47




頬に当たる冷たい水で、至悠は目を覚ました。
ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で雫が落ちてくる。その正体を見極めるため、半開きの目を見開いた。
まず視界に映ったのは、黒い木々と雲に覆われた夜空だ。
何故か、じっとり濡れた草の上で大の字に寝そべっている。あたりは真っ暗で、虫の音が耳に届いた。

「い、てて……」

起き上がると節々が筋肉痛のように悲鳴を上げた。それと同時に胸から何かが滑り落ちた。――スマホだ。
スマホの画面は蜘蛛の巣状のヒビが走り、背面もずたずたの傷だらけだった。

「うわ、何だよこれ!やっば……壊れてんじゃん。あー嘘だろ、マジで動かない」

いくら電源ボタンを押してみても起動しない。ぴくりとも反応しないそれに諦めをつけて嘆息した至悠は、のろのろとあたりを見回してみた。
雨上がりの湿った空気に満たされた、林の中だ。林の向こう側に照明灯がぽつぽつと立っている。
やや離れた場所に目を凝らせば、明かりに照らされて夜闇に浮かび上がる特徴的な形のモニュメントがあった。あれには見覚えがある。この壊れたスマホで最後に撮った近所の公園のものだ。
散歩中の犬が人懐っこくて愛嬌があって可愛かったので、飼い主に頼んで写真を一枚撮らせてもらったのだ。
その公園の人工林の中で、何故か眠っていたようだった。

またぽつんと上から雫が落ちてきてつむじに当たり、ビクッと肩を跳ねさせた。
水滴は、傍らに立つ樹木の葉から落ちてきたもののようだった。今日のいつ頃降ったは知らないが、雨の名残りだ。
至悠は濡れたつむじを軽く手で拭って立ち上がった。

「何でこんなとこに……」

明かりを求めて林から抜け出し、整備された遊歩道に入った。
一番明るい照明に惹かれて歩くと、目立っていたのは公衆電話ボックスだった。
一人一台携帯端末を持っていて当然という風潮の昨今、公衆電話の数も減っていると聞く。
かくいう至悠も普段は気にしたこともない設備だ。しかしスマホが壊れて心許ない今、通話機を見ると少しホッとした。
暗がりの中、電話ボックスのガラス面にうっすらと自分の姿が映る。
半袖のTシャツに防水の薄手のパーカーを羽織り、下はデニムパンツ、スニーカー。中学の制服ではなく私服だ。

「そういえば……」

昨日の夜、何気なくスマホで見ていた動画サイトで、とある登山チャンネルがおすすめとして出てきた。
いくつかあるうちの動画のひとつを気まぐれで再生し、何も考えずに見はじめた。
すると、そこに映っていた山があまりにも清々しく堂々としていて、綺麗で、突然、ここに行ってみたいと強く思った。
そこでトレッキングという用語を知り、思い立ったが何とやらで、リュックに荷物を詰め込んで翌日には家を出た。
あれはどこの何という山だったか――たしかずいぶんと遠い場所だった気がする。スマホが壊れた今、履歴を確認することもできないが。

「……あれ?」

山登りに行ったはずが、その気になっていただけで出かけてはいなかったのだろうか。
なにしろ今の自分は格好はともかく手ぶらで、リュックや財布どころかスマホ一つしか持っていない。
なんだか狐につままれたみたいだ。
日の長い雨季で周囲がこれだけ暗いということは、もう夜中になっているに違いない。ならばともかく家に帰らなくては。

「っ……」

家に帰る、と胸に浮かんだ言葉でずしりと気が沈んだ。
帰ったところで、安らげるはずもない。
昨日は、両親がリビングで大喧嘩をしていた。
母は髪を振り乱し皿を割り、その皿の破片で父を刺そうとした。至悠がそれを止めている間に父が家から逃げて、かろうじてその場は治まった。
家に残され呆然とする母に短く声をかけ、無残に散らかったリビングを一人で片づけたものの、その後、一睡もできずにベッドの中で動画を見ていたのだ。

両親は昨日、家で預かっている従妹のことで揉めたのだ。彼らはもうずっとそんなことでいがみ合っている。

どうしてこうなってしまったのだろう。
かつて至悠の家は、それなりに裕福で、家族仲だって良好だった。
有名企業の会社員で理解ある父に、カルチャースクール講師のおっとりとした優しい母、そして至悠。

