「すみません。少し遅くなりそうです……だそうです」
「……お気遣いありがとうございます、伊地知さん」

 受話器を置いた伊地知さんがわたしに苦笑を向ける。今日一日、デスクの電話の液晶画面に表示される『七海一級術師』の文字にいちいちドキドキするわたしに、おそらく気を遣って視線を向ける伊地知さんだが、今日の七海さんの送迎担当は伊地知さんなのだから、わたしが電話に出たところで特に意味はない。無駄に時間をかけて受話器がパスされるだけだ。それでも、伊地知さんが七海さんからの連絡事項をわたしにまで伝えてくるのには理由があった。デスクの下で出番を待っているのはバレンタインデーの贈り物。他の人には、味や大きさの区別のために一つひとつ宛名書きをした付箋を貼っておいたが、いよいよ残り一つとなったその箱は間違えようもなく、わたしが七海さんに渡すために用意したものだ。等しくお世話になっている人たちへの気持ちに区別は良くない。だが、七海さんへの気持ちはやはり、他の人とは明確に違っていた。散々迷った挙句、わたしは他の人宛のものとは違うブランドの、チョコクッキーサンドを選んだ。シンプルな包装からは味に自信があることが伝わってくる。百貨店の催事場で試食して、わたしはこれを七海さんに贈りたいと決心したのだった。

「あの、七海さんの話ですと定時を過ぎそうですし。……交代しますか?迎え」

 伊地知さんの控えめな提案にわたしはひっくり返りそうになった。正直、理にかなっている。わたしは七海さんに退勤後に少し時間を作ってもらいたいと伝え了承を得ているし、交代すれば伊地知さんは定時で帰ることができる。いい考えだ。わたしの心臓がどうにかなりそうなこと以外は。

「幸い、今日の案件は危険なものではないですし、遠方でもないので、スムーズに高専に戻ってこられると思います、……大丈夫ですか?」
「は、はい。問題ないです。心臓以外は」

 心の声がそのまま漏れてしまい、伊地知さんが「えええ……」と微妙な反応をした。七海さんの迎えの指定の時間まであと一時間程度、それまでわたしはきっと気もそぞろだろう。緊張で事故さえ起こさなければ大丈夫。じゃあ七海さんに交代の旨伝えますよ、と伊地知さんに確認され、わたしは汗をかきながら頷いた。電話が繋がり話し始めた伊地知さんが「え?はい、わかりました」と言いながらわたしを見遣る。

「あの、七海さんが代わってほしいと」
「はっ!?あっ、えっ?わ、わかりました!」

 高速で打つ心臓を物理的に片手で抑えながら、わたしは受話器を耳に当てた。お疲れ様です、と声をかけながら。受話器越しに七海さんが応える。

「お疲れ様です。交代、ありがとうございます。気をつけて来てください」

 受話器を置き、わたしはデスクに伏した。強いあの人は今日も無事で、優しい声で他人を気遣う。早く会いたい。そう思った。

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