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一度と言わず二度も立て続けにしたあと、ようやく糸雨は主から体を離した。
糸雨の少しだけヒトではない部分がそうさせたのか、はたまた単に若さか――精力の旺盛さに自分でも呆れ返るばかりだった。
主の腹の中に注ぎ込まれた精は、窄まりから溢れるほどに多い。擦られ続けた秘所も真っ赤に腫れている。

房事に耽るあまり、どれほどの刻が過ぎたのかも分からない。神域奥深いこの場所では余計にである。
何にせよ、神域を訪れたのが逢魔が時だったので今は夜更けには違いない。
精と香の匂いが混ざり合った薄暗い帳台の中は、どこか霊妙な気配に満ちていた。しかしその熱気も徐々に薄れていく。

二人は離れたあとも褥の上で横たわり、互いに手や唇を使って戯れた。
一線を越えてしまえば、糸雨は遠慮なく主にまとわりついた。
いくら触れても飽き足らず、呼吸が整い汗が引いてきても、まだ撫でたり口づけたりした。

それにしてもさすがに腰がだるい。この幸せに浸ったまま明日までここで寝てしまいたいくらいに疲れている。
糸雨よりも主の方がもっと負担がかかっただろうが。
ずっと組み敷かれ、あらぬ場所を開かれ続けていたのだ。主は何も言わないが、彼も疲労困憊といった様子でぐったりしている。
横向きになり、褥に力なく裸身を預けている。その姿はおそろしく妖艶で、最中とはまた違った魅力がある。

「主様、すみません。大丈夫ですか?俺、夢中でついやりすぎて……」
「……案ずるに及ばぬ」

主は掠れた声で返すとゆっくり起き上がった。乱れた髪をかき上げる様も色っぽい。
彼は手探りで襦袢を引き寄せると、情事の痕も生々しい身体を覆い隠すように羽織った。しかし腰紐が見つからず、衿を合わせたまま片手をうろつかせる。
その仕草が妙に可愛らしく思えた糸雨は、少し笑ってから起き上がって一緒に探した。

果たして主の腰紐は、どういうわけか糸雨の着物の中に絡まっていた。
情交の間にもつれ合って、脱いだ衣を乱したり蹴ったりしたのでその末にそうなったのだろうが。
それを彼に手渡したあと、糸雨も己の襦袢だけを取り出して緩く纏った。
上等な着物が雑多に丸まっている様は忍びないのでせめて畳もうとしたとき、袴の中から匕首が転がり出てきた。

「あ、これ……」

黒漆塗りの匕首を手に取ると、糸雨はふと思い出すことがあった。主に会ったら尋ねようと思っていた小さな疑問だ。

「そうだ、主様。これについて聞きたかったことがあるんですけど」
「何だ?」
「これ、崖では鞘から抜けたじゃないですか。でも、あとで抜いてみようと思ったらびくともしなくて……何か特別な仕掛けでもあるんですか?」

糸雨と向き合った主は匕首を見つめたまましばし黙り込んだ。
ゆっくり瞬きをしてから糸雨に握られたそれをやんわりと掴む。そうして自身の手に渡ると、愛おしげな手つきで鞘を握り込んだ。

「おぬしには言うておらなんだが……これは、私とともに棺に納められた品だ」
「……はい?」
「先刻話したであろう。私は人柱として捧げられた。そのとき、神の御許へ送るため供物とともに棺に入れられたのだ。その供物が、これだ」

つまり、人柱としての生き埋めの際の副葬品が、この匕首だったのである。
黒漆に四君子蒔絵という雅な装飾が施されたそれは、てっきり風流人である主の趣味の持ち物だと思っていた。それだけに、その真実に糸雨は絶句した。

「人柱と同じく信心込めて神に捧げられたゆえ、この合口は、世の境を越えたのち霊験を得たのだ。邪を寄せ付けず、持ち主を災いから護る」
「…………」
「その力は清廉にして強靭。ただ、意志のようなものも備えてしもうたようでな、私でさえ刀身みだりに抜くことを許さぬ」
「……じゃあ、俺が崖で鞘から抜くことができたのは……」
「この合口がその機と判じたに過ぎぬ。でなければ、おぬしは今頃――」

匕首に目を落としつつ主が言葉を途絶えさせる。その先を予想した糸雨はゾッと背筋を凍らせた。
いっそ知らなければ良かったのではと少し思ったが、主が顔を上げて苦笑したのでその考えは捨てた。いかにも「だから明かさずにいたのだ」と言いたげだったからだ。
ともかく難は逃れたのだから、今更あれこれ気を揉んでも仕方がない。
むしろそれほど大事な霊物を預けてくれたことが嬉しい。おかげで糸雨はずっと護られていたのだから。

