花結び10



尾白は知らずこの後輩のことを考えるようになっていた。日向が傍にいることが日常になっている。下駄箱の手前、ちょうど日向の作るタルタルソースの味を恋しく思った地点で尾白は足を止める。日向も止まった。
「……明日、晴れて雲が出たら」
尾白は制服のズボンのポケットに手を入れる。
「話したいことがある」
聞いてくれるか、と向き直って言うと、はいとすぐに答えが返ってきた。日向は尾白の言葉を何の疑いもなく受け入れ、真っ直ぐに尾白と向き合う。
明日の昼休みは早めに落ち合おうということになり、帰り道は逆なので校門を出たところで別れる。
「では先輩、さようなら」
穏やかに言う日向に、尾白の口からは自然と次の言葉が滑り出ていた。
「また明日な」
それを受けて一足早い夕焼け色が何度か瞬き、次には喜色を滲ませ、蕩ける。
「……はい。また明日」
尾白は坂道を下り、やがて立ち止まる。尾白が下ってきた方の坂道は途中で道を折れると大きな通りに出る。三人娘が流行りに敏感なら彼女達はこちらの道を使って目当ての店に向かった筈だ。反対に日向が辿った経路はクリーニング店など昔ながらの小さな商店が並ぶ。どちらにしろ尾白が見渡す視界に既知の人間は見当たらない。
念のため振り返って日向の姿が見えないことも確認すると、尾白はずっと手を入れていた制服のポケットから一枚の紙を取り出す。不審人物が落としていったものであり、その前はゴミ箱に入っていたものである。日向の教室の前で出会い、見て見ぬふりを頼むと隣に座ってきた雨月が手にしていた紙と同じもの。ただこの紙には空欄を埋めた解答と名前が記入されている。皺が寄り変な折り目がついた紙面に並ぶ、縦に長く細い几帳面な字で書かれた名前は日向空翔。その名前を幾度か視線で撫でてから、尾白は今度は丁寧にそれを折り畳んで鞄に入れる。これまで見えたものを思い返しながら雲を探した。
また明日なんて約束、いつぶりにしただろうなんて考えながら。


