Open sesame!52



ずいっとメイドは母に顔を寄せる。そろそろ携帯を返して欲しいと尾白は思う。
「若い身空での衝動、未熟ゆえの浅慮……如何ともし難いものです。ですがあれは駄目、これも駄目と締め付けて防げるものではありません。むしろ厳しくすればするほど衝動は抗い難いものとなるでしょう。それに私達大人も、そうした誘惑を振りきれるかと言われれば疑わしいところがあります」
「う、うん?」
メイドは鬼気迫る勢いで熱心に言い募る。完全に彼女のペースで、それまで覆い被りそうな勢いで熱弁をふるっていたメイドはふいにそれまでの語調を変え、包み込むようなやわらかさを出していく。
「ですから、私達は坊っちゃんを信じるより他ありません。美人様、坊っちゃんは確かな責任感と覚悟をお持ちの方です。その上でお相手の方を大事にされ、そして一般常識もモラルも弁えておられる。――なにせ美人様のお子様ですから」
最後の一言には親としての温情がこめられていたが、さりげなく遠回しに色々と釘を刺されてもいた。メイドがここまで情熱を注いで弁舌をふるっていた理由は分かりやすく、彼女が描いている服のデザイン画にはいつのまにか母も加わっていた。自分の欲にどこまでも正直な人だった。つまり今までのは全て勢いに任せた言いくるめの詭弁である。
こうして筋が通っているのかいないのかよく分からない説得に尾白の母は丸め込まれた。そして奪い取られた尾白の携帯は母からメイドへ、そして尾白へと戻ってくる。無表情ながらそこはかとなくドヤ顔の気配を感じさせるメイドへ、尾白は礼を言いつつ苦笑が浮かぶのを抑えきれない。本気を出した育ての母は実の母とは別の意味で強い。
そして尾白はやっと帰ってきた携帯を手に、表示されたままの日向の画像に目をやる。途端にほっと気が抜けるのを感じた。不思議なことに後輩本人やその本人からの思いの欠片に触れると、尾白は日向に微睡むような脱力を覚えるようになっていた。この気持ちを何と呼ぶのか、尾白はそれを知りたいし願わくば日向と共有していきたいと思っている。
そんな息子の変化を見ていた母が、今度こそ得心がいったというように口の端に微笑みを乗せる。メイドがそんな親子を見て微笑ましげにしていた。
その一連の連鎖を知らない尾白は、唐突に母からもういいから部屋に帰ってゆっくり休めと追いたてられて席を立つ。訳が分からないが、母の心が変わらないうちにそそくさとリビングを後にする。もう一杯だけ飲もうとこっそり画策したらしい母が早速見つかってメイドに窘められているのを背中で聞きつつ、自室へと足を運ぶ。風呂に入ったり軽くストレッチや勉強をしたりとまだすることはあるが、それらを無事に済ませたらモーニングコールの前に夜の挨拶を日向と交わす約束があった。直接会って話す程ではないにしても電話越しでも、いやそれゆえに心をくすぐり染み込んでくるものがあると尾白は既に知っている。知ることができた。
爽やかに澄み、尾白への恋情でやわらかに綻んだあの声を夜の静寂の寝入り端にひっそりと味わうことができるのだ。
――ああ、本当に。
やるべきこと、なすべきこと。やりたいこと、のぞむこと。
脳裏にリストアップされるその一つ一つに目的意識か行き渡り、ぼんやりと水底に漂うばかりだった行動原理が明確な意思を辿って水位をあげていく。手の届かない場所にまで糸が張り巡らされ、すくいあげ、しっかりと区分けされて目の前にぶらさがる。ふつふつと湧いてくる瑞々しい活力が、こんこんと途切れることなく推進力をあげて陽気に叫んでいた。この気持ちと、向かう先に絡め取ったものを絶対に手放すなと。
尾白に魔法の呪文があるとするなら、それは日向になるのだろうか。日向にとっても尾白がそうであればいいと思う。
とにかく後で何時頃なら電話をかけてもいいか、日向に連絡をいれてみよう。
そんなことをつらつらと考えながら夜の廊下を進む尾白の足取りは軽やかに、雲を踏むような心地がしていた。


