45


色を失った唇を震わせ、糸雨は信じられない思いで視線を彷徨わせた。
熱が引いて呼吸がひどく遅くなっていくのを感じる。

「あ……ぁ……ぅ」
「口を開くな。無理に動けばおぬしの魂が散る」

動きたくとも指一本動かせなかった。唯一自由になる眼球を主へと向ける。
主は少し体を屈め、青褪めた糸雨の額をゆるりと撫でた。

「今、おぬしの中から私の精気を抜いた。思いのほか深く根差していたゆえ、ちと強引に吸い上げたがな。なに、案ずるな、魂は傷つけておらぬ。肉体の方は多少痛手を受けしばらくは動けまいが、その間に事は済む」

なぜそんなことを、と問いたくても言葉を発せられない。意味を成さぬ呻きが出るばかりだ。
糸雨は、ままならない体をどうにかしたくて呼吸を速めた。

彼は本当に先程まで熱く情を交わし合った男と同じ人物だろうか。そう思うほど、主の纏う気配は冷淡に一変していた。
こんなことをするのなら、せめて事前に一言あっても良かったのではないか。文句を言いたいがそれも叶わない。
もの言いたげな糸雨を見下ろした主は、ひとつ頷いた。

「おぬしの訴えは百も承知。だがまあ、許せよ、糸雨。約束通り、おぬしの問いには答えるゆえ。少しばかり手順は変えたがな」

許せと言いつつ懇願するような声音ではない。彼はどこまでも淡々としていた。
明言は避け、動けないようにしておいてあとから説明しようなどと、なんと狡いやり方だろうか。
それでも――それでも、糸雨は主を信じたかった。
主は一呼吸おいたあと、糸雨の頭を撫でながら低くつぶやいた。

「おぬしは敏いからいつか察するのではと思うたが、やはりな。私が元ヒトであることを明かさなかった一端は、それを危惧してのことだ。言う通り、世の境を越えた際に現し世の記憶が失われたのではない。……おぬしの記憶は、この私が封じた」
「……っ!」

糸雨の目がわずかに見開かれる。
主は苦笑し、いつものように胡坐をかくと、両腕を緩く組みつつ袖の中に差し入れた。

「九年前、おぬしは死の間際であり、その命を取り留めるには私の眷属とする他なかった。さすれば私の生命力をもって治癒の助けとなる。……が、一方で私の業も負わせねばならぬ」
「ぅ……」
「となると、与える精気は、私の負うた呪詛の力が及ばぬほどの少量でなければならぬ。さりとてその度合いでは、おぬし自身に備わる生命力を補うことしかあたわぬ」

けれど、主はそれで十分だと考えていた。死ぬも生きるも小僧の運次第、その程度のことだった。

「首尾良く生き延びれば、一年か二年もすればすっかり癒えるであろうと思い……癒えたのち、現し世に戻してやろうと、考えておった」

一、二年など主の感覚からすればほんの一日、二日も同然だった。
少年が持ち込んだ呪詛も、世の境を隔ててしまえば薄れゆく。ならば一ツ目鬼に預けておけばさほど面倒なことにはならぬだろうと高を括っていたのだ。
そこで主は軽く嘆息を漏らした。

「ただ、避けられぬ道理もある。私はこの山の礎であると、先刻の話の中で申したな。つまるところ、私の眷属であるならおぬしも礎として山に縫い留められることになるのだ」
「……ぁ……」

糸雨はかさかさに乾いた唇を開こうとした。しただけで実際には開かなかったが。

「それを説明したところで、人間の小僧が納得するとも思えなかったのでな。なれば、異界の習いということにしておけばよかろう、と偽りを申したというわけだ」

それを、糸雨はずっと信じてきたのだ。彼の言うことを。そうして仕方がないと諦めてきた。
だったらそれならそうと最初から本当のことを教えてほしかった。
何故だか悔しくなり、主を精一杯睨みつける。主は眉尻を下げ、皮肉げな笑みを浮かべた。