「――この合口は」

疑問が明らかになりそこで終わる話題かと思われたが、不意に主が言葉を繋げた。

「これは、もとは私の母のものでな。母の生家は武家であったため、護身のため持たされた懐剣であったと聞く」

慈しみ深い表情を浮かべた主は、膝の上に匕首を置いて蒔絵を優しく撫でた。
今は亡き家族のことを語りはじめた彼に糸雨は一瞬ドキリとした。

「あなたの、お母様の……」
「うむ。母上の生家は何かと唐物を好んでおってな。そこで、私の外祖父にあたる御当主が、懇意にしておった南画家が持ち込んだ、当時まだ広く知られておらぬ画題をいたく気に入り、娘の懐剣に用いたそうだ」

古く歳寒三友の意匠が好まれていた当時、蘭、竹、菊、梅という四君子はかなり新鮮に見えたことだろう。
新しい物に敏感な若い娘も、綺麗な草花の紋様に喜んだはずである。

「母上はこの合口を後生大事にしておった。意匠を我が子の名に用いるほどにな」
「……我が子の、名?」

糸雨が呆然と繰り返すと、主はわずかに目を伏せて微笑み、鞘に描かれた菊の絵を指先でなぞった。

「菊千世――私の、名だ」

きくちよ、と小さく紡ぐ唇に見惚れ、糸雨は寸の間ぼんやりとした。しかしその言葉が耳の奥に沁み入ってきて、鼓動がどくどくと速くなった。
主は呆けている糸雨の手を取り、その掌に人差し指で丁寧に字を描いた。

「この名は幼名で、末尾はもとは『代』の字であったが、人柱に成る儀にともない『世』の字を父から賜った。読みは同じだがな」

母からは護りの愛刀を、父からは言祝ぎの名を。
若君が二親からどれだけ愛されていたことか。本当は、きっと彼らも我が子をこんな形で失いたくなかったはずだ。
涙を飲み、せめてもの慰めにと託したのだろう。

「菊千世……」
「元服はしたが、無垢なる童子が神に好まれるとして、私は幼名のまま人柱になったのだ。であるからして、御方以外、他の誰にもこの名を明かしておらぬ」
「それは、狭間では名前が神の力に影響するからとかですか?」

古くは諱(いみな)という習わしがあったくらいだ。
狭間において、言霊といった何か人知の及ばぬ効力があるのでは――そう考えた糸雨だったが、主は首を横に振った。それから軽く唇を尖らせて頬を染める。

「……かような幼き名では、格好がつかぬであろうが」

恥ずかしそうにつぶやいた主に、糸雨の心臓が大きく跳ね上がった。胸が苦しい。一体どうしたことか、今日の主は可愛すぎる。

「全然。あなたにぴったりの、綺麗な名前だと思います」

現代人の糸雨にとっては、古風な響きだという以外、本人が恥じ入るような子どもっぽい印象は感じられない。
吉祥にして邪気を払い、千の世も永らえますよう――どれほどの想いが込められた名だろう。

「菊千世……菊千世様。菊様?」
「これ、そうしつこく呼ぶでない。こそばゆいわ」

主は本当に痒そうに二の腕をさすって、しかし満更でもなさそうな笑みを見せた。
和やかな空気に、糸雨も自然と表情が綻んでいく。溶けてしまったかというほどの緩み具合だ。

「俺、狭間では軽々しく名前を呼んではいけない、みたいな掟でもあるのかと思ってました」
「それは種族による。たしかにそういった掟がある者どももおるが、属する種族名で通す者がほとんどだ。こう呼んでほしい、と申し出るなら私もそう呼ぶがな。主たる私が名を明かさぬので、皆の者もそれに倣っておるのであろう」
「だったらどうして俺には名前をつけてくれたんですか?」
「皆の者から『ヒト』と呼ばれたいか?」
「それはちょっと……」

そのあたりは元人間の主が慮って、通り名をつけてくれたようだ。
ただし、一ツ目鬼だけは種族ではなく自らそう名乗っているので、それが彼の名であるらしい。
妖蛇の頃は名はなく今の姿に成ったあとに付けた名で、ヒトらしい名を考えているものの、未だこれというものを思いついていないそうだ。

それにしても――。
糸雨は嬉しさのあまり、菊千世、菊千世様と、知ったばかりの情人の名を胸の中で反芻した。心の奥底にまで刻み、沁み込ませるように。
これからは、二人きりのときはそう呼ぼう。呼ばせてもらえるのだ。愛称を考えるのも一興だろう。

