60


見た目と声の差異に混乱をきたしたものの、糸雨は気圧されまいとして腹に力を込めて姫と向き合った。
そう広くない室内であるにも関わらず、両者の間は底なしの深い谷で隔たれているようだった。近くて、遠い。
それにしても、人形じみた様相の彼女――改め彼から「人間か?」などと言われるとは心外甚だしい。糸雨は彼の厳しい態度を物ともせず苦笑いで肩を竦めた。

「人聞き悪いこと言わないでください。俺はヒトですよ。正真正銘の」
「普通の人間は自分を『ヒト』とは言わんぞ。おい貴様、何が目的でここに来た?」

敵愾心を隠しもせずより一層の圧が糸雨を襲う。その攻撃的な波動は、少しばかり霊感に優れている者なら即刻逃げ出したくなるだろう。
しかし糸雨は彼と対立したいわけではない。無抵抗を表すように両手を上げ、いつも通りに穏やかな物腰で話しかけた。

「敵意や害意はこれっぽっちもありません。かといってあなたの客でもないです。ただ俺は、知りたいことがあってこれを追ってきただけですよ」

慎重に手を下ろした糸雨は袂をさぐって匂い袋を取り出した。
それを目にした姫は寸の間黙り込み、なおもじろじろと糸雨を見つめた。魑魅魍魎の正体をどうにか暴かんとする無遠慮で露骨な視線だ。

「同業ではなさそうだな。……いいだろう、座れ。話だけは聞いてやる」

姫に促され、幽谷を飛び越えるような心地で足を踏み出す。試しに力足を踏んでみたが、ライラック色の柔らかなラグが敷かれた床には特に罠めいた術はなさそうだった。
彼の対面に置かれたソファに腰を落ち着けると、姫がテーブルの上に伏せられた金の小さなベルを手に取った。
リンと涼しげな音がひとつ鳴る。するとカーテンの向こう側から先程の老女が姿を現した。

「ばあや、店じまいだ。今日は誰も入れるな。それと茶を持ってこい。ああ、この男の分はいい。こいつは茶なんて出しても飲まんからな、用意するだけ無駄だ」

糸雨は客ではないのだから当然の扱いではあるし、例えもてなされたところで飲食物を口にしないのも言う通りだ。それは警戒心の表れで、一ツ目鬼の館でもそうだった。
心を読まれたのかと糸雨が訝しむと、姫は小馬鹿にするように鼻で軽く笑った。

「なぜ不思議そうにしてる?お前は入り口で門守(かどもり)を警戒してドアをすぐに開けようとしなかったし、今も床を気にしてただろ。お前のその用心深さなら当然そうすると思ったに過ぎんが、違ったか」
「いえ、その通りです。お気遣い痛み入ります」
「ははっ、この僕に皮肉を言うか。その厚かましさ、気に入った」

機嫌良さげに言った姫の水色の瞳が細められる。カラーコンタクトで覆われたその作り物らしい虹彩が、彼をより人形らしく見せている一因だ。
笑って喋っていても人間らしい温度が感じられないのがなんとも不気味だ。その姫が、人形がポーズを取るかのごとく美しい所作で胸に手を当てた。

「僕の名はメイム。迷う夢と書いて迷夢だ。お前は?」

この店の占い師としての仮の名前だろうか。否、これでいて実は本名かもしれない。そんなふうに思わせる絶妙な名だ。
何にせよ自己紹介からはじめるとは意外と律儀だ。礼を失しないよう糸雨もすぐさまそれに応える。

「俺は糸雨と申します」
「シウ?どんな字を書く?」
「糸に雨」

聞かれるがままに答えただけなのだが、迷夢は呆れたように息を吐いた。

「貴様は阿呆か?そんなに用心深いくせに、なぜそうも容易く僕に名を明かす」
「何か不都合でも?」
「逆にお前は僕を何だと思ってここに来たんだ?今のが偽名だろうがなんだろうが、僕には関係ないんだぞ」
「偽名じゃないですけどね」

本名でもないが。しかし主から授かった大切なもう一つの名だ。ゆえに、こちら側の業界の人間には必ずこの名で通している。
迷夢はテーブルの上に置かれていた羽ペンを手に取り、ガラスのインク壺にペン先を差し込んでちょんと浸した。
その傍らに置いてある掌サイズの紙片はメモ用紙かと思えば和紙だ。他の調度品が洋風なだけになんともアンバランスである。
彼のやることを興味津々で見つめていた糸雨だったが、やはり迷夢に大げさに嘆息された。いったい何が悪いというのか。

