花結び18




「でも僕だって負けてませんよ。尾白先輩の傍にいられるようになってからの僕は、ずっと夢の中にいるみたいなんです」
「言うわね」
「そりゃあもう」
お互い睨みをきかせた後、にやっと口の端を持ち上げる。それから卯月は雨月の、日向は尾白のどこかどんなにいいかどれほど好きかを競いあうように、しかし楽しげに語り合った。ああだこうだと言い合う内に、二人の間に見えない何かが繋がっていく気がして、なるほど日向はこんな風にして尾白の隣を勝ち取ったのかもしれないと思う。
しかし本人を前に堂々と言える日向も日向だが、これだけ自分のことを話題にされて平然としていられる尾白も尾白だ。
双方語り合い、このところなかった満足感を得ながら一息ついたころ、日向がぽつりとこんなことを言った。
「……僕も、これが終わったらやろうと思っていることがあるんです」
何のことだと訝る卯月に、友達は大事ですよね、とはぐらしているのかそうでないのか、こちらもよく分からないことを言い出す。その姿勢よく座った日向の輪郭に、いくらか寂しげで切ない色が降り積もっているように感じたのは気のせいだろうか。
「……いくら応援するといっても、実際に頑張るのは本人です。最後の最後は自分の思いが試される」
どこか遠い目付きでたゆたうような口調には、そこはかとないほろ苦さがある。日向は卯月に言っているのか、ただの独り言なのか判然としない。卯月は眉の間に皺を刻む。その後ですぐに表情を改めたが、唇が不機嫌そうに尖っていたのを見られただろうか。
「分かってるわよ、そんなの」
と、ぶっきらぼうに言った。それに言葉少なに応じた日向の声音は卯月の視界の大半を占める空に馴染む。優しさと温かさに彩られながらも見えない何かに隔てられ、こちらの手が届きそうで届かないもどかしさ。間もなく昼休みが終わろうとしている。青い空に悠々と浮かぶ雲、それにフェンスと校舎が構築するありふれた風景のなかで、それこそ雲のような男がのんびりとあくびをした。


***


卯月は先に屋上を出たので、午後の授業が始まろうとする廊下を行くのは尾白と日向の二人だけになる。日向はいつも通り尾白の斜め後ろにつき、まだ余裕をもって余暇を楽しんでいる者、忙しなく二人を追い抜きすれ違う者など廊下は近付く休息の終わりに向けてざわついていた。その只中を二人は歩く。幸いどちらも急ぐことはないので、その歩調は緩やかである。交わすのは何てことのない会話であり、そういえばこんなことがあったとの報告や昼御飯がおいしかったこと、今日も雲が出て嬉しかったことなどいかにも呑気らしくとりとめがない。
何も語らずただ沈黙に浸る時もあるが、ここのところ卯月との話し合いで二人きりの時間は少なくなっていた。その隙間を埋めるように日向は尾白に話しかけたし、尾白はそんな日向に付き合った。
その会話が途切れた合間に日向が、うまくいといいですねえと後ろからしみじみと言う。聞き返すまでもない。卯月のことだ。彼女との話し合いのあと毎回日向が漏らす憂慮と期待である。尾白は適当に返し、二階に着いたところで振り返る。ここでお別れだ。一年の日向はまた一つ下に下りることになる。
「じゃあ、ここで」
「はい。今日はありがとうございました」
尾白は言葉少なに、日向が微笑んでお決まりの別れをした時だ。すれちがいざまに一言、通りすがりの生徒が忌々しそうに放った言葉があって二人はその場に固まった。毒でも塗り込めたような刺々しさが込められた語調だった。尾白はその生徒の後ろ姿を目で追う。
二人に向かって聞こえよがしにぶつけられたそれは、二人がある種の関係にあり、それは悪意をもって攻撃してもいいものだと身勝手に断じた傲慢さがあった。
尾白の見たところ、悪意ある一言を発したその生徒は全身から毒々しい色の糸をあちこちに伸ばしており、いわゆる虫の居所が悪くむしゃくしゃした状態なのだろう。尾白達が気にくわないというより、イライラしているところにちょうど八つ当たりに適した相手を見つけたので通りがかりに憂さ晴らしをしていった、といったところか。
日向は尾白への気持ちを隠せていないし、尾白もあえて周りにそう思われるような言動を取ったこともある。そんな二人は何かと目立ち、あることないこと噂されているとも聞く。それが悪い方に出たのだ。まあこういうこともあろうと尾白は通りすがりの生徒の一言を流し、後輩を見やる。
すると後輩はその通りすがりの生徒のことなど眼中になく、ただ尾白のことを心配していた。尾白が傷付いていないか、嫌な気分になっていないか、ひたすら気遣わしげにしている。こんなときでも日向が優先するのは自分のことではなく他人の、尾白のことだった。
尾白は何か言おうとした日向を待たず後輩の頭に手を置くと、突然のことに固まった後輩も自分達に一斉に注目した視線の束も気にせず、日向の頭を撫でに撫でる。ついには両手を使ってわしゃわしゃとかき乱し始めた。
尾白の子供じみた行動がおかしかったのか、単にくすぐったかったのか、戸惑いが大きかった日向の表情が次第にやわらぐのを見て尾白は内心でよしと頷く。ぐちゃぐちゃになった髪を適当に撫で付けてやり、それじゃあと踵を返した。
その背後で後輩が例のあの表情で尾白への気持ちに浸っているのかと思ったりもしたが、さすがにそこまでは考えすぎかもしれなかった。