(俺も、自分の名前を覚えてたら主様に呼んでもらえるのにな)

『糸雨』という仮の名ではなく。
現世での本来の名を思い出せないことが悔やまれる――そう考えたところで、糸雨ははたと思い至った。

「あれ、ちょっと待ってください。何か変じゃないですか?」
「どうした。何がおかしい」

怪訝な顔をした主に、誤解を与えてしまったかと糸雨は慌てて手を振る。

「あ、いえ、おかしいのはあなたの名前じゃなくて。あなたが、自分の名前を覚えていることが」

そう言うと主は黒い双眸をすっと細く眇めた。映り込んでいた行灯の光がその目から消える。
主の反応に、糸雨の緩んでいた気持ちに刃物の切っ先を突き付けられたような緊張感が走った。

「……俺が、自分の名前を覚えていないのは、狭間に来てしまったからだって……あなたは言いましたよね。なのに、同じく境目を越えたヒトであるあなたは覚えている。これって、どういうことですか?」

現世での記憶は、たとえ糸雨のように曖昧になってしまったとしても、顛末を知る一ツ目鬼や、御堂を通して聞いた村娘の兄の訴えから繋ぎ合わせて知ったと思うこともできる。
だが、名前は違う。山神にしか明かしていない。しかも明かしたのは主自身だと言った――つまり、主は、『現世での記憶を覚えている』。
少しの間、主からの返答はなかった。

「俺は事故で死にかけたわけですし……儀式でこちらに来たあなたとは違うから、ですか」
「――そのことだが、糸雨」

低く静かに名を呼ばれ、知らずビクッと肩が跳ねた。

「今なら……この山を出られると言ったら、如何する?」
「え?」
「これまでは呪縛の下にあったのだが、今なら解いてやれよう。無論、記憶もおぬしの元に戻る」

ということは、山を出られずにいたのも狭間に来たからではなく、何らかの制限がかかっていたせいか。
それも主が吐いた『偽り』のうちの一つだったのだろう。彼のことだ、呪詛の件のように事情があったに違いないが。
そして主はそう言い放ったきり、口を閉ざした。促すでもなく止めるでもなく、ただ、糸雨の決断を待っている。
突然の申し出に、糸雨は正直に言って戸惑っていた。しばし逡巡し、ごくりと唾を飲み込んで小さく問う。

「それは……俺が、自分の呪いを解いたから、できるようになった……とかですか」

主は頷きも否定もしなかった。何やら複雑な事情がありそうだ。
他にはたとえば、糸雨と主が恋仲になり、契りを結んだから。そう思えば納得できるような気がした。

「あの、じゃあ、俺とあなたが契りを交わしたからですか?」
「……どのように受け取ろうと構わぬ。おぬしは、どうしたい」

主がわずかに頬を染めて言い淀み、また黙り込む。
山の外に出られるのなら行ってみたい場所がたくさんある。稲荷屋の社や、他の妖や神仏の治める土地、あるいは生まれ故郷。
それに、記憶が戻るなら願ってもない。
己の生い立ちや家族を思い出せるのはもちろんのこと、主に、愛しい人に本当の名を呼んでほしい。呼び合いたい。

「俺は……できるなら、そうしたいです」

少し躊躇いつつも希望を告げると、主はゆっくり頷いた。

「相わかった。では糸雨、こちらへ。近う」

情事の最中と同様の甘い声音で誘われ、糸雨は腰を浮かせて主のすぐ近くに座り直した。
主は膝に乗せていた匕首を横に置き、糸雨の肩にするりと手を回した。その手で糸雨のうなじを掴み、唇を寄せる。

「主様……?ん……、……んっ!?」

ぴったりと唇を塞がれ、主が深く口づける。
情熱的な口づけに喜んだのも束の間、主がすうと細く息を吸うと、糸雨の全身から急激に力が抜けていった。
腹の奥から、何か、温かいものが迫り上がり、喉を通って口からまろび出てしまう。
すると、身一つで雪山に放り出されたかのように全身が凍てつき、強烈な痺れが走った。

糸雨は青い顔で脱力した。体勢を保っていられず自然と唇も外れてしまう。
崩れ落ちゆく糸雨の身体を、主がすかさず抱きとめた。そのまま慎重な手つきで褥に仰向けに寝かせる。

糸雨は小刻みに震えながら主を見上げた。
己を見下ろす彼の瞳は冷然と醒め、美しい顔貌には何の感情も浮かんでいなかった。


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