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青天清らかに冴え渡り、遠く浮かぶ白雲も伸びやかな昼下がり。
山の木々は緑の陰影濃く、これから迎える盛夏に備えて力強く生命を育んでいる。
さらさら流れる沢は豊かに澄んで、涼やかな波間に銀鱗が躍る。
いい塩梅の陽気に、葉陰の合間に隠れた小鳥も気分良さげにさえずっていた。

そんな山の頂に建つ少々奇妙で立派な屋敷も、静かで、のどかで、眠気を催すほどに穏やかだ。

「…………」

人型に化けた髪結いの狸は、柱の影からひょっこりと縁側を覗き込んだ。
障子を開け放った座敷前の縁側で、優雅な姿で寝そべっているのはこの屋敷の主だ。
けれど、優雅に見えるだけで彼はひどく塞ぎ込んでいる。

――八日前、糸雨が神域へと主を迎えに行った。
山中の者ども一同、その帰りを首を長くしてまんじりともせず待っていたのだ。ろくろ首は本当に首を伸ばしていたが。
そして翌日の朝になってようやく神域から出てきたのは、何故か主一人だけだった。
一晩中泣いていたというように両目を真っ赤に腫らし、長かった髪も肩のあたりまで短くなっていた。
なにより、糸雨がいない。

亡霊さながらに気の抜けた様子の主は、今にも倒れ伏しそうに憔悴していた。
神域で何が起こったのか――それを訊きたくても、主の只事でない様相に、誰も疑問を口にできなかった。
唯一、糸雨の最後のお供をした山彦だけがなんとか「糸雨様は……」と尋ねるも、「あやつは現し世に帰った」と言ったきり、主は口を閉ざした。

屋敷仕えの皆はとにかく、戻ってきた主を労わってあれこれ世話を焼いた。
ところが彼は力なく「私に構うな」と言うばかりで、心ここにあらずといったありさまだった。

それから七日間、主は食事を少し摂っては眠り、起きては縁側で横になって遠くの空を眺めていた。そうして切なげな溜め息をつくのだ。
さらに雨の日ともなれば、寝所から出て来ないこともあった。

前代未聞の異常事態に、一ツ目鬼までもが珍しく数十年ぶりに屋敷の門を叩いた。
しかし主は話す気はないようで、一ツ目鬼を文字通りの門前払いですげなく追い返してしまった。

それでも太陽は沈んでまた昇る。月が変わった今や梅雨も明ける寸前で、季節は夏に向かっている。
今日も空はすっきり晴れ渡り、少し暑いもののこんなにも気持ちいい陽気だというのに、肝心の主だけが陰鬱だ。

「あの、主様……」

瞼を閉じて寝ているのか起きているのかも分からない主に、髪結いの狸はおずおずと声を掛けた。
肩まで短くなってもなお白い艶を湛える神秘の髪も、結う必要がなくなったと主が頑なに言うので、髪結いの狸はお役御免となった。
かわりに側仕えとして常に主の様子を気に掛けている。
今も、厨から運ばれた丸い盆を、主の視界にかろうじて入るよう控えめに差し出した。

「本日の甘味です。あの、もう少し何か召し上がられてはいかがですか」

盆に乗せられているのは、冷たい茶と山盛りの薯蕷饅頭だった。主はこれが好物なのだ。食欲の失せた主を元気づけようと、杓子女が腕を振るったのである。
ところが、片目を開けてちらりとそれを見た主は、ますます表情を曇らせてふいと顔をそらしてしまった。
しまったと思っても後の祭り。主の好物は、いなくなった糸雨の好物でもあったのだ。

「主様ぁ……」

狸がほとほと困って情けない声を上げたその時、にわかに屋敷の端が騒がしくなった。
その騒ぎは表の方から伝播しているようで、狸も何事かとあたりを見回した。
縁側から外を見やると、珍しいものが目に入った。

「あ。雨……?」

空は青く晴れているのに、ぱらぱらと雨が降ってきた。俗に云う狐の嫁入りというやつだ。
屋敷の者らが前触れのない雨に驚いて、外に干していた洗濯物や乾物などを急いで回収すべく騒いでいるのだろう。
そんな風にあたりをつけた狸は主に視線を戻した。主は突然の雨に両目を見開き、じっと中空を眺めていた。

そんな折り、トタトタと慌ただしく乱れた足音とともに愛らしい顔立ちの人狸が縁側に駆け込んできた。
足がもつれて板の上でごろんと一回転した狸は、その拍子に獣型に戻った。

「何だおぬしは、騒がしい……」

寝そべった主の目の前で盛大に転がった狸は、慌てて正座に直りつつも、玄関の方に向けて小さい爪を立てて指さした。

「ぬ、ぬ、ぬぬ主様!!き、き、来てください!!今すぐにっ!!」

もはや言葉にならぬといった調子で、涙目の狸が無礼を承知で主の着物の袖をを引っ張る。
そうされても主は頑としてその場から動かなかった。
――稲荷屋が来るにはまだ日が早いし、誰かが不慮の事故で大怪我でもしたか。侵入者にしろ、何か問題が起ころうと屋敷の守りは堅い。
喫緊の事態を一通り思い浮かべてみたものの、どうにも億劫で、主はこのままやり過ごそうと目を閉じた。
なのにしつこく袖を引かれるので、やがて鷹揚に片手を振った。

「分かった分かった、そう急くでない。いま参る」

欠伸混じりに返事をしてのんびり起き上がる。
狸二匹を従え気安い着流し姿のままゆるやかな歩調で廊下を渡り、白足袋に雪駄をつっかけて表玄関を出た。
すると庭は、屋敷の者全員が集まっているのではというほど妖たちでごった返していた。
その群れも、主が姿を見せた瞬間に左右に素早く割れて道を作る。その道は門へと続いているらしく、導かれるようにして主は先へと向かった。

「どうした。何があった?」

問うても誰からも返答はない。ただチラチラとしきりに門の方を気にしている。
こんな事態は初めてだったので、主は少々戸惑いつつも歩を進めた。
皆の顔は一様に神妙で、不可解に思いながらも主人の威厳を保って颯爽と歩く。
晴天に細い雨が降る。陽光を受けた雨雫は、水晶の輝きをもって頭上に柔らかく降り注いだ。

門の前には黒山の妖(ひと)だかりがあった。それぞれに大声を上げたり呻いたり騒ぎながらたむろしている。
彼らは背後に近づく主の姿に気づいていないのか、開かれた門を塞ぐ勢いでぎゅうぎゅう詰めになっていた。
さすがに異様すぎる光景に、主は顎をそらしてやや大きめの声を上げた。

「これ皆の者、何をそんなに騒いでおる」

凛と通る主の声が庭中に響くと、あれほど騒がしかった妖たちの群れが一斉に静まり返った。直後に彼らが困惑の表情で門の前から順に退く。

「そなたら一体……」
「――あ、主様」

呑気で柔和な低い声音が主を呼んだ。聞き覚えのあるその声に、主の口がぽかんと半開きになった。
まさか、と咄嗟に思う。まさかあり得るはずがない、と。それでも目の前にあるものは、現実味のない現実だ。

きらきら輝く日向雨の中、番傘を差して門の先に立っているのは、快活で精悍な青年だ。――つい数日前に手放したはずの。
あまりの衝撃的な状況に、主はただ一言、呆然とつぶやいた。

「……糸……雨……?」
「はい、糸雨です。ただいま帰りました、主様」

今日の陽気に似合いの晴れやかな笑顔で応えたその男は、見間違えようはずもない、先日別離を果たしたばかりの想い人だった。


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