***

さて、最後に時間を戻してその日の朝にあった出来事をもう一度振り返るとしよう。
スケッチブックを胸に抱えて教室に入った彼女は、何やらいつもより教室がざわついていると感じた。しかし彼女はいまこのなかの誰よりも浮わついている自覚があったので、そのことを深く気に留めず誰かとこの気持ちを分かち合いたくてそわそわと席に着くこともせず見知った顔がいないか探す。――いた。相手の方も話し相手を探していたらしく、数人で固まっていた女子生徒の集団が彼女を見つけて顔を明るくする。手も振ってきた。名前を呼ばれながらこっちこっちと手招きされ、彼女も挨拶を返しつつそちらに向かう。が、向こうの方が一足早かった。
俊敏な動きをみせたその内の一人が彼女の元に辿り着き、肩を抱く。そのしなやかな動きといい、にやんと緩んだ口許といい、猫みたいだと彼女が思っているその人は陸上部に所属している。同性でも心配になるほどの短いスカートから伸びた足が彼女の隣に並んで立ち、顔も寄せられて囁かれる。
「ねえ、聞いた?殿様とそのお相手が一緒にいたのを見た人がいるんだって。これは復縁確定じゃない?」
正確にはこのときまだ尾白と日向の仲は保留の状態だったが、そんなことは彼女達には関係がない。とにかく二人がまた親しくしてくれるならそれに越したことはなく、逸早くそうした情報を手に入れていることからも分かる通り――それには尾白が何をしていなくても目立つというのもあるが――彼女達は彼ら二人の動向を何よりも気にしていた。
通称、尾白と日向の仲を見守る会。
誰が発起人なのか、そのメンバーの正式な人数すら定かではなく自然発生的に発足したその会はこの学校で高校生活を送りながらただ遠くから二人を見守り、その関係を時に意味深に時に拡大解釈してひっそりこっそり悶える。それだけを目的にした会である。
ただ騒ぎに便乗したいだけの者もいるが、基本的にこの会を自称している人間達は尾白と日向をセットで愛でることを喜びとしている。それ以外の目的はないから当然といえば当然だが、尾白と日向どちらにも恋愛感情は抱いておらずその予定もないことが暗黙の了解だった。圧倒的に女子の入会者で占められているものの、少数ながら男子生徒も所属しているという。
友人のその報告を受けて彼女は目を輝かせ、こくこくと頷いた。実はお互いを視界に入れたときからそれとなく嬉しい気配を察知しており、それを改めて確認できてますますお互いの顔に喜色が弾ける。
やったね、と片手同士を胸の下で合わせて小さくて控えめなハイタッチをする。そして二人を待つ友人達のところへ向かう。彼女達もこのことについて話したくてたまらない様子である。
さてそんな密かな楽しみを学校生活の糧としているスケッチブックの彼女は、友人達と合流するその途中で不穏な会話を耳にする。
「マジで幽霊?」
「でもそれで部活休みになるか普通?嘘くせー」
「俺は不審者がうろついてるって聞いたけど」
「本当ならやべーじゃん。えっ、マジで?やばくね?」
「ビビり過ぎ」
「それがさ、校舎でも見たって」
「えぇー……やっべー……」
「……お前そんなだから色々吹き込まれるんだぞ」
「えっ?何が?」
「もういいよ」
話しているのはいま彼女の肩を抱いている友人と同じく普段ぎりぎりの時間に駆け込んでくる生徒達で、運動部に所属している。今の話が本当だとしたら物騒なことである。そこはかとなく不安に襲われながら待っている友人達の元に辿り着いてみると、現金なことに彼女の意識はころりと目先の楽しみに囚われた。陸上部の彼女としたように控えめに、しかし抑えきれない喜びを表明しあってから、できるだけ身を寄せあって小声で話し出す。どの顔もわくわくと楽しそうな気持ちに溢れて、待ちに待った朗報に気分が高揚していた。
スケッチブックを抱えた彼女はこうしたきっかけがなければ今では友人と言ってもいいくらいの関係を築けた彼女達と親しくなることはなかったろう。彼らの知らないところで彼らが結んでくれた縁は他にもあちこちに結ばれ、おかげで彼女の学校生活は当初の予想より随分と奥行きと広がりをもって彼女を歓迎した。
「本当に元鞘?信じていいの?」
「そうであって欲しい〜。私本当にこのまま二人が自然消滅するんじゃないかって不安だったんだよね」
「解散の危機とか言われてたもんね。どこのアイドルかよって」
「私はお笑いの方だと思ってた」
「そっち!?でもこの場合どっちでも変わんない?あれ?」
思わず突っ込んだ彼女は途中で混乱する。発言した本人がどっちでもいいよと朗らかな笑い声を返した。実際尾白こと殿様と、王子と呼ばれる神無月の人気はアイドル視と言って差し支えなく、学校というある意味閉鎖的な環境では格好の娯楽として機能していた。
そんななか尾白と日向のコンビの誕生はその二つの勢力に新たな波紋を投げ掛けた、らしい。水面下では何やら押したり押されたり挟まったり挟まれたりの勢力争いがあったようだが、結局三つの勢力は落ち着くところに落ち着いた。このなかで新参者となった三つ目の勢力は尾白のファンから移動した者、兼任している者もいる。逆に頑なに尾白や神無月の単体のファンを貫く者もいて、どれか一つに絞れる筈もないとどの勢力にも参加している者、その時の気分でふらふらと所属を変える者もある。もちろんこの話題に無関心な者もいた。
スケッチブックを抱えた彼女は尚も友人達が語る真偽不明の二人の噂を聞きながら考えに考え、ついに一つの結論を下す。即ち、自分が見聞きした件の詳細を語らなければ話すことも許されるのではないか、と。正直に言うとあの二人を前にした興奮を誰かに話したくて仕方なかったのだ。欲望に負けた。
「……あの二人、また仲良くなると思うよ。一緒にいたの見たから」

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