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青天の霹靂とはまさにこのことだろう。
主は唖然として、少し離れた場所に立つ糸雨の姿を上から下へと眺めた。
それを見た末に疑いの方が先に立った。なぜなら、戯雨(そばえあめ)とともに現れた青年は、珍妙ないでたちをしていたからだ。

手には番傘。そこまではいい。しかし糸雨は、山伏が身に着けるような装束を纏っているのだ。
頭には宝珠型の黒い頭襟(ときん)。
白い装束に濃藍色の法衣を重ね、両肩には白地に金糸で流水紋の刺繍を施された結袈裟を掛けている。袈裟に縫い止められた房は純白だ。
黒の手甲に同色の脚絆。足には黒塗りの高下駄、鼻緒は今紫。
木製の頑丈そうな笈(きゅう)を背負い、そのうえ片手に大きな風呂敷包み。

おまけに奇々怪々なのは、腰に括り付けた木札の束だ。十も二十もありそうな木札は色も形も様々で、それらを一本の赤い組紐で通し、じゃらじゃらと重そうにぶら下げている。
木札一つ一つから並々ならぬ力を感じる。それも一貫性のない力だ。

糸雨本人は匂いも気配もヒトであることには間違いない。
だが、そこはかとなく溢れ出るこの霊妙たる波動は一体どういうことだ。長年徳を積んだ高僧か、厳しい荒行を乗り越えた修験者さながらではないか。
皆が戸惑っていた気持ちも分かる。糸雨であるのに糸雨ではないようだ。
さては狐が巧妙に化けているのではないか。あるいは、そう、恰好からして天狗の類では……と主が怪訝な顔をした時、糸雨は眉尻を下げて苦笑した。

「本物ですよ、主様。化けてないです。正真正銘の糸雨です」
「だが、糸雨は……」
「本物って証拠、出しましょうか?ええと、あなたの名ま――」

糸雨が言いかけたところを遮って主は大きな咳払いをした。皆のいる前でそれを明かされては困る。非常に困る。
内心焦る主を見透かしたように朗らかに笑った糸雨――否、至悠というべきか、とにかく彼は番傘を少し上げてみせた。

「冗談ですよ、言いませんって。ちょっとした仕返しです。めちゃくちゃ怒ってるんですからね、俺は」

糸雨の体の自由を奪い、騙し討ちのようにして現世に送ったことを言っているのだろう。それについては弁解の余地もない。
ところが怒っていると口では言うわりに彼は満面の笑顔だ。優しく甘い眼差しで、主からいっときも視線を外さない。
主は再び小さく咳払いをすると、袖の中で緩く腕を組んだ。

「……おぬしが私の知る糸雨だということは、承知した。しかし、如何にしてここに……」
「ああ、そうですね。それについてはちょっと長くなるので、中で話しましょうか」

思わぬ再会に驚いているうちに通り雨はいつの間にかやんでいた。
番傘を閉じた糸雨は、傍らに立つ山彦を見た。慣れた仕草で番傘を山彦に手渡しながら微笑み、「だから、必ず帰るって言っただろ?」と彼の肩を軽く叩いた。
山彦は感極まって、山中に渡る大声で咽び泣いた。

盛大な男泣きに皆が耳を塞いだその時、屋敷の池もばしゃんと大きく波打った。
水中から飛び出て護岸の石の上に転がったのは河童だ。河童は腹を見せて寝転がり、たいそう驚いたというふうに丸い目をぐるぐると回している。

「な、な、なんなんだぁ今の」
「河童!」

糸雨に呼ばれた河童はもう一度驚いて起き上がると、忙しなく首を回した。

「しうっ!」

門の先に糸雨の姿を認めた河童は「しう〜〜〜〜〜!」と叫びつつ一目散に駆け、主の足元をすり抜けて彼のもとへと走り込んだ。
糸雨はしゃがみ込んで小柄な河童を片手で受け止めると、甲羅をトントンと叩いた。
びしょ濡れの河童に抱きつかれても、糸雨の衣は蓮の葉の如く水を弾いた。
河童は糸雨の膝にぺったりと水かきの手を置き、ぽろぽろ涙を零しながら見上げた。

「お……おいら、ごめんよ、しう。しうがお池で呼んでくれたの、耳きこえなくて、寝てて、わかんなくって……」

第一声がそれだった。糸雨が神域に向かう直前のこと、呼ばれても応えられなかったことを気に病んでいたらしい。
糸雨もすぐに思い至って、気にするなと首を振った。

「そうか、あのとき鼓膜をやられてたんだな。今は大丈夫なのか?」
「うんっ!まだちょっときこえない時あるけど、お池にいればなおるって、ぬしさまが」

糸雨が顔を上げたので、主は河童の言を受けて無言で頷いた。
その旨を伝えたのは神域に篭る前だが、鯰の長老が面倒を見てくれるというので任せておいたのだ。呪詛の穢れを受けた河童は、完全に治るまでもう少しかかる。
糸雨は河童の頬を片手で優しくつまんで揉むと、幼子にするように言い含めた。