和紙にさらさらと書かれたのは糸雨の名だ。なかなかの達筆である。
蝋燭色に満たされたこの薄暗い部屋においてもはっきり見て取れる、目の覚めるような赤インク。そのインクが、みるみるうちに蒸発したように掻き消えた。
奇妙な光景に糸雨は少し驚いたが、迷夢はもっと驚いたとばかりに、むしろ驚愕の表情でぽかんと口を開けた。

「……馬鹿な。なんだこの強固なプロテクトは」
「プロテクト?」
「貴様、その名は何だ?返り討ちに遭うところだったぞ。神か仏の加護がついてるな。一介の人間が持っていいものじゃない」

それは当然だろう、主が付けてくれた名なのだから。
他者からそんな風に言われると誇らしいと同時に菊千世の想いを感じられて、糸雨はつい相好を崩した。

「おい、なぜそこでニヤつく。気持ち悪い奴だな」
「いえ何でもないです。あ、なんでしたら本名の方も教えましょうか?」
「知りたくない。その名と魂で紐づいてるだろ。同じことだ。僕を不幸にする気か?」

人の名前を使って勝手に妙な術をかけようとした性悪がよく言う。
迷夢は羽ペンをテーブルに転がして和紙を二つに裂いた。テーブルには筆記具以外にクリスタルケースに収められたカードの束があった。これがゆゆが言っていた占い道具のカードなのだろう。
他にも水晶の原石や、手元を照らす小さなキャンドルランプがある。糸雨はそれらをざっと眺めてから、卓上の空いた場所に匂い袋を置いた。

「――あなたは呪術師ですね。そしてこれは、あなたが作ったもので間違いないですか?」
「そうだ」

迷夢はあっさり認めた。少しくらい濁すかはぐらかすかと思ったが顔色一つ変えずに頷く。

「言っておくが、僕はあと半月くらい使い物にならんぞ。何も期待するなよ」
「……はい?」
「なんだ貴様、どこまで僕のことを知っててここに来た?」
「いえ、ですから俺はあなた目当てというより呪術師を探しに来たので……呪詛が専門の術者を」

ここに来てどうにも会話がかみ合わず、互いに困惑の表情で見つめ合った。
気まずい沈黙と微妙な空気が流れる中、老女がティーセットを乗せた銀盆を手に部屋に入ってきた。
少し腰の曲がった彼女は、黙ったまま迷夢の前に透明なカップとティーポットを置く。ポットの中には紅茶と数種類のフルーツが詰まっており、中身をカップに注いだ。その甘酸っぱい香りが糸雨にも届き、やや肩の力が抜ける。
老女は給仕だけして軽く頭を下げると、静かな足取りで再び別室に戻っていった。

「ここにいるのは、あなたとあのお手伝いさんだけなんですか?」
「まあな。いつも周囲がうるさい分、物忌み中くらいは好きにさせてもらうさ」
「物忌み中?あなたが?」

呪詛を扱う呪術師が、穢れや不浄を避ける潔斎とはちぐはぐな感じがする。
しかもこうして店を構えて商売などしている。食事制限だけでなく人との面会すら慎む場合もあるはずだが、まったく物忌みらしくない。
当惑気味に迷夢の水色の目がぱちぱちと瞬きをする。

「呆れたな、本当に何も知らずに来たのか?一応忠告しておくけどな、僕に害を為そうとすれば、ばあやの体内に仕込まれたありとあらゆる呪詛が貴様に降りかかるぞ」

それは怖い。そうなればあの老女もただでは済まないはずだ。そんな事態は糸雨にとっても本意ではない。
つまりあの老女は女中兼護衛であるらしい。となると、この『姫』は相当上流階級の所属のようだ。他人を下に見るこの態度からしてもそれは間違いないだろう。
これまで様々な貴人を相手にしてきた糸雨だ、その振る舞いが張りぼてか板についているかどうかなどすぐに判る。彼は確実に後者である。

「ですから俺は、あなたと敵対したくて来たわけじゃないです。呪詛についていくつかお訊きしたいことがあるだけでして」
「ふん、呪いたい相手でもいるのか?」
「違いますって。教えを請いたいというか……ただ、あなたがそれに値する方かどうかは分かりませんが」

わざと挑発的な言い方をすれば、迷夢は細い眉をこれみよがしに歪めた。
そして細く白い人差し指を伸ばし、匂い袋を上からトンと押さえた。薄紫と青の濃淡色の上に金粉の散る爪は夜空に似ている。

「お前、こいつを見てどう思った?」

質問の意図を図りかねて糸雨は一瞬言葉を詰まらせた。どう表現するか迷った末に、率直な印象を口にする。

「……よくできた案山子(かかし)みたいだな、と」

都会生まれ都会育ちの糸雨ではあるが、これまで仲介屋の仕事で数えきれないほど農村部を訪れている。田畑を通りかかった際、不意に遠目で鳥獣害避けの案山子を視界に捉えるたびにドキッとしたものだ。
等身大ゆえに中には本当に人間らしい出来のものもあり、目を凝らしてはじめて作り物だと知る。
ひと気のない場所に人影がぽつんとある様はどうにも不自然で、落ち着かなく感じるのだ。見慣れている者なら牧歌的な風景だと思うのだろうが。
民間信仰では依り代としての側面もあるという点においても、人工的で歪な邪気といい、糸雨にとっては『よくできた案山子』と表現するのが適切に思えた。

