その日


――きっと、彼は覚えていないだろう。
その日、日向空翔はぼんやりとした重苦しい不安に包まれていた。あの日からというもの、たまにこうなる。何が悪いわけでもない。ただここにいてはいけないと、そんな気持ちに急かされて居ても立ってもいられなくなる。
籠っていた自室から戸口へ向かい、物音を聞きつけてやってきた心配顔の叔父に携帯を掲げて見せ、何があっても連絡は怠らない旨を告げて外に出た。
昼を過ぎ穏やかに注ぐ陽光が日向を迎える。路地や塀など日常になっているはずの景色がなんだか現実感を欠いてよそよそしく感じられた。知覚できる色や風、温度などは春の気配を滲ませているのに、ちっともそれらしい気がしない。目の前の現実と見えない膜を通して接しているような手応えのなさ。――分かっている。日向の感傷がそうさせるのだ。
できるだけ狭い路地を選んで歩く。こんなときはとにかく体を動かすことにしている。くたくたに疲れて眠ってしまえば、この身の置き場のない不安を奥底に閉じ込められるのだと知っていた。
日向はこの春から高校に通う。両親はおらず、叔父の元へ身を寄せて二年になる。共同生活はうまくいっている方だろう。親類という括りでいうなら、日向は父の弟である叔父の他に母の妹である叔母くらいしか面識はなく、祖父母――父と母それぞれの両親も日向が生まれる前に鬼籍に入った。そういう家系なのだった。
一歩一歩、身に生じる不安を断ち切るかのように進む。
日向は痩せ型で、顔立ちは整っているが目立つ方ではない。背丈はそこそこ。濃い空色をした髪に夕焼け色の瞳を持ち、眼鏡をかけている。服装といい容姿といい理知的と言えば聞こえはいいが、他に特徴らしい特徴はなかった。人が良さそう、いい人そうだと言われたことはあってもそれ以上の評価を得られたことはなく、自分はそんな無難な形容が似合う人間なのだと日向はそう自認している。
無心に歩いていくうちに闇雲に突き進んでいた日向の足が止まった。狭い路地を抜けた先、広くなった通りにまばらに行き交う人波の合間。そこにやけに目を引くものがある。咄嗟に連想したのは母が好きだった綿飴。しかしすぐに違うと知れる。あれは人の頭だ。それも若い男のもの。その男は歩道の脇に置かれたベンチに座り、何をするでもなくぼうっとしていた。その人物の頭が綿飴のように真っ白で――いや、もっと近いものがあると日向は記憶を浚い、今も悠々と空に浮かぶ雲を連想する。いかにも自由気儘でどこにでも流れていきそうな雰囲気があった。
そう思ったらなんだか気が抜けてしまい、日向はふらふらとその男が腰掛けているベンチに引き寄せられ、座る。途端に倦怠感が全身に回った。そこまで長い距離を歩いたつもりはなかったのだが、気疲れが出たのかもしれない。
それからはぼうっと、地上の建築群から半ば塗りつぶされている空と流れていく雲を見た。日向は何も考えていない。思ってもいない。頭の中は空っぽで、強いていうなら目に映った情景がそのまま頭蓋の中に投影されている。
時間を忘れて見入っていると、ぼそりと隣から何かが聞こえてきた。
「……雲はいいよなあ」
そうと構えていなくても自然と耳に入ってきてしまう声音だった。落ち着いて、しっとり馴染む。それが隣にいる男が発した言葉の羅列だと気付いたのは、それから滔々と垂れ流された男の雲に対する述懐にどっぷり浸かった後だった。
適当なのか緻密なのか、つかみどころのない話し振りで綴られる男の話は何やら雲というものに対してそれなりの思いがあるようなのだが、話しかけられているのか独り言なのか判然としない。なので日向は黙してただ男が語るに任せた。日向とて頭に霞みがかかっているような状態だったから、それらしい反応をするのが億劫だったのだ。端から見れば間抜けな構図だっただろう。それでも日向はその時間を特に嫌だとは思わなかった。
雲の発生から始まり一巡りしてまた空に戻る。最早それは雲というより水の循環の話ではないかと思わぬわけでもなかったが、その過程をまるで雲そのものになった気分で聞く。雲の種類にその形状、色合い。空と馴染み、風に乗る。昼でも夜でも関係なく、条件さえ揃えばいつでもどこでもそこにあるもの。
男の語り口には宙を漂うものへの憧憬と親しみが込められている。日向もいつしか隣の男と幾度も雲の群れを見てきたような錯覚に囚われた。現実感の乏しかった自我がにわかに興奮を示す。何だかんだ言って男の話を面白いとも思っていたのだろう。日向は近くに寄れば寄るほどぼやけ、遠くにあればあるほどその全体像を捉えやすい所が気に入った。
男の話が地上に慈悲深くも残酷なその恩恵を与えた時、日向の意識は語られる言葉そのままにすうっと地に足をつけた。
目が覚めた。我に返った。表現は何でもいいが、とにかく日向は安定を取り戻した。自分の立ち位置が思い出され、あれだけ日向を急き立てていた不安も消えていることに気付く。男の問わず語りは流れに流れて再び空中を漂う雲に戻っている。
それから何度か言い淀んだ後に、
「つまり、地球はスゴイ」
と、雑過ぎる一言で締め括った。満足そうに誇らしげな鼻息まで聞こえてくるから、日向は少し笑ってしまった。何が目的かは知らないが、ここまで長々と語った男の話にこれといった意図はなかったらしい。ただの暇潰しだったのか。もしくは本当にただの独り言か。どちらにしろ怪しいことには変わりなく、それなのに日向はこの奇妙な男の気質にすっかり親近感を抱いていた。愉快とすら感じている。不思議な男であった。
それから日向は改めて空を見上げ、先程までの男の長口上に自分なりの感想や答えを伝えておこうかと思った。隣の男は日向が何を言ったところで気にも留めないだろうし、むしろ不審に思うだろうが、何か一言でも言っておかねば気が済まなかった。なに、隣の男の長い独り言につられて日向も独り言を呟いてみるだけのことだ。遠慮することはない。
心なしか鮮やかに映る景色のなか、小さな楕円の塊の雲を見つけて日向は今日の夕飯に叔父と一緒に餃子を作る約束をしていたことを思い出した。母の得意料理で父の好物でもある。出掛けに声をかけてくれた叔父には随分とそっけなくしてしまった。帰ったら謝って、一緒に餃子を作ろう。そして美味しく食べるのだ。
そうやってさっぱりとした気持ちで宙を見やる日向の胸に、自然と浮かんだ思いがあった。
「僕は、空を飛んでみたい」
羽を生やしてあの大空を、雲と戯れながら行けるところまで行ってみたい。
そんな子供じみた願望を口にして、多少の羞恥に耐えられるのなら例え荒唐無稽の妄想であっても言ってやった達成感が得られるのだと知った。実際は多少どころかなりの恥ずかしさが後からきたわけだが。さっき誇らしげだった隣の男もこんな気持ちだったのだろうか。
日向は隣から発せられる視線を感じ、そんなに注視されるほど顔が熱くなっているのかと疑念を覚えて隣の男の方を向く。太陽の煌めきを宿した朝焼けの瞳と目が合った。



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