花結び




そんなに気にしていたわけでもないのに、後から思い返してみると不思議なほどはっきりとあの日の色合いを思い出せる。快晴だった。風がそよぐ、雲一つない穏やかな陽気である。
珍しくいつもより早く家を出たのはこれまた珍しく目覚ましより早く目が覚めたからで、勤勉で実直な志に目覚めたわけではない。上昇思考のない怠け癖のついた人間が、何年にあるかないかの滅多にない行動力を発揮した日でもあった。つまりは気まぐれである。
向かう先の校舎は坂の上に立っている。正しくは丘の上らしいのだが、大した違いはないと思う。校舎に入るにはどの道からも登るしかなく、緩い傾斜だがそれなりの距離がある。高校の敷地がそっくりそのまま他の平地より一段高い場所にあると考えてくれたらいい。背後には山が控えているから、遠目に見ると校舎が山を背負っているような、もしくは山が校舎を従えているような景観が望めた。
加えてこの学校には至るところに緑が配置されており、駐車スペースの横手にもそれはあって仕切りの役目を担っている。礼儀正しく畏まっているそれら緑の群れの脇に――ふと何かが漂っているのを見つけた。なんとも珍妙な思いに駆られたのは、やはりそれがどう見ても自力で浮いているように見えたからだろう。その時風は止んでいたのだ。
白い。そして小さい。何やら丸っこくてふわふわしている。まるで兎の尻尾のような。
近付いていくと、ちょうど親指と人差し指で丸を作ったほどの大きさものがふらふらと揺れながら移動していた。海を泳ぐ海月のような動きである。その物体Xの進行方向はどうやら山の方らしかった。植物の毛か動物の毛か。密集した純白の毛のようなものがふんわりと球状の輪郭を形成しており、何とも触り心地の良さそうな見た目をして――浮かんでいる。いや飛んでいる。
不可解だった。不可思議だった。試しにふうっと息を吹き掛けてみると、それは慌てたような素振りを見せて地面すれすれまで沈み、持ちこたえてからふいっと目の高さまで浮き上がる。この物体のどこにそんな飛行能力があるのかさっぱり分からない。それ以前にこれが生き物なのか、或いは全く別の何かなのか、そこからしてもう理解不能だった。
しかし恐れや気味の悪さといった敬遠する感情は生まれてこず、逆に摩訶不思議に対する探求心が湧き立った。
そのまま遠くへ行かずに様子を窺うようにして浮遊している球形の物体に思いきって手を近付けてみれば、むしろそれは吸い寄せられるように寄ってきた。触れるか触れないかの距離まで近付いたとき、皮膚にふわふわの毛の感触を感じて咄嗟に手を引っ込める。何か一瞬流れ込んできたように思うが気のせいだろうか。
変わらずに目の前で浮遊しているそれと自らの掌を見比べ、やがて抗い難い欲求に唾を飲み込む。
それから周囲を見回して人がいないこと、誰にも一部始終を目撃されていないことを確認するや取り出したハンカチで未知の物体を潰さないよう包み込み、急いで校舎内へ入る。ちょうどいい案配の容器を探し出しその正体不明な浮遊物体を無事にしまいこんだ瞬間の、あの得も言われぬ興奮は恐らく一生忘れまい。
魅入られたというなら、あの瞬間ほど何かに囚われたことはなかった。
後から知ったことだが、校舎が建つ随分と昔、この土地は雲の通り道だと伝えられていたという。


***


屋上のフェンスに寄りかかって座り、尾白八雲は飽きることなく空を眺めていた。昼休み。今日の空は薄曇りである。どんな空模様でも雲一つあればどこでもいつでも眺めていられる。尾白はそういう人間だった。逆に雲一つない空にはあまり興味を引かれない。ある意味分かりやすい趣味をしている。
白い髪に金の瞳。外国の血が混じっていることを彷彿とさせる整った容貌に、長身で均整のとれた体つき。体も程々に鍛えており、頭の出来もいい。恵まれた容姿と言えたが、如何せん覇気がなかった。どこかだらしなく間延びした印象なのだ。普通ならミステリアスやアンニュイなどと形容される外見を持ちながらも、何ともだらけた空気がそれを打ち消す。どうにも気の抜けた人物だった。
この男、こと人間関係の構築に関しては雲ほど関心が持てないらしくそこまで熱心ではない。しかし学校生活は不自由なく送れているからコミュニケーション能力に難があるわけではなかった。何事も波風を立てず、極端に走らずに程々が一番と、雲の如くのらりくらりと過ごしている。
小さい頃から空を、雲を眺めることが好きだった。変幻自在に姿を消しては現れて、どこまでも流れていく。憧憬にも似た思いも、一方で見当違いな屈折した思いも向けたことがあったが、今はただ移り変わる様を何を思うでもなく眺める。それだけの時間がただ好ましいのだった。
しかし尾白はマニアというほど拘りを持っているわけでもなく、景色の一つとして好ましく思っている程度なので半端と言えば半端である。
尾白は学校にいる場合、雲が出ていれば昼に屋外に出て雲を眺める。天気が優れない場合はやはり屋内で空を見た。雲が出ていない時が最も手持ち無沙汰で、そんな時は適当に時間を潰す。
通い詰めているのは専ら屋上であり、尾白はフェンスに寄りかかって座り時間が許す限り大空にある雲を心ゆくまで堪能した。
そこに、何者かが近付いてくる気配がある。雲を見ている時の尾白は散漫な意識ながら一点集中している。そんな状態で他に意識が向くというのが新鮮で、戸惑いつつも面白いとも思っている。そろそろ来るかと予感とも期待とも知れぬ思いが心の片隅で小さく跳ねる。それが奇妙で心地いい。
「先輩、こんにちは」
座る尾白の横に立った男子生徒の発音は明瞭で真っ直ぐに耳に届く。声音も爽やかで穏やかだから、聞いていると自然と気持ちが凪いでくる。
そう、尾白が来ると予感していたのは何を隠そうこの後輩だった。それも相当物好きな後輩である。
そろりと視線を移動させると、空色の髪に夕焼け色の瞳を持つ眼鏡の男子生徒が人好きのする柔和な雰囲気を纏って立っていた。この後輩に対する尾白の印象は初めから変わっていない。今日も同じ印象を抱いた。なんというか、犬っぽいのだ。
その後輩の全身の姿形を確かめるような間を置いて尾白は言う。
「今日も来たのか」
「来ましたよ、今日も」
当たり前です、と幾分自慢げに言うのが無事に主人の元に辿り着いた忠犬が褒めて褒めてと目を輝かせているようで知らず尾白の目が細まる。
隣いいですかと尋ねられ、好きにしろと答える。後輩は尾白の横に腰を下ろし、そのまま黙って空を見上げた。尾白もつられて空を見る。没頭した振りをしながら、頭の中ではこの後輩との真新しい記憶を思い起こしていた。