「呪詛との縁の話もしたな。呪いと切り離しておくには、現し世の因縁、因果も忘れておった方が都合が良かったのだ」
「……ぅ……っ」
「それにおぬしの呪詛は……強い穢れと邪気を発しており、周りの者に累を及ぼすものであった。おそらくこの山に『逃げ込んできた』のも、本能による危機回避が働いたゆえであろうな。でなければ周囲を巻き込み、道連れにしておったことだろう。……主に、縁者を」

よりいっそうの寒気が糸雨を襲った。
被術者を狂わせ、多数を道連れにする邪術。証拠はない。その原因はちっぽけな守り袋だと誰が思うだろう。
たとえ道連れの数が多くワイドショーを賑わせたとして、マスコミが勝手に「家庭に原因が」「人間関係のこじれが」と好き勝手に理由づけてやがて世間から忘れられていく。

「この山に来る直前、近しい人々が狂いだし、おぬしは相当に追い詰められておったはずだ。そんなものならいっそ、忘れていた方が心穏やかであろう?」

ところが、記憶の覚束ない不安定さなどは主は考慮していなかった。
そもそも人となりも分からぬ人間にそこまでの思いやりなど持つつもりもなかったのだ。どうしようもない悪童で手に余るようなら、さっさと山から放り出せばいいだけの話だ。
所詮、傷が癒えるまでの短い間、気まぐれに面倒を見てやるだけの関わり――それだけだったはずなのに。

淡々と言葉を連ねていた主は訥と言葉を切り、俯いた。
袖口から腕を出し、傍らに置いていた匕首を手に取った。手慰みとばかりに膝の上でそれを撫でる。

「一年過ぎ、二年が過ぎ……私は……私は、おぬしとともに過ごす日々を手放すのが、惜しくなった」

きっかけは、糸雨と一ツ目鬼が初の邂逅を果たしたあの夜からだ。
幼い反発を珍しくも面白く感じていたものの、それを許していたのは近々現世に戻すつもりでいたからだ。
そんな矢先、一ツ目鬼とのちょっとした事件を境に糸雨は生来らしき素直さを見せた。
向かい合って食事をともにし、術の使い方などを手ほどきし、毎日の髪結いをさせてくれと頼み込まれ、盤上で遊び、重要な務めを任せられるようになって――。
日々を重ねるごとに情も深まっていく。気がつけば、引き返せぬところまで嵌まっていたのだった。

「……すまなかった、糸雨。本来であればもっと早く現し世に戻れたものを……私がおぬしを手放したくないあまり、長いこと、ここに縛りつけた」

冷たく響いていた主の声が、だんだんと湿り気を帯び、震えていった。匕首を握る手も震えている。
糸雨は出来る限り目を見開いて主を見つめた。

「事の次第を詳らかにすれば、おぬしは私を憎み、厭うであろう……そうしておぬしが私から離れていくことを恐れ……ずっと……伝えられずにおった……」

これが、糸雨に対して長年隠してきた真相での己の罪だと、主が喉の奥から絞り出す。

「私は、神には程遠い。どれほど齢を重ねようと心には魔性が巣食い、私欲に駆られ、知らぬふりをして……おぬしのかねてからの願いを無下にしてきた」

主の目が潤み、朱く染まる。長い睫毛がせわしなく瞬くと、唇がぎゅうと引き結ばれた。
糸雨は、今すぐ起き上がって主のことを抱きしめたかった。
違う、そうではない。命を助けられ、ここで暮らした日々は糸雨にとってもかけがえのないものだった。感謝こそすれ憎むはずがない。
現世になどもう戻らなくていい、記憶なんていらない。『糸雨』として、ずっとあなたの傍にいたい――そう叫びたいのに声が出ない。

「っ……ぃ、ぁ……」
「だが、おぬしと想い遂げられた今、やっと踏ん切りがついた。今宵を限りに、私という呪縛からおぬしを解き放ってやれる」

言葉とともに、揺れる瞳からぽつりと雫が落ちた。その涙を拭うための手すら伸ばせない。はらはらと流れ落ちるのを、糸雨はただ見つめることしかできなかった。

「現し世から狭間に渡ることは難しい。それこそ生死の境を越えねばならぬ。しかしその逆はそれより容易い。要(かなめ)は縁であるが、特に肉親の縁がある限り、戻すのはそう難しくない」