後日、また再びの廊下の角で身を潜める尾白と日向の二人である。今回はあっちに行くといいことがあるぞよと予言する尾白と、そのお付きの日向という設定だった。
卯月としては正体不明の襲撃者から命辛々逃げ出してきた二人が雨月に遭遇し――とスリルありアクションありの設定にしたかったらしいのだが、そこは尾白と日向から却下され先に書いた内容になった。卯月はなかなか突飛な空想の持ち主らしい。
そして今回潜んでいるのは四階、いつぞやの雨月が日向へのプリントを頼まれた階であり、また彼女が昨今興味をそそられている白い毛玉の目撃談が複数あがっている階でもあった。その階に通じる階段から廊下を覗く二人の他にもう一人、今回は卯月も二人の傍近くに控えていた。中庭に面した廊下の窓からこっそりかつての友の動向を探っている。今日は雨雲で陰って薄暗いから見通しは悪い。
今回の作戦の前に日向がこのところターゲットが傾倒している白い毛玉探しが卯月と何か関係があるのではないかと進言してみたところ、卯月の反応は芳しくなかった。あまりに楽観的に過ぎるというのが彼女の考えで、こちらがたじろくほど自信家かと思えばもどかしいほどネガティブな面もあり、色々複雑な性格のようである。
ターゲットは基本的に一人行動で、気の向くままにふらふらとどこにでも出歩いていく。そこが日向が尾白に似ていると言っていた部分なのだろうが、しかし決定的に違う部分もあった。
ターゲットの場合、行く先々でそこにいる人や既知の人物と偶然に居合わせすっかり打ち解けてしまうのだ。できることならターゲットにのみ接触して目的を果たしたい身としては手を出しにくくなる上に、そうした場合に無理にでも突撃すればターゲットには逃げられ、例によって尾白と日向が人目も場所も憚らずいちゃいちゃしているという誤解も受ける。最早パターンと化した流れであった。一人の時を狙っても、どういうわけか尾白達を含む卯月とターゲットとの間に予期せぬ人のバリケードがたちどころに現れる。
素人の突貫作戦の成功率など高が知れているが、それにしたって失敗しすぎだった。
「……今のところは一人ですね」
「だな」
ターゲットがこちらを向きそうになったので、顔をひっこめた日向の報告に尾白が頷く。卯月もチャンスを窺ったままだ。
ターゲットはどこから入手したのか、あちらはあちらで小さな網のようなものを手にしている。恐らく噂の白い毛玉を確保するためだろう。いい具合に人の往来もない。作戦決行にはいい案配かと思われたが、しかし度重なる失敗が彼らに二の足を踏ませる。
四階廊下はむっとするような湿気である。閉め忘れていた窓から吹き込んだのだろう水気で廊下はうっすら濡れていた。雨月や尾白達が来る前に通っていったのだろう足跡が、薄暗い外とは対照的に電気をつけて白々とした廊下の表面に浮かび上がっている。
そうしてまごついているうちにやはりというべきか、またも彼らは雨月と合流する生徒を目撃する羽目になった。作戦失敗の四文字が三人の脳裏を過る。
その顔ぶれは日向のクラスメイトの玉生と矢田川、それに勅使河原だった。卯月が窓越しではなく直接見ようと廊下を覗き、尾白が日向を見やると後輩は首を横に振る。クラスメイトの間であらかじめ決められていた行動ではないらしい。彼らが雨月に会いに来た理由は、揃って何か話しながら雨月が手に持っている網を振っているのを見れば自ずと知れる。するとそれまで絶えていた筈の通行人の姿も見え始め、なんだかパターンにハマってきたなと尾白は思う。だが今回はいつもと違った。
様々なフォームで振りかぶりアクロバットな芸を披露してた雨月が、うっかり足を滑らせて体勢を崩したのだ。
「危ない!」
鋭く発した声は誰のものだったか。尾白が数歩踏み出したときには、既に玉生が雨月をしっかりと支え事なきを得ていた。硬直から解けた後は気の抜けた安堵が広がる。女子二人――というより主に矢田川がよほど肝を冷やしたようで若干泣きの入った小言を繰り出している。そうしているうちに勅使河原があっと小さく声をあげた。雨月がその視線を追い、まず一番に廊下側に飛び出していた日向を見つける。同時に中途半端に姿を見せていた尾白も見つかった。
「あっ、どうしたの二人ともー。またラブラブしてるの?」
雨月が元気よく言ってくるのに、尾白と日向は脱力したような、まだ体の奥底に抜けきらない緊張があるような複雑な感覚を持て余して顔を見合わせる。そしてすぐにもう一人の存在に思い当たってその姿を探した。尾白の影で卯月が尻餅をついて蒼白な顔で固まっている。
どうやら尾白に隠れて雨月からかつての友の姿は見えなかったようだ。日向と一緒になって後輩達の相手をしているうちに当の卯月は廊下から姿を消していた。

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