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――自分の生い立ち、家族、家庭崩壊の過程。何をきっかけにこの山に来ることにしたのか。
糸雨はそれらをかいつまんで、かつ軽やかな表現で主に伝えた。特にストーカーのくだりを端折ったり。
周りで聞いている者らはヒト社会のことにそれほど知識も関心もなく聞き流していたようだが、主は理解を示した。話以上のつらいことが起こったのだろうということも。

「それで、主様の計らいで先日現世に戻ることになったんですけど……あなたの術、本当にすごかったです。正直すごすぎました」

ただ境を越えるだけではなく九年前に時を戻ったのだ。
家に帰ってみれば、朝に出かけた至悠が夜には戻ってきた、という状況だった。日中に父も帰ってきていたそうで、両親と従妹に迎えられた。
連絡もつかず遅い時間だったため両親に少し心配はされたが、その程度で終わった。
至悠自身も「変な一日だったな」と首を傾げただけで、翌日からいつも通りの生活に戻ったのだった。

「俺の家は、まさに憑き物が落ちたって感じであっという間に落ち着いたんですよね。もちろん色々あったあとなので、起こったことが全部なくなったわけではないんですが」

両親は結局、離婚するということで話がまとまった。すぐには難しいので、年度末の三月を目途に別れるよう身辺整理する方向となった。
父親は、家庭をないがしろにした上に至悠の身を脅かす原因を作った事実をいたく反省し、離婚後も至悠たちに不都合のないよう、その償いに尽力することを約束した。
母はやつれてしばらく落ち込んでいたが、やがて活力を取り戻し、新生活に前向きになった。
従妹は次の週には学校へ行くようになった。離れてしまった友人関係は戻らなかったものの、遅れがちだった勉強に一心に励んだ。

さらに翌月には祖父母から連絡が来て、両親の離婚に併せて従妹は彼らの家に引き取られることとなった。
不倫相手の女は、あの日を境に至悠らの前に一切現れなくなった。次はホストに入れあげていると、のちに風の噂で聞いた。

「現世に戻って二か月ほど……夏休みって言って分かりますか?とにかくそのあたりにですね、一人の男が俺を訪ねて来たんですよ」



うだるような夏の日の、黄昏時――逢魔が時にその男は現れた。
学校の友人と遊んだ帰り、家の近くの公園で見知らぬ男と遭遇した。近道のため遊歩道を通り抜けていた途中のことだ。

男は歩道の端に設えられたベンチに座り込んで煙草を吸っていた。がっしりした体つきの長身で、三十代半ばは越していると思われた。
唐獅子に牡丹柄の派手な鯉口シャツを着て、下は色褪せた黒のテーパードパンツにサンダル。
髪を大雑把にうしろに撫でつけ、剣呑な目つきを薄茶のサングラスで覆い、顎の左側に二本の傷跡が走っている。
彫りが深く男臭い顔立ちをしているが絶対に堅気ではない雰囲気に、至悠は咄嗟に「ヤクザだ」と思った。しかも鉄砲玉系の。
さりげなく避けようとしたのだが、男は煙草を携帯灰皿に押し込むと、立ち上がって至悠の前を遮った。

「どォも、こんにちは。伊沢英恵さん、知ってる?」

前置きもなしにいきなり訊かれたそれは、伯母の名前だった。
その男は、伯母の顔写真を見せながら至悠に話しかけてきたのだ。
鋭い目つきの男は、一色(いっしき)と名乗った。
チンピラそのものの雰囲気を発する男を前に無視をするというのも怖く、至悠はかろうじて小声で返した。

「……何の用ですか」
「この人の甥っ子だよな、お前(めえ)さん。ビンゴだ。やっぱ『ここ』で正解だったな」

下町風の舌が回る喋り方で、酒焼けしたような低いしゃがれ声は威圧感がある。
素性もすでに割れていることに至悠は怯んだ。伯母の借金取りの類かと警戒する一方、話の内容に違和感を覚えて訝しく男を見上げる。
伯母の顔写真をズボンのポケットに仕舞った彼は、顎に手を当てて傷跡を撫でながら至悠をじろじろ見つめた。ややあってニィッと彼の片頬が上がる。

「――お前さん、おそろしく強力な加護がついてやがるな」

その瞬間、至悠は糸雨だったことを思い出したのだ。



そこまで聞いた主は、食い入るように少々前のめりになって糸雨に問うた。

「何者だ?その男は」
「まあ、ゆくゆくは俺の師匠になる人なんですけどね。その時は仲介屋って名乗りました。胡散臭すぎですよね」

いつの間にか手元に置かれていた冷茶を啜りつつ、糸雨は当時のことを思い出して苦笑した。



一色のひと言で九年分の記憶が蘇り、糸雨はその場で泣き崩れた。
今すぐにでも主のもとに戻りたかった。けれど時と世を隔てた今となっては到底叶わない願いだった。
急に号泣しはじめた糸雨に一色はひどく狼狽え、とりあえず……とベンチに少年を座らせた。そのうえであれこれ気遣いの言葉をかけて宥めようとする。
彼はやたら目つきの悪い強面のうえ服装も奇抜で言葉遣いも粗野だが、案外と人情家な常識人らしかった。

ひとしきり泣いた糸雨がやがて落ち着きを取り戻すと、一色は近場の自販機で飲み物を二人分買ってきた。
その時点で公園の照明灯にも明かりが点いたので、男は少年を家に帰すべく急かした。だが、糸雨は首を振った。
母親にメッセージを送る。『友達とまだ遊んでるから遅くなる』と。

