方がいいだろう。
 父親たちにまたなんか言われそうだななんて思いながら蛇口を捻り、水道の水を止めた。
 そのとき。

「はい、これ」

 ガサガサとビニール袋を漁るような音とともに足音が近付いてくる。
 声がする方に目を向ければ、コンビニから帰ってきたやすくんがハンカチを差し出してきた。
 どうやらやつの私物のようだ。
 ハンカチとか持ち歩いてるやついんのかと内心驚きつつ、俺は「ありがと」とそれを受けとる。

「一応冷やすやつとか色々買ってきたけど、本当病院行かなくて大丈夫?折れてない?ヒビは?鼻血は止まった?」
「病院はめんどい。わかんない。知らない。今のところは」

 矢継ぎ早に尋ねてくるやすくんに対抗するようにそう俺は答える。
 ハンカチで濡れた顔を拭うが、やはり鼻に触れる度に多治見に蹴られた箇所が痛んだ。

「ごめん、ちょっといい?」

 顔をしかめる俺に気付いたのだろう。
 そう断りを入れてくるやすくんは言いながら俺の顔に手を伸ばした。

「は?なに……ん゙い゙ッ」

 問答無用に人の鼻を摘まんでくるやすくん。
 鼻が折れてないのか確かめているのだろうか。
 躊躇いもなく鼻筋を立てるように親指と人差し指の腹で柔らかく押さえられ、あまりの激痛に喉の奥から変な声が出る。

「ちょっと待っ痛い痛い痛いってまじで」

 顔面から広がる全身を突き抜けるような鋭い激痛に、自然と脂汗が滲んだ。
「やすくんっ」あまりにも続く痛みに耐えきれず慌てて手首を掴み止めさせようとするが、人の顔を興味津々になって見詰めてくるやすくんは「曲がってはないみたいだね」と呟く。

「あ……ご、ごめん。痛かった?」

 痛みに悶える俺に気付いたやすくんは、そう申し訳なさそうに俺から手を離した。
 瞬間、慌てて顔を手で押さえた俺はやすくんから離れる。
 一種の応急処置かなんか知らないが、普通に焦った。
 今まで油断していたせいか、落ち着きを取り戻していた心臓が再びバクバクと騒がしくなる。
 鼻の奥からぬるりとしたものがたらりと溢れ出し、顔を覆う手のひらが汚れた。
 どうやら今ので傷口が開いたようだ。恐る恐る手のひらを開けば黒い液体で汚れている。

「もしかして今のでまた切れちゃったかな、ごめんね。あ、これ一応止血の塗り薬買ってきてるからさ、使ってよ」

「一人で難しいんだったら俺も手伝うからさ」そう控えめに笑うやすくんは買い物袋を軽く持ち上げ、そう俺に渡してきた。
 片手で鼻を押さえたまま渋々それを受け取る俺は買い物袋の中に目を向ける。
 街灯の下、その中には確かに市販の外用薬やミネラルウォーターなどが入っていた。
 特に仲も良いわけでもない俺に対しここまで律儀に尽くしてくれるやすくんだ。
 悪気があるわけではないのだろう。だから尚更、俺にとって扱いづらい相手だった。

 home 
bookmark