翌日は上天気で、白い雲が折り重なるようにして空に浮かんでいた。過ごしやすい陽気で通りすぎる風も心地よく、穏やかで和やかな時間が流れる。尾白も日向も既に昼食を食べ終え、どちらもフェンスに寄りかかって空を眺めていた。他に人はおらず、それでも尾白は横にいる日向にだけ聞こえるように声を落としてぽつりぽつりと話し出す。
「日向は不思議な話とか……そうだな、超能力とか信じるか?」
突拍子もない発言に隣から不思議そうに尾白を伺う気配がある。それでも後輩は茶化すでも冗談にするでもなく、ただ愚直に答えた。
「……そう、ですね。あれば面白いとは思いますが、本当にあるかどうかは判断できません」
「今から話すのはそういう類いの話になる」
日向は神妙に控えている。その様子が見るまでもなく想像できて尾白の口の端が僅かに緩んだ。そのやわらかな綻びも続く言葉を発していく内に徐々に失われていく。
尾白は元々あまり対人関係に興味が持てない人間だった。繰り返しになるが、雲をただ眺めているのが好ましい。それに尾白は情とは可視化するなら糸のようなものだと思っている。絡まって解れやすいあの糸に。いっそ目に見えれば分かりやすいのにと何度思ったか知れない。
「ちょうど去年の今頃になるかな。ここで雲を見てたら急に糸が見えた」
いつものようにぼうっと空を眺めて、ふと屋上を見回したら尾白の視界に入った仲睦まじい男女二人を取り巻く赤い糸が見えた。いつのまにか現れたその赤色はそれからも一向に消えず、どうやら二人の手から伸びて繋がっているらしいと分かった。瞬きしても目を擦ってみても消えず、昼休みが終わって校内に戻っても通りすがる人々から、またどこからか伸びる色のついた糸が尾白の視界を埋めた。学校から帰る時も、帰った後も同じだった。
その日から尾白が見る世界の姿は変わり、尾白が空を眺める行為にも別の意味が加わった。
「それからはずっと見えてる。家でも学校でも、どこにいても見える。でも空を見ているときだけは別だ。高いところから雲を見ると、糸がないそのままの景色がある」
さすがに空高く、もしくは遥か高みから糸を垂らす人間はいないらしい。
始めはどこかおかしくなったのかと思った。まずは症状を隠して病院に行き目をみてもらったが特に異常は見つからず、後は脳か精神的なものを疑った。しかし最初の驚きから覚めて腹が据わってみると、尾白はいつも通り全てを受け流すことに決めた。こんな状態でもそれができてしまえたのが尾白が尾白たる所以であろうし、糸が見える以外の身体的異常が起きなかったのも大きい。
慣れたともいえたし、自暴自棄になったとも言える。尾白は糸と共にある人々の営みを見たとき、興味深さや感動よりまず面倒臭さを感じたのだ。糸が見えるという現象への気味の悪さより、見えた糸が示すものへの忌避感や倦怠が勝った。あれに関われば囚われる。だからできるだけ距離を置き、遠く、曖昧な存在でいたかった。そう考えると逃避が一番近いのか。
それから尾白は自分が発見したささやかな糸の特性について話した。これも積極的に事態を解明しようとしたわけでなく、日々を送る内に気付いたこと、そうじゃないかとなんとなく推測を重ねてみた結果に過ぎない。日向は黙って聞いている。
尾白は糸が見えるだけだ。触ろうとしても目の前にある糸を横切っても何の感触もなく通りすぎる。やろうと思えば何かできるのかもしれないが、現状尾白が糸に関することで望むことなかった。
糸も恒常的に出ているわけではなく、どうやらその人物が強く何かを思ったときに発現するらしい。消滅についても同じで、糸の長さに制限はなく、色についても数限りない。故に双方向、或いは一方的に人同士を結び、時には人とモノをも繋ぐ。
この現象が何であったとしても、役に立つのか分からない実に中途半端なものである。もっと繊細な人間だったなら人の感情の向かう先が大雑把にでも見えてしまうことに参ったかもしれないが、そこは尾白である。持ち前の淡白さで糸が見える前と同じ毎日を過ごした。むしろ日向が現れてからの方が尾白を取り巻く変化は著しかったと言える。
「――信じますよ」
一通り話し終えた尾白に隣から真っ直ぐな声がかかる。まるで頭上にある大気のようにどこまでも広く包み込む深みがあった。
「どうかな、嘘かもしれない」
自分でも捻くれていると思う返しを、後輩は難なく受け止める。
「それならそれでいいんです。人を傷付けるような嘘ならともかく、今のは尾白先輩が随分とメルヘンな発想をするんだなって微笑ましく思うだけですから」
「俺の頭がおかしいだけかもしれないぞ」
「それなら尚のこと、僕はこう言わなければなりません」
そのやわらかな声音に引き寄せられるように隣に顔を向けた尾白と日向の目が合う。やわらかく眼鏡越しの夕焼け色が滲んだ。
「……打ち明けてくださって、ありがとうございます」
これ以上ないほど優しく微笑まれ、尾白は目の前の後輩から目が離せなくなってしまう。そのうち落ち着きを無くした心中を持て余して後輩から強引に顔をそらした。
なんだろう、なんだか、気が抜けたというより気持ちがふうっと軽くなったような、それなのにふわふわと温かい何かが体の奥底から湧き出して急かされるような――なんだろうこの気持ちは。雲に感情があるとしたらこんな感じだろうか。
それから糸が見えるようになった原因について、尾白は自説を披露した。根拠も証拠もあったものではないが尾白の内部から発生したものではなく、外部から影響されて発生したものではないかと思う。
何より尾白自身がそういった不可思議な現象を信じきれていないのだ。ある日突然超能力に目覚めたなどという夢物語を信じるくらいなら、自分がおかしくなったと考えた方がまだしも納得がいく。すると何か考え込んでいたらしい日向が、あっと小さく声を上げた。
「そういえば先輩、白い毛玉の噂を聞いたことがありますか?」
「あるけど、関係あるか?」
「それこそ漫画みたいな話ですけど、可能性という点でなら有り得るかと。本当にそんなものが存在するならの話ですが」
「それでその白い毛玉の効力が本当にあったとしたら、そのせいかもしれないって?」
「はい。もちろん全く関係ない場合もあります」
仮定に仮定を重ねすぎてなんだか現実感に乏しい。そう言うと、僕もですと日向が苦笑する。
「――その、僕はあんまり詳しくないんですが、その毛玉の噂はそんなにこの学校に馴染みのあるものなんですか?」
日向としては昨日のクラスメイトとの会話などを思い返してみるに、ただの噂にしては信じられすぎているように感じたのだそうだ。集団心理や学校という閉鎖的な環境によるもの以上に、もっと根っこの部分から共通の下地があるように思う、と。
もどかしそうに説明する日向に、思い当たる節があった尾白はすぐに回答を用意できた。
「それなら多分………ほら、あの山」
尾白が指差したのは学校の背後に聳える山である。毎日目にしている筈なのに、こうして示されると初めてその存在を認識したかのような気分になる。
「あそこに雲さんが集まって空に昇っていくっていう昔話……いや言い伝えか?そんなのがあるんだよ。その白い毛玉もそれを元にした噂なんだろうな」
聞けば日向がこちらに来たのが約二年前。日向と暮らす叔父さんも元々この土地の者ではないという。今現在住んでいる場所もこちらの地区からぎりぎり外れている位置にあるらしい。知らないのも無理はない。
「本当に子供に聞かせるための話って感じだから。あそこにはお化けがでるぞ、みたいなもんで、でも本気にしてるやつはまずいないし今だと知ってるやつの方が少ないんじゃないか」

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