「だったらしっかり休んでるんだぞ。ほら、皿が渇くから池に戻ってな」
「うんっ」

構われて嬉しいとばかりに河童が元気に頷く。
彼らの一連のやりとりを静かに見据えていた主は、仏頂面で顎をしゃくった。

「……糸雨、中へ」
「ああ、はい。あとでな、河童」

糸雨は河童を池に送り出してから、先に屋敷へ歩き出した主のあとを追った。さらにそのあとをぞろぞろと皆がついてくる。
百鬼夜行ならぬ百鬼昼行は、主と糸雨を先頭に母屋へと続いた。


主に続いて勝手知ったるとばかりに糸雨が屋敷に上がり込む。主は母屋の中でも一番広い部屋に入り、ろくろ首に茶を運んでくるよう命じた。
この大座敷を選んだ理由は明白だ。屋敷中の者どもが押しかけるので、なるべく皆が入れるよう配慮したのだ。
それでも収まりきらなかったので、開け放した障子の外、縁側、さらに庭に至るまで押し合いへし合いになる。

皆に囲まれる中、糸雨は慎重に風呂敷包みを畳に置き、重そうな笈を下ろした。頭襟も外して笈の上に置く。腰にぶら下げられた木札が、からんからんとやかましく音をたてた。
狸たちがそつなく座布団を二枚敷く。主はもちろん上座に腰を据えた。その対面に糸雨が端座する。卓はないので何の隔たりもなく対峙する形だ。
話し合いの態勢が整ったその時、さざめく座敷にドタドタと数人の荒い足音が駆け込んできた。

「糸雨にいちゃん!」

屋敷のいずこからか座敷童子四人が姿を現し、喜色満面ですぐさま糸雨を囲んだ。
童子らは糸雨に抱き着いたり首に腕を回して背にぶら下がったりと皆で引っ張り合う。
糸雨も嬉しそうな顔をして一人一人頭を撫でてやった。「元気にしてたか、お前ら」と声をかけつつ懐から油紙の包みを取り出す。
中に包まれていたのはたくさんの輪切り飴だ。小粒の飴の表面は金太郎の顔ではなく可愛らしい小花で、色も桃、水色、黄色、橙、緑など鮮やかで目に楽しい。
座敷童子たちはそれらひとつひとつを指でつまんで陽に透かし、丸いほっぺたを真っ赤にして「わぁ〜」と歓声を上げた。

「俺は今から主様と大事な話をするから、静かにしてるんだぞ。あとで遊んでやるからな」
「わかった!」

じっとしていられないたちの童子らは、飴の包みを大事に抱えつつバタバタと屋敷の奥へと消えていった。
それらを見ていた主の顔が不機嫌そうにますますしかめられる。
童子相手に言ったところで詮無いこととはいえ、河童といい、無邪気にまとわりつける童らが羨ましい。自分でさえまだ糸雨に指先ですら触れていないというのに……と。
そんな主の物言いたげな視線に気づいたらしい糸雨は、屈託なくにこっと笑った。

「飴、まだいっぱいありますよ。主様も食べます?」
「いらぬ」

そうではない。言いたいのはそこではない。そうだ、絶妙に鈍感を発揮するのが糸雨という男だった。
物も喉を通らぬ日々を過ごしていた主に「食べますか」とは、人の気も知らないで――。
何とも言えない歯痒さを感じながらも主は気を取り直し、普段通りに胡坐をかいて袖の中で両手を組み入れた。

「糸雨、おぬしは現し世に戻ったはず。それながら、なにゆえここにおるのだ?そのうえ、その……いでたちは」
「ええ、おっしゃる通りです。本当はもう四、五日早くここに来たかったんですがね、『若様』が寂しいって泣くもんで。あーっと、そうそう、この格好は正装ってとこですね」

糸雨の中では納得できているようだが、主には今の台詞の何一つ理解できなかった。
疑問ばかりが主の脳内を占める中、糸雨は爽快な笑顔で言い切った。

「まあとにかく、全部片づけて来たので」
「待て糸雨。さっぱり分からぬ」

主はこめかみを指で揉みほぐしながら渋い顔で話を止めさせた。これ以上聞いていると頭痛がしそうだ。
ところが糸雨はあえてそういう言い方をしていたらしく、途端に人の悪そうな笑みを浮かべた。ずいぶんと老獪じみたその表情に、主はどきりとした。

「だいたい、おぬしの記憶はあの時――……」
「ああ、思い出しましたよ。現世に戻って二か月くらい経った頃でしたか。そこで、全てを」
「……なに?」

あり得ないことだった。少なくとも主の企み上では。
けれどこうして糸雨がここにいて、さらに主の名も知っているとなると、狭間で過ごした記憶は彼の中にたしかに在るというのは疑いようがない。

記憶云々は主と糸雨の間では通じている話であるが、詳細を知らぬ他の者は顔を見合わせたり首をひねったりしている。
糸雨はそんな周囲をざっと見回したあと主に視線を戻した。主もそれを受け、心持ち表情を引き締めた。

「じゃあ、最初から話しましょうか」

そう前置きした糸雨は、あらかじめ言葉を用意していたかのように滑らかに語りだした。


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