あの日も尾白は屋上にいた。風が強い日で、小気味良く流れていく雲をフェンスに寄りかかって座り一人ぼうっと眺める。進級しても同じ一年を繰り返すのだと思っていたし、事実そうするのだと決めていた。新年度に伴い張り切る健全な教師や生徒達とは真逆の境地にいる尾白は、完全なだらけモードに入っていたのだ。他に屋上に人はいなかったから余計に気が緩んでいた。
「あの、すみません。尾白さんですか」
うん、だとか、ああ、だとか胡乱な反応をしたと思う。
尾白の弛緩していた精神にここが学校であることを思い出させたのは、眼鏡をかけ空色の髪に夕焼け色の目をした人物だった。緊張した面持ちで尾白の横に立っている。恐らく新入生だろう。見たところ理知的な好青年といったところか。制服の白が初々しい。
この学校の制服は男子が白ラン、女子が白セーラーとなっていて、男子は合わせ目のファスナーのラインとその下のシャツが、女子はスカートや襟に胸当て、スカーフなどが水色という配色になっている。尾白などは頭も白いからほぼ全身白ずくめの状態になる。
その尾白は心持ち姿勢を正し、その人物の輪郭をなぞるように見てから一度視線をそらした。しかしすぐに引き戻し、また見る。その男子生徒は辛抱強く尾白の返事を待っていた。
「確かに俺は尾白だけど、何か」
用か、と言い切る前に男子生徒は躊躇いなく尾白の正面に正座した。
対して尾白は本人だと認めた途端にその生徒の表情がぱっと明るくなったのを犬っぽいなと思う。
「僕は日向空翔といいます。この春から入学した一年で」
尾白の読みは当たっていた。それからこの後輩は尾白の名前と居場所を聞いて回ったことを告げ、堅苦しい詫びまでつけてきた。慇懃な態度の後輩に比べ、緊張感のない先輩こと尾白はそれは別にいいと受け流す。
「お前が後輩なのは分かった。それで?何か用だったんだろ」
促すと後輩はますます鯱張る。
「はい。僕は先輩に告白しに来ました」
それから居住まいを正し一呼吸置いた後、おもむろに告げる。
「先輩が――好きなんだと思います。恋愛的な意味で」
後半は頼りなく語気が落ちたが、それでもその言葉は最後まで真摯に尾白の耳に届いた。
「……悪いけど、今は誰とも付き合う気はない」
尾白のはっきりした返答にも後輩は揺らがなかった。むしろ、ごもっともですと納得顔で頷いてみせる。断られるのは承知の上だったのだろう。後輩は真っ直ぐに尾白を見据え、ただ愚直に問う。
「では先輩、僕がこれからも先輩を好きでいることを許してくださいますか」
問われた方は顎に手をやり、上空に目をやりながら答える。雲の様相は先程見た時よりも変化していた。
「俺もそこまで強要するつもりはないよ。好きにすればいい」
思うだけ、考えるだけならそれは個人の自由である。尾白がとやかく言える筋合いはない。正直なところ、目の前の後輩を慮ったというよりそこまで人の内情に首を突っ込む気も興味もないのが本音だった。
それでも幾らかほっとしたらしい後輩は僅かばかり表情を緩め、ありがとうございますと礼を言う。人好きのする微笑みだった。少々勢い任せの感はあるもののそれは尾白にも言えることだし、これがこの後輩の常ならばきっと周囲に人は絶えないだろうと思われる。
それからまた固さを取り戻した後輩はやや前傾姿勢になり、つきましてはですね、と声を潜める。風が強いのでうっかりすると聞き漏らしそうだ。尾白もつられて身を乗り出す。
好いた惚れたの話である。本来ならもっと何かあってもいいようなものを、どちらもその気配が薄いから色気はない。よからぬ商談でもしているかのような雰囲気である。密談には違いないのだろうが、間は抜けている。
「今後も僕は先輩に好意を伝えてもいいでしょうか」
「さっきみたいにか?」
尾白が問うと後輩は生真面目に同意する。
「さっきみたいにです。それからこうして会いにきたり、話したりもしたいです」
「どうかなあ、靡かないと思うぞ」
尾白は努力が無為に終わることを告げた。それでもいいと目の前の後輩は言う。
「迷惑ならしません」
「迷惑というか、なぁ」



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