至悠が小学五年生の時、家に従妹がやってきた。

それというのも、従妹の親――至悠の父親の姉、伯母はだらしのない人で、同じくどうしようもないクズの男と子を生した。
伯母と男は、事実婚と言えば聞こえはいいが籍は入れておらず、幼い従妹はいわゆるネグレクトを受けていた。
一緒に住んでいた男が借金を抱えて姿を消すと、間もなく伯母も、我が子を古いアパートに一人残していなくなった。
そのことに気づいた近隣の住人が警察に届け出て、縁者である至悠の祖父母に連絡がいった。

しかし祖父母はとうの昔に伯母を見限っていて、幼い子どもの面倒を見ることに消極的だった。
そこで、至悠の父親が、施設送りにするのはかわいそうだと言って従妹を引き取ることにしたのだ。
これまで何度も伯母に困らされた経験のある母は反対した。いつも大人しい母が珍しく大声で異を唱えたのだ。
きょうだいのいない至悠は、妹ができることが内心かなり嬉しかったのだが。

母の反対を押しきる形で従妹は家に迎えられ、少し奇妙な家族生活が始まった。
当時六歳だった従妹はぼんやりした女の子だった。何を言っても反応が薄く、ほとんど喋らないし笑いも怒りもしない。
至悠の家に引っ越すにあたって、一年生だった従妹は小学校も転校したが、読み書きもままならないような子だった。
伯母がろくに構わなかったせいでそうなっているのだと、父は従妹を憐れんだ。
母は、利発な至悠しか今まで育てていなかったせいで、ぼんやりした従妹を持て余していた。

そして至悠は――懸命に話しかけた。
妹分ができて嬉しかったし、高学年として年下の子の面倒を見るのは優越感があった。
読み書きも、自分の宿題が終わったあとにつきっきりで教えてあげた。塾やスイミングのある日は難しかったが、かわりに夜は一緒に寝てやった。
公園に連れて行ったり、食事をともにしたり、風呂に入れてやったり。

ある日の朝の登校前、従妹の長すぎる髪が気になって、母のヘアゴムをひとつもらって結ってあげることにした。
伯母は散髪もしなかったらしく、伸びっぱなしになっていたのだ。母が「長くて大変そうだし切ろうか?」と聞いたが、従妹にしては珍しくそれだけは断固として嫌がった。
至悠は髪が短いのが常なので悪戦苦闘したが、その朝はなんとかまとめ上げることに成功した。

次の日、従妹が至悠に「おにいちゃん」と自ら話しかけてきた。
初めてのことだったので驚きつつも応えてやると、従妹はもじもじしながら真っ赤なプラスチック製の櫛を差し出してきた。
櫛は歯が二本欠けていて、いかにも安っぽいつくりのコームだった。
つまりはその櫛を使って、また髪を結ってほしいということのようだった。

こうして至悠の日常に、従妹の髪結いが加わった。

それから従妹は、至悠に少しずつ話をしてくれるようになった。
例の欠けた櫛は、伯母が従妹の誕生日に買った百円ショップのものであること。
母親からのプレゼントはあとにも先にもそれだけだったものの、とても大事にしていること。だから髪を切りたくないこと。
ずっと自分の中に言葉を抑えつけてきたのだろう、彼女は次第にたくさんのことを話すようになった。
特に、髪を結っている間は饒舌になる。従妹は、人と正面から向き合って話すことが苦手らしかった。

ある時、髪を三つ編みに編んでくれとせがまれた。おねだりをしてくれたことが嬉しくも、やったことがなかったので四苦八苦した。
出来上がりはとても見られたものではなかったが、従妹は明るい笑顔で喜んだ。
至悠は妙に生真面目な性格なので、学校でクラスの女子たちに、髪の結い方を教えてくれないかと聞いてみた。
過敏な年頃だったので男子とばかり遊んでいて女子とは少し距離を置いていた至悠だったが、従妹のためと割り切って話しかけたのだ。

女子らは喜んで至悠にあれこれと教え、おすすめのヘアアレンジ動画などを紹介してくれた。
もともと至悠は女子の間でかっこいい男子としてひそかに人気があったため、彼女らとはあっという間に打ち解けた。

至悠に触発された女子らは孤立しがちな従妹のことを気に掛けてくれて、従妹と同じクラスに弟妹がいるという繋がりから、従妹にも少しずつ友達ができた。
そうして一年が過ぎる頃には、従妹は見る間に明るくなっていった。
さらに一年後。至悠が私立中学に受かり、進学して剣道部に入部すると、志望校を同じくして塾で一緒だった他校の女子も同じ部活に入った。
至悠はかねてより彼女のことが気になっていたので、告白して、健全なお付き合いをはじめたのだった。