静かに涙を零しながら、主は自嘲の笑みを浮かべた。

「かつて山神様は、『ヒトは人の世で生きるべし』と、私を現し世に戻そうとしておった。私は人柱という役目を負い、そのうえ縁者も絶えたゆえ叶わなんだが、おぬしは、私とは違う」

主の手が躊躇いがちに伸ばされ、氷のように冷えた糸雨の手に重ねられた。褥で同じ体温を分け合っていたはずの主の掌は、今は燃えるように熱く感じた。
そのことがひどく切なく、寂しくて、喉の奥がつかえて苦しくなった。

「……あの方が仰っていた言葉の真意が、私にもようやく分かった。ヒトはここに居てはならぬ。私たちは理を異にし、ともに生きてはおれぬのだ」

主は糸雨から名残惜しげに手を離すと、細い指先でそっと、頬を濡らした雫を拭った。
白い頬から涙が消えると、彼の表情は凛と引き締まり、情人から山の主の顔へと変貌した。

「――今から記憶の封印を解く。長年無理に封じ込めていたゆえ、反動でこちらでの記憶は失われよう。だが、おぬしのためにもそれが良い」
「……! ……ゃ、ぁ、ぁ……っ」

嫌だ、やめてくれ!やめてください!――糸雨は必死に叫んだ。たとえ魂が散ろうとも、それだけは絶対にやめさせたかった。
主のことを忘れたくない、今夜のことも、今までのことも。
どうしても声が出ない。それが悔しくて唇を噛んだ。噛み締めたところからじわりと薄く血が滲む。

「っ……そのような顔を、するでない……決心が鈍る。道は違えようと、私が心身許すのは生涯おぬしのみ……せめて、それで勘弁してはもらえぬか」

嫌だ、いやだ、あなたを一人にしておけない。
尽きぬ業を背負って耐え忍び、山に閉じ込められ守る役目を、この先何百年と続けるつもりなのだろうか。情人とのただ一夜の思い出を抱えて、それだけで。
そんなのは、もはや呪いだ。

糸雨は抗った。しかしどうしても動くことができない。
すると、主は片手をすっと伸ばした。軽く手招きしたと思えば、その手にすとんと黒く薄い箱状のものがおさまった。糸雨のスマートフォンだ。
彼はそれを手に持つと、電源ボタンを数秒押して起動させた。
その慣れた手つきに糸雨は心底驚いて、目をきょろきょろと動かした。

「……意外か?これらのからくりが使えぬと申した覚えはないがな。おぬしも、仕組みは知らずとも使えるものであろう?」

言われてみればそうだ。スマホがどうやって作られてどういう部品の如何な仕組みかは知らないが日常的に使っていた。
山に落ちている電子機器などこれまでいくらでもあったことだろう。蔵に収められたそれらを見る限り、主があれこれ試してみたのは想像に難くない。
それだけでなく、すでに充電切れだと思っていたものが起動したことも驚きだった。

「おぬしの記憶はこれを通じて封じておった。この小箱はおぬしの縁に繋がっているゆえ」

家族や友人に知人、住んでいた場所の写真に連絡先、メッセージのやりとり――この小さな端末にあらゆる情報が詰まっている。主はそれを知っていて利用したのだ。
主は時代遅れどころか、その知識でもって糸雨を出し抜き、あまつさえ活用していたのだ。本当に、主には敵わない。

「これを見る限り、おぬしには愛する縁者も、仰ぐ師も、好いたおなごもあったのであろう。よく学び、朋友らにも好かれていたようだ」
「…………」
「それらを奪い、本来あるべき行く末を潰えたのは……ひとえに私の咎だ」

すまぬ、とまた主がぽつりと零した。

「おぬしが私を好いておるのは、かような環境下にあったゆえであろう。閉ざされた土地で、ヒトの姿をした私という者と近く接しておれば否応なく情も湧く。おぬしは血気盛んな年頃であるから、選ぶ余地もなく、そう勘違いしただけのこと」