糸雨は、この一色という男に話を聞いてもらいたかった。どうしても、強くそう思った。
ベンチに並んで座ると、一色は思い出したように尻ポケットの財布から一枚の名刺を取り出して糸雨に渡した。それは素っ気ないほど事務的なごくごく普通の名刺だった。
糸雨は受け取った紙片を端から端まで目で読むと、ぽつりと独りごちた。

「興信所……」
「先に自己紹介しておくぜ。俺ぁ一色継治(つぎはる)。『つぐ』じゃなくて『つぎ』な。小さな興信所経営……ってな表向きで、本業は仲介屋」
「仲介?」
「そうだ。あの世とこの世のな」

こともなげに言った一色に糸雨は驚いて目を瞠った。

「それは……狭間も関係してますか」
「狭間?ああ、幽世とか常世ってやつか?そういう認識で違ぇねえよ。狭間、狭間ね……なるほどなぁ、言い得て妙だ」

糸雨の言い方が気に入ったのか、一色も異界を狭間と呼ぶようになった。
一色の説明では、彼は、人と人ならざる者のトラブル案件の解決業務を生業にしているという。
古の世のように妖、物の怪、神々が人の世に跳梁跋扈されても困るので、境界を挟んでいる者同士お互い棲み分けて、軋轢をなくそうと奔走するのが仕事だ。

そう、狭間が実在する限り、それに通ずる人間もまた少なからず存在しているのだった。

興信所というのも、たいていは人間関係で揉め事が起こるので表向きそうしているに過ぎず、実質的には探偵事務所といって差し支えない。
起源を辿れば陰陽道の庶流の何某かがはじめた生業らしいが、時代の変遷を経て、この業務形態に落ち着いたそうだ。
小さな事務所を構えて細々あり続け、世襲というわけではないものの、一色は正式には十七代目だといった。

妖怪退治や怨霊退散などはしていない。それは別の職種の者の仕事であり、そういう伝手に繋ぐのも業務のうちらしい。
事故物件に棲みつく地縛霊を祓える適切な術者に連絡をつけたり、大手企業の土地開発で地鎮祭の段取りをつけたり、狼藉を働く妖と交渉をしたり。朽ちゆく社の神を祀り直し、事によっては別の社に移したり。
何にせよたいていは表沙汰にできない『訳あり案件』の仲介を担う裏稼業だ。

分かりやすく言えば霊能力者、実態は仲介人。ただ、たちの悪い案件が多く危険な場面に遭遇することもしばしば。
この日、一色が糸雨のもとを訪れたのも、クライアントから依頼を受けてのことである。
世間には広く知られていない厄介な宗教団体があり、そこの事件調査を依頼されたのだ。

そこでトラブルの一端を担っていたのが至悠の伯母だということだ。
伯母は、一昨年からその宗教団体に入信していた。金の無心もそこのお布施のためであった。
一色は調査のため伯母を直接訪ねようとしたのだが、従業員の占術師に、今日の逢魔が時、この公園に行くが吉と言われたそうだ。
そうして糸雨と出会った、とのことだった。

普通ならこんな荒唐無稽な話、信じるどころか通報案件である。軽快な下町口調も相まって、まるで馬鹿馬鹿しい落語でも聞いているようだった。
しかし糸雨は『普通』ではなかった。もっととんでもない経験をしている。しかも九年間も。
一色は自販機で買ったペットボトルの水をぐいと呷って、糸雨を覗き込んだ。

「そんで?お前さんは一体ぇ何者だ?」
「俺は……」

糸雨は、もつれる記憶を解きほぐしながら一色に訥々と語った。自身に起こったことを。
整理が追いつかず意味不明になっていたところもあったかもしれない。それでも一色は急がずその全部を聞いてくれた。
主との別れのくだりでは、再び涙が零れてしまった。
一色は支離滅裂な話でも笑い飛ばしたり妄言だと軽んじたりはせず、糸雨のことを真正面から受け止めた。

「するってぇとアレだ、俺が今日、この場所に来たのも縁に導かれてのことか」
「縁……」

現世に戻ったのはこの公園だった。逢魔が時で世の境目が曖昧になり、一色の言霊を引き金に、だから狭間の記憶も蘇った――そう考えれば腑に落ちるものがあった。
記憶は封印の反動で壊れたり失われたわけではなかった。ただ、奔流によって奥底に押し込められていただけだ。
ひと区切りついたところで、一色はポンと自分の膝を叩いた。

「さて、話ぁ分かった。お前の伯母さんのことは……んー……まっいいか。とりあえず後回しにすらぁ。で、お前さんはこの先、どうするつもりだ?」
「どう……って、言われても」
「話を聞くに、このまま現世で生活する分にゃ支障はねぇだろな。でも、そうじゃねえってんなら、俺が力になってやれると思うぜ。なぁ、どうする?」

それは、平凡で平穏な生活を捨てて魑魅魍魎はびこる領域に踏み込むという意味に他ならない。
主が、菊千世が願ったのは、糸雨が至悠としてヒトの世で寿命を迎えるまで真っ当な生を送ることだ。その願いを違えることになる。
糸雨は麦茶のペットボトルを両手で握り込んだまま前屈みに俯いた。
考え込んでしまった糸雨を横目に嘆息した一色は、後頭部をがりがりと掻いてベンチから立ち上がった。

「まあ〜……な、いきなりこんなん言われたって、今のお前は中坊だし、すぐに結論は出ねぇわな。何かあったらその名刺の番号にいつでも連絡を――」
「いえ」

一色の言葉を遮って、糸雨は揺るがぬ瞳で彼をまっすぐ見上げた。
糸雨の心は、もう決まっていた。

「俺は狭間に――主様のもとに、帰ります」


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