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逢魔が時に差し掛かろうという山中は、曇天も相まって陰鬱に薄暗い。
雨がそぼ降る。しとしと、しとしと。
恵みの雨は柔らかく、白く世界を覆う。森羅万象、生者も死者も、分け隔てなく――あるいは無慈悲に。

死の淵に立たされた少年の上にも雨は降り注ぎ、かろうじて残された体温を奪っていった。
全身血まみれで、呼吸は今にも止まりそうだった。自分が痛いのか熱いのか寒いのか、少年にももう分からなかった。
指一本も動かすことができない。なのに、ずる、ずる、と何故か体が少しずつ移動する。川に向かって。

雨で嵩を増した沢は流れが速く、ざんぶと身を躍らせればたちまち呑まれるだろう。
だが、そうはならなかった。突然獣のような威嚇の唸り声がしたと思えば、小さくも力強い何かが、少年を沢のほとりの岩場に引き留めたのだ。
小さな手が、なるべく平らな場所へと満身創痍の少年を引きずり、ごろりと寝かせる。
そうしてその小さい何かは、好奇心いっぱいの目で少年を覗き込んだ。

「――如何した、河童」

ややあって、濃い緑の木々の合間から姿を現したのは、青白い毛皮をした鼬を肩に乗せた美丈夫だった。
松葉色の着流しに海松茶の上品な羽織を纏い、長い黒髪をうなじのあたりで緩く束ねた彼は、現代にはそぐわぬ古風ないでたちをしている。
彼は首を傾げつつ、袖の中で腕を組んで長く息を吐いた。

「鼬を遣いに寄越したのはおぬしだな?何事かと思えば、……何だ、そのぼろきれの小僧は」
「ぬしさま!おねがい!ヒトたすけてあげて!ガケから落ちたんだよ!ヒト死んじゃうよ!おいら、ヒトと遊びたい!」

河童の必死の訴えに、主はちらりと少年に目を落とした。小さく嘆息する。

「そうは申せども、河童、おぬしも知っての通り、私に治癒の力はない。それが為せるのは御方様の恵みのみ――」
「お屋敷のお池なら傷、なおる!おいらもそうしてもらった!」
「河童とヒトを同等に考えるでない。水中に沈めたが最後、小僧は気息ままならずにそれこそ死ぬぞ。……諦めよ」
「でもっ……!」

なおも言い募ろうとした河童を鷹揚に手で制した主は、嫌悪感もあらわに顔をしかめさせた。

「なによりこの小僧、呪われておる」
「……呪わ、?」
「おぬしには判らぬか。こやつは呪詛に蝕まれておる。小僧を永らえさせたとて、呪詛はこの山に仇なすこととなろう。ゆえに……ならぬ」

幼子さながらに駄々をこねようとした河童だったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。
山守たる主の前でそれは許されない。主の下知は絶対だというのが、この山の掟だ。

「呪詛もこやつが死なば失せる。どのみち、じき息絶えよう。……ああ、そなたも苦しかろうな。いっそ私の手で息の根を止めてやろうか、小僧」

少年を睥睨した主が袖から手を出し、指の節を鳴らす。鼬が慄いて肩から転がり落ち、河童の甲羅の上へと逃げ込んだ。
風前の灯火であるこの命を摘むことなど容易い。ほんの一瞬で済む。
少年の傍らに片膝をつき、柔らかい首に手を掛けたその時、地面に力なく臥していた少年が定まらぬ視線の焦点を合わせて主を見上げた。

「……しに……」
「…………」
「……死に、たく……な……、……ぉ母、さ……」

声変わりを果たしたばかりといった掠れ声でそれだけつぶやくと、少年は気を失った。
気絶した少年を前に動きを止めた主は、首を掴んだ手から力を抜いた。

(……そうだな。そうであった。かつて私も、そう願った――)

その昔、菊千世は人柱として御堂に捧げられた。それは里のためで、村民のため、友のため、親きょうだいのためでもあった。
覚悟はしていた。悔いもないはずだった。それでも――それでも、死にたくなかった。
真っ暗な棺の中で、母が授けてくれた小刀を両手で握り、独り死へと向かう恐怖に泣き叫んだのだ。母を、父を、皆の名を呼びながら。

一日か、三日か、数刻か、どれほど経ったかは分からねども、棺の中で暴れ、やがて息絶えようという際に、光り輝く女人に救い出された。
そのとき菊千世は、真の神の姿を、見た。
山神は菊千世を抱きしめ、ひたすらに謝りながら泣いていた。もっと早くに助けられず申し訳なかったと。
あたたかな腕(かいな)に抱かれ、菊千世も泣いた。一生分の涙を流したと思うほどに。

時を経た今でも、暗闇で一人眠ることは恐ろしい。ゆえに床に就く時は枕元の明かりを絶やさない。そのうえ屋敷の者に命じて不寝の番をたてるのだ。
――死にゆく恐怖は、誰よりも知っている。

「ぬしさま?」

少年の首を掴んだまま微動だにしなくなった主に、河童がおそるおそる声をかける。
主は手を引っ込めて、険の取れた表情で河童を見やった。

「――小僧を救う手立てが、ないこともない」
「!」

河童の顔にパッと喜色が広がる。ひとつ頷いた主は、少年の腹の上に手を置いた。

「仮に私の眷属と成せば、どうにかなるやもしれぬ。その為にいっとき、私の精気をこやつに分け与える。さすれば私の霊力がこやつ自身のもつ治癒力を補い、回復も見込めよう」
「おねがいします!ぬしさま!」