糸雨がそう言うと、迷夢はきょとんとしたあとに大口を開けて笑った。そうすることで初めて、彼の人形らしさが崩れたのだった。

「はっ、くくく、いいぞ貴様、僕の術を木偶の坊呼ばわりか。いや、案外うまい例えかもしれんな。――お前、こいつはどんな匂いがする?」
「え?匂い、ですか?あー……生臭いというか……正直、鼻が曲がりそうです」
「ふぅん、そうか」

迷夢はなおも笑いを堪えきれないように肩を揺らしつつ、両手の親指と人差し指を曲げて顔の前で指先を合わせた。そうして指で形作った穴から糸雨を覗き見る。
ハートマークにしか見えないそれは、人ならざるものを見分けるいわゆる『狐の窓』のつもりらしい。かなり変則的であるが。

「……なるほどな。貴様、和魂(にぎみたま)寄りだな」
「はい?」
「だから言ったろ、案山子ってのはうまい言い回しだってな。ただしそいつは鳥避けじゃなく『幸(さち)避け』だ。貴様のような神仏の気を宿した奴が嫌う作りになっている。そいつらにとってはひどい悪臭に感じるだろうよ」

それであの異臭か。案山子も時に獣が嫌う臭いを纏わせたりするというから、似てると言えば似ている。
加護や福などの善きものを遠ざけ、邪気で物の怪を寄せ付ける。迷夢の匂い袋はそういった仕組みらしい。
迷夢はその繊細な指先で匂い袋をつまみ上げた。それを見て糸雨はつい「あっ」と声を上げてしまった。糸雨の反応の理由を察したらしい彼が含みのある笑みを浮かべる。

「呪詛返しの心配ならいらんぞ。こいつはすでに効力切れのゴミだからな」
「え……」
「お試し呪詛ってことさ。期間は十日。格安価格なんだ、当然だろ?」

たった十日で五万円とは、なんともあくどい商売だ。ゆゆの場合は一万と血液らしいが。
ゆゆがそれを関に渡したのはちょうど一週間前。入手から譲渡までのタイムラグを考慮すればたしかに今日で効力が切れても不思議ではない。むしろそのおかげでずいぶん弱い術だと感じたのだろう。

「いつもそうやって荒稼ぎしてるんですか?」
「荒稼ぎ?こんなの端金にもならん。ただのお遊びさ」
「ということは、この店は趣味で、あなたは普段別の生業をしている、と?」
「……まったく貴様と話してると毒気が抜かれるな」

好奇心混じりに訊いたのがまずかっただろうか。気づけば糸雨は前のめりになっていた。
迷夢が長い溜め息を吐きながら悩ましげに額に指先を当てた。その仕草はかなり人間味を帯びている。

「中にはいるんだよ、正義漢気取りの奴が。人を呪うのなんて邪悪だ、やめろってな。または呪殺の術を寄越せと迫る。なのに貴様ときたらそのどちらでもない。一体なんなんだ」
「まあ、俺はかつて呪詛を掛けられた側なので、こんな術を素人に売りさばく商売なんてなければいいとは思ってますけど」

とはいえ人が人を呪うのはヒトの持つ情念の一つだ。根絶など不可能であるうえ、すでに古来より方法が確立している。
それでも本式の術者が無知の素人を巻き込むやり方はいただけない。かといって糸雨は今、それを説教しに来たわけでもない。
こうして中庸を保たんとするのは仲介屋として、あるいは現世と狭間の両方を生きるヒトとして、一方を排するようなやり方を好まないからだ。
あまりに複雑な立場であるので、それ以上のことは言えなかった。

糸雨の言葉を受けて、迷夢は虚を突かれたとばかりに突然素っ頓狂な声を上げた。

「はっ?呪詛を掛けられた?ありえない!貴様にはその痕跡がないぞ」
「いやぁ、俺の場合ちょっと特殊なんですよね。だからこそ呪術というものの正体を知りたくて、ずっと調べてるんです」

呪術師に素性を明かすことがどれだけ危険なことか考えないでもなかったが、虎穴に入らずんば虎児を得ず。もし迷夢が糸雨に掛けられた呪詛を作った張本人だとしたら、文句のひとつでも言ってやればいい。
そう判断した糸雨は、己についての事のあらましを一通り迷夢に話して聞かせた。


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