――うまくいっていたのだ、何もかも。

中一の夏休み前後あたりからだろうか、少しずつおかしくなっていったのは。
両親の仲が、なんとなくよそよそしく感じられた。どうやら、蒸発したはずの伯母が戻ってきて父に金をせびっているようなのだ。
娘はもう自分で育てる気はないが、娘を育てる金があるなら自分に寄越せとのことだ。
めちゃくちゃな理論だが、本人は大真面目のようだった。

「だから言ったでしょう。あんな人の子どもを引き取るからよ」と母も呆れるやら腹立たしいやらで、父に冷たい態度をとるようになっていったのだ。
それでも従妹に罪はない。それを分かっているだけに母も心苦しく感じていたようだ。
至悠と仲良くなった従妹は、母にも少しずつ心を開いてきて、母も従妹を可愛く思えるようになってきた矢先のことだ。

中学生になってなにかと忙しくなった至悠は、朝の従妹の髪結いを疎ましく思うようになってきた。
まず通学に時間がかかるし、勉強はもとより部活の練習に加え、交友関係も広がると本当に余裕がなくなった。
家庭内の冷え冷えとした空気も相まって、至悠は従妹におざなりに接するようになった。
学校でも家でも余裕がなくなると、順調に思えていた女子との交際もぎくしゃくしはじめ、一年生が終わる頃には全く話さなくなっていた。彼女は剣道部の部長に心変わりしていた。

そして、崩壊は訪れる。

至悠が二年に進級したばかりの頃のことだ。つまり、今から二か月前。
父は、不倫をしていた。
しつこく金をせびって押しかけてくる実姉に、冷ややかな妻、思春期で会話のない息子、問題の種の姪――家庭に身の置き所のない父親は、外で女を作ったのだ。
そのことが母にバレて、両親はこともあろうに至悠の目の前で修羅場を繰り広げた。
どういった経緯で浮気が露見したのかは分からないが、半年も続いているらしき仲の女は、父の会社の若手社員だということだった。

穏やかで優しかった母は激昂し、父を責め立てた。父はいかにもうるさいと言わんばかりの顔をして、「だって仕方ないだろ」としか言わなかった。
このことで、不安定だった家庭内に決定的な亀裂が走った。
家に居づらくなった至悠は部活にますます打ち込み、塾や友達との約束を入れてなるべく外に出るようになった。
何人かの女子に告白されても、父親の不倫という問題を抱えた至悠は、男女交際が気持ち悪く感じられてすべて断った。

一方、兄と慕った至悠と接する機会が減った従妹は、また笑顔が減り孤立した。家でも、学校でも。
やがて、従妹は不登校になって部屋にこもりきりになった。至悠がいつ帰ってきてもいいようにと、家に閉じこもるようになったのだ。
その証拠に、従妹は至悠が帰宅すると必ず部屋から出てきた。それから髪結いをねだる。夜でも構わずに。
面倒に思いつつも、心根が優しい至悠は振り切ることもできず、大雑把に括ってやる。それでも従妹は喜んだ。

学校にも行かず、部屋にこもりきりの従妹は母の癇に障った。
浮気相手の家に入りびたりの父が時たま帰ってくると、両親は今度は従妹を種にして喧嘩をするようになった。従妹の部屋に届くくらいの大声で。

それから日が経ち――ひと月前のことだ。
学校帰りの道端で、至悠は一人の女に呼び止められた。
二十代前半くらいの小綺麗な女性だが、見覚えのない人物だった。
至悠の母の知り合いだと名乗り、なんでも、至悠の母が営むカルチャースクールの生徒だという。
おごるからお茶を飲みながら話さないか、と誘われた。しかし奇妙に感じて断った。
母にその生徒のことを聞いてみようと思ったものの、母は傍目にも憔悴していて、とても声を掛けられる雰囲気ではなかった。この数か月で母はずいぶん痩せてしまった。

その女はそれ以降たびたび至悠の前に現れた。会社員だそうなので、至悠の塾帰りの夜だったり、休みの日の部活練習で出かけた時などに遭遇する。
とはいえ他愛のない立ち話を数分するだけで去っていく。
飲み物やちょっとした菓子をくれようともしたが、親しくもない相手に気味が悪く、至悠はいつも断った。