歓声を上げた河童の背で鼬もキッキと嬉しそうに甲高く鳴く。
主は少年の頭の下に手を差し込み、慎重に上体を起こした。これほどの重症だ、気を失っていなければ動かした瞬間に苦痛に喘いでいただろう。
立てた膝の上に少年の上体を乗せ、片腕で少年を抱きかかえて顔を寄せる。今にも息絶えそうな唇を己の口で覆い、主は息吹をふうと吹き込んだ。

口移しで精気を与えると、少年の青褪めた顔に赤みが差した。次第に呼吸も穏やかになる。
これで運良く生命を繋ぐことが出来れば、一年か二年もすれば頑健な体を取り戻すだろう。

「ぬしさますごい!ぬしさますごい!もうヒトと遊んでいい?」
「そう急くな。ヒトは脆い。すぐにとはゆかぬ。……それと、ヒトをヒトと呼ぶでない」
「? ヒトはヒトじゃないの?」
「ヒトはヒトと呼ばれるのを好まぬものだ。こやつにも名がある。小僧が目覚めたのち、私が教えてやろう」
「うんっ!」

河童が嘴を上げて元気に頷く。
まもなく遊び相手が手に入ると喜んだのも束の間、少年は、遠のいた意識のままに苦悶の表情を浮かべて咳込んだ。
少年を抱えた主は、その様を見て首をひねった。意識を集中させて、今や己の手足も同然の眷属となったばかりの少年の容態を視る。

「骨と、臓腑と……成程、相当な痛手だな。与えた精気の量ではさすがに賄えぬか。どうしたものか――……ふむ、そうだな、私に内在する治癒力を使うか」
「ぬしさま、どういうこと?」
「小僧の傷を、私が肩代わりするのだ。私も元はヒトであり、肉体のつくりは同じゆえに。眷属にした今の状態ならそれが叶う」

少年を片腕で抱いたまま、主は空いた片手を薄い腹の上に置いた。
すると少年の内外の大きな傷がみるみるうちに塞がっていった。同時に、主の着物に内側から血が滲み出る。
少年が静かになったかわりに、主の顔が歪められた。

「くっ……」
「ぬしさま!血が!」
「あ、案ずるな……これしきの傷、じきに治る。河童、鼬、屋敷から山彦を連れて参れ。それと、狸も数名。小僧を屋敷に運ぶゆえ。そこで残りの傷を手当させ、静養させる。その手筈も整えておくよう皆に申し伝えよ。よいな」
「はいっ!」

主が用件を伝えると、河童と鼬は大きな返事をして勢い良く森を駆けて行った。
しばし少年を抱えたまま動かずにいた主は、やがて人ならざる驚異的な治癒力が働いて、肩代わりした傷も癒えていった。
こんな大怪我などここ何百年も負っていなかっただけに、どっと疲労を感じた。引き換えに少年はもう穏やかな顔で眠っている。

少年の顔を見ていると、「ヒトは人の世で……」と頭の片隅で囁く声がした。
人間を手元に置くことは、本当に正しいことなのか。正しいと思った行いで誰ぞの恨みを買うことになりはしないか。
躊躇いと後悔が今更ながらに押し寄せる。だが、憐れな子どもの命を救ったのだと己に言い聞かせ、胸に広がりつつある陰りを払拭した。

眠る体を抱いた手に思わず力が入ったその時、少年の背負った壊れかけの背嚢から中身が零れ落ちた。
そちらに目を落とすと、薄暗がりに目立つ赤い守り袋が映った。

「……呪詛の正体はこれか」

忌々しげに眉をひそめた主は、しばし思案に耽った。
この呪詛は一ツ目鬼に託すのがいいだろう。厄介な匂いがするが、彼も近頃は退屈そうにしていたので、暇つぶしにでも与えてやればいい。
呪詛を鎮めるには手順がある。神ではない主には、その手順こそが肝要だ。まずは縁を切り離さなければならない。

主はふと、守り袋とともに地面に落ちたスマートフォンに目をやった。端末を手に取り、片手で操作する。
崖から落ちた衝撃でひび割れたらしき画面に指先で触れ、中身を検分する。
一通り内容を確認してから、主は長い溜め息を吐いた。

「この小僧の名は……至悠、か……。なんとも面妖な響きよ。今の世のヒトの名というのは、おかしなものだな。否、人のことは言えぬか」

菊千世という幼き名を持つ己が言えたことではないと苦笑する。
主は、ふと顔を上げ、雨粒しきりの空を眺めた。今日のようなこの雨を、なんと表しただろうか。

「――糸雨」

口に出してみて、主は唇を綻ばせた。これなら響きも字面も馴染み良い。
呪詛と縁を切り離す方法として、この端末を使うことを思いついた。そのための周到な謀(はかりごと)も。
短い間のことだ、そう不都合なことにはなるまい。
そう思いつつも主は、らしくもなく、久方ぶりに自分以外のヒトと接することに心が湧き立っていた。


少年が目覚めたら名を与えよう。かつてこの山の神がもたらした恵みのような、優しい雨の名を。


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