違う、と糸雨は咄嗟に思った。そうでなくても必ず主を好きになった。
だが――心のどこかに曇りが生じる。彼の言う通りなのではないか、と。

「しかしそれも、何もかも忘れる。私が奪った全てを、今、返そう」

仰向けになった糸雨の胸の上に主がスマホを置く。そうして指先で、ひび割れた画面に何かの文字を描いた。
光る画面の上に鮮血に似た赤い文字が浮かび上がる。門提灯などでよく見かけるまじないめいた文字だ。それらの文字の術についてはついぞ教えてもらえなかった。

主が描かれた文字を掌でひと撫ですると、赤い描線が青白く変わり、ガラスが割れるように弾け飛んだ。その時、突如として頭の中に奔流が流れ込んできた。
一つ一つの形はわからずとも濁流のようなすさまじい勢いで脳内を占めていく。わけが分からず、糸雨は目を回した。
そして、濁流に押し流されていくものもある。それが何かを悟った瞬間、糸雨はどっと涙を溢れさせた。

(――いやだ!失くしたくない!それは俺のものだ!駄目だ、どこにも行くな……!!)

なんとか留めておきたくて震える手を握り込む。だが、指が内側に少し折れ曲がっただけに終わった。
糸雨が怒涛の奔流に抗っているさなか、主は膝に置いていた匕首を持ち上げた。
音もなく柄と鞘の合口が離れる。見覚えのある白い刀身が鈍く光った。

「ぅ、……っ」
「この身に溜めた神力を用いれば、おぬしを無傷で向こうに渡してやれる。なに、恐れることはない。すぐに終わる」

鞘を褥に置いた主は、うなじのあたりで自身の黒髪をひと掴みにした。
束になったそこに刀身をあて、勢い良く一閃する。
彼の長い髪がざっくりと切れる。繋がりを失ったそれは、主の手の中で絹の帯のように垂れた。同時に髪筋が仄光る。

「古来より髪は神秘の力が宿るとされた。ゆえに、私の神気も長い歳月をかけ、ここに宿してきたのだ。この力があればおぬしも元通り、現し世に戻れよう」

それは、主が神に成るために溜めたものではないのか。
ひどい動揺のあまり糸雨はがくがくと痙攣した。こうしている間にも記憶が抜け落ちていくというのに。衝撃で何かが大きく欠けた気がした。
糸雨の言いたいことを察したらしい主が、肩のあたりまで短くなった髪を指先で摘まんで、少し寂しげに笑った。

「私の髪が好きか、糸雨」
「……!」
「ならば、くれてやる。おぬしのためなら少しも惜しくない」

糸雨の瞳から涙がとめどなく流れた。
長くてなめらかな射干玉の髪。美しいそれを解きほぐし、梳いて、結うのが楽しみだった。
こんなことのために整えていたのではない。別れのために使われるだなんて――そんなのは、嫌だ。
この先も、ずっと、彼の髪を整えるのは自分の役目だ。なのに……失われていく。儚く、はじめから何もなかったかのように。

「おぬしは己が力で呪詛を退けた。おぬしは強い。ゆえに、この先、何者もおぬしを害することはない。終生、幸福な日々を送るであろう」

言祝ぎを授けた主は、最後に糸雨の頭を一撫でした。
愕然として泣き続ける糸雨の傍らで、主は神妙な動作で跪坐に直り、両手で恭しく髪を捧げ持った。
瞳を閉じ、何かのまじないを朗々と口にする。古い詞のようで、祈りのようで、唄に似ていた。
まじないが進むごとに髪が光の筋となり、主の手を離れて糸雨の身体に蔦の如くするすると絡みついた。それは痛みも何もなく形を残さず消えてゆく。

詞は長くなかった。神域にかすかな余韻を響かせながら、穏やかに沈む。

神気を帯びた糸雨の身体は眩いほど白く光り、境界を曖昧にして、ここではない場所へと去らんとしていた。
糸雨が光の渦に包み込まれる寸前、主は緩やかに瞼を上げた。糸雨を見つめ、優しく微笑みながら一筋の涙を零した。

「達者でな、糸雨。否――至悠(しゆう)」

失われゆく記憶の中、ただ一つ残った言葉を、至悠は有らん限りに叫んだ。
――菊千世、と。
言葉になったかそうでなかったかは、白みゆく意識のうちでは判然としなかった。


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