梅雨に入り悪天候が続いていた先週の日曜日、至悠は家で勉強をしていた。その日は雨で、出かける気にならなかったのでそうしたまでだ。
母は用事で出かけていて、従妹は勉強中の至悠を邪魔しないと決めているのか、物音ひとつさせずに部屋にこもっていた。
昼も過ぎた頃、自室のドアが唐突に開いた。
従妹がノックもなしに勝手に入ってくるなんて珍しい、と思いつつ勉強机から顔を上げると、そこに、どういうわけか、あの女がいた。

「来ちゃった」――可愛らしいと思われたいがためのわざとらしい仕草で首を傾げた女は、そう言った。

本当にわけが分からなかった。
玄関の戸は鍵を閉めていたし、女に自宅を教えた覚えもない。
混乱して動けないでいるうちに女が、「もうすぐ誕生日だよね?これ、プレゼント」と言いながら渋い色味の包装紙の小箱を差し出してきた。
箱を受け取らず固まっていると、女が甘えるように急に抱き着いてきた。
そこでようやく我に返った至悠は、怖くなって女を振り切り、雨の中裸足で家の外に出たのだった。

すると、ちょうど帰宅したばかりの母親と玄関先でかち合った。
ただならぬ様子の息子に驚いた母親は、やはり至悠を追って玄関から出てきた女と鉢合わせた。

女は、父親の不倫相手だった。カルチャースクールの生徒だというのは真っ赤な嘘だ。
「不倫がバレた、別れてほしい」と父親から告げられたその女は納得できず、相手の家庭がどういうものか知りたくなったらしい。
そこで息子の至悠を一目見て、かなり好みだったため好きになったのだという。
別れようと言ったものの女と父親はずるずると関係を続けていて、その一方で女は至悠との関係を持とうと画策していたのだという。
家の鍵は、父親が持っていたものを黙って複製したそうだ。

至悠は頭が真っ白になった。
なにもかも理解できない。周りの人間は何故こうもおかしな行動をするのか。それとも自分の考えの方がおかしいのだろうか。

両親のそれからの修羅場は思い出したくもない。
不倫相手は警察に連れていかれ、彼女と居られなくなった父は一応家に戻っては来たが、夫婦の絆は戻りようがない。
母は精神的に消耗し、ちょっとしたきっかけで当たり散らすようになっていった。
彼らは昨日は従妹の些細なことで喧嘩をした。飛び火を恐れて、従妹は至悠が家にいても部屋の外に出てこなくなった。
ほんの三日前が至悠の十四歳の誕生日だったのだが、家族の誰も祝ってはくれなかった。

そうして至悠は家を出たのだ。目に鮮やかなあの美しい山を目指して。一人になりたくて。同級生がくれた、小さなお守りを持って――。

「あれ……あのお守りって、どうしたんだっけ」

鬱々とこれまでのことを思い返していた至悠は、ふと顔を上げた。
持って出たはずのお守りも手元からなくなっている。持ったつもりで、部屋の引き出しにしまいっぱなしだったか。
そもそもどうしてあんなものを持ち歩こうと考えたのか。
もし失くしたとしたら少々うしろめたいが、同級生はそれほど仲のいい友人でもなかったし、おまけに去年遠くの地へ引っ越してしまったしで、あまり気にしなくてもいいか、とも思った。

そんなことより家庭の問題の方が至悠にとっては重大だ。
どうしても家に足が向かず電話ボックスの前で佇んでいると、ぽつんと、また頭上に水滴が落ちてきた。

「うわっ、またかよ」

再びつむじに直撃して、至悠はなんだか、無性に可笑しくなってしまった。思わず吹き出して、続けて一人笑い出す。
立ち止まっているうちにまた雲行きが怪しくなってきた。しかし、笑いをおさめた至悠は妙に晴れ晴れした気持ちでいた。

――雨は、嫌いじゃないな。

不思議とそんなことを思った。
自分の代わりに泣いてくれているような、立ち止まらずに歩き出せと励ましてくれているような、そんな温かさと生命力を感じる。
降り出した雨に濡れてしまう前に、家に帰ろう。そして家族と話そう。時間はかかっても。

立ち止まっている暇はない。先へと進もう。雨風も物ともせずに、道を切り開いて。
行く手を阻むものはもう何もない。何も恐れることはないのだから。
そんな確信が、今の至悠にはあった。


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