幻のドラゴン | 26


――この二日間で、わたしたちの中で何か前進したのだろうか。

もしそれを問うのならば、ひとまず『隣に並んだこと』とこよみは答えるだろう。
精神的な距離感としては非常に大きな前進である――ということにしたい。

(でも、保留になったことがある。七海さんの考えている内容とは違うだろうけど……)

こよみと七海は隣同士に立ち、新幹線のホームで列車の到着を待っている。
切符の券面に視線を向けながら、こよみはちらりと七海の相貌を見上げた。相変わらずの無感情な表情だ。
ただ、冷静と鈍感は違う。七海は目聡くこよみの視線に気付き、じっと視線を返してきた。

「何か?」
「なんでもないです、ごめんなさい」

不機嫌でも怒りでもない。いつだって、七海は理由を聞きたいが故に尋ねる。
昨日の今日なので、言葉足らずや勘違いですれ違うことを避けたいのだろう。
だが、こよみは本当になんでもなく顔を見たに過ぎない。
七海の方も慣れた様子で、そうですか、とだけ告げた。

こよみは妙に形容しがたい心地があった。
七海との間の空気が、昨日の朝とは違う。
沈黙が重苦しくないし、かといって過剰に気遣われているという感覚もない。

(衝突した甲斐があった……?)

根が真面目なこよみは、これをすんなり受け入れて良いものか判断に迷う。
気がかりだった当面の課題は解決したとみなし、こよみ自身の心はすっきりしている。そして、七海もそうだとしよう。
だがこれはあくまでも昨日の口論の話だ。
もちろん、二人の間に深く根を張っていたことが一気に噴出した結果であることは間違いないだろう。
お互いにはっきり言葉にしていないが。
そしてそのうちのいくつかが保留状態である。
だからこそ、いつかまた次の“衝突”に発展する種になりかねない。
それを果たして、七海は避けたいのだろうか。こよみはそれが引っ掛かるが、考えてもわからない。
こよみとしては、自らの保留事項は俎上に上げるつもりはない。可能ならば墓場まで持っていく覚悟である。
“お互いに不都合”とまで言った七海のことだから察している可能性はあるが、口にしないのはやはりこよみのためなのだろうと、こよみは考えている。

(じゃあ、やっぱり次の“衝突”は避けるべきなんだろうなぁ)

こよみは心の中で、一人でうんうんと頷く。
これ以上の前進は望んでいない。こよみの本心だ。現状が最良であるとまで思う。
隣に並ぶことを許され、同じ方向を向き、同等の立場の仲間と認められた。あの七海にだ。

「お土産は足りていますか?」

不意に七海が口を開いた。
こよみは予期せぬ質問にどきりと心臓を跳ねさせながらも、呑気な質問に難なく笑顔を浮かべる。

「はい!迷ったら生八つ橋で決まりなので、楽です」
「土産屋の娘にはこだわりがありそうですが、案外王道なんですね」
「うーん、確かに、じっくり見る時間があったら考えたいですけれど。迷うのも楽しいですし」

「でも旅行じゃないので」とこよみが真面目な表情で締めくくると、七海は「確かに」と同意して僅かに表情を柔らかく崩す。
笑顔未満。七海はいつもそうだ。それでも、その微妙な変化一つに、こよみは感情を大きく揺さぶられる。
思い返すと、七海は笑うことが極端に少ない。
表情の代わりに彼の感情を豊かに表現しているのは声色だと、こよみは勝手に結論付けている。
心地の良い低音は実はかなり感情豊かだと、こよみは常々思う。
七海は昨日、自らを“ひねくれ者”だと称した瞬間があったが、こよみはそれがよく理解できない。
職業柄、相手を出し抜く必要性もあるだろう。こよみが知らないだけで、演技派な一面もあるのかもしれない。
もし仮にそうだとしたら、こよみは「自分は完全に騙されているだろう」と思う。
こよみは、七海の声色が物語る感情表現を疑ってかかったことがない。惚れた弱みと言えばそうかもしれないが。

「どの口がって思いますよね。わたし、仕事なのにいっつもお土産買ってるし……」
「駅構内で手に入る範疇でしょう。それに相手が喜んでいるんですから良いんじゃないですか」
「それはそうですが」
「それに自費なんでしょう。感謝こそあれ、責められる要素がありません」
「や、優しい〜……」
「……あなたはいつも相手に合わせたものを買うでしょう。そこまでしなくても、と思っていますよ」

五条には甘味。家入には酒のつまみや化粧品。生徒たちには箱菓子。
確かに金銭面や時間の消費の他にも、心を砕く必要性が出てくる。人に贈るものなのだから。
こよみはそれを、勤め人である自分を置き去りにして、ただ好きだからやっている。
どこまでいっても自己満足の行動を、感謝してもらえるのは幸運なことではないだろうか。
それに、こよみは七海には個人的に贈り物をしたことがない。好みを知らないからだ。職員室宛の菓子一粒が七海の手に渡っているかも定かではない。

「……もし七海さんが欲しいものを買ったら、受け取ってくれますか……」

ふとその場に落ちた沈黙が、少々気まずい色を宿していた。
こよみはすぐさまハッと我に返った。今の発言は少し、いやかなり攻めている。

「あっ、や、えっと、ごめんなさい!別に欲しいなんて言われてないのに、わたしってば!」
「…………」
「な……七海さんはお菓子はいらないかなぁって思ったから、なんだかつい、声に出ちゃって」
「……まぁ、確かに私は、他の職員ほど待ち望んではいないと思います。でも数に余裕がありそうなら、きちんと頂いています」
「へっ……」
「あなたの買ってきてくれるお土産のお菓子ですよ」

こよみが自らの発言内容に先走って焦り、言い訳を並べる。七海が冷静な声音で返事をする。
よくある構図だが、前日までとは違っていた。
こよみは七海の発言を過剰に“怖い”とは感じなくなっていた。

「……、そう、なんですか」
「はい」
「嬉しいです。……ふふっ」

迷いのない簡潔な返答は、七海らしいと思う。
こよみはへにゃりと呑気な笑顔を浮かべた。


信頼関係の構築、その第一歩。
二人が出会ったのは九年も前に遡るというのに、振り出しのようだとこよみは感じる。
過去に共にした時間と共有する思い出が裏目に出る苦い経験を、ほんの数か月以内に何度も味わった。
だが、それを受け入れ共に同じ方向を向ける今に、ようやく到達した。
二人を隔てた七年という年月と変化した立場や思いが、二人が共有する自分たちの関係性を大きく歪めていた。
学生時代に一緒にいた時間を尊いと思う。
可能であれば、相手に変わっていてほしくないと思う。
現実はそうではなかった。
それを理解できなかった、こよみと七海双方の失敗があった。

(七海さんは、変わった。わたしは変わっていない。だからすれ違った。……でも、やっぱりわたしも、変わった気がする)

七海が好きだ。
この気持ちは、こよみはずっと持っていたと思う。
だが、その感情の輪郭は、七年前とは少々違うのだ。
伝えるつもりがないのだから、追及する必要もない。
今はただ、七海と共に在る時間を大切にしたい。


七海はこよみの笑顔を見て、目をぱちぱちと瞬かせた。
帰路の今も、七海は休日用のシンプルなフレームの眼鏡を着用している。
戦闘時に身に着けるそれよりも、視線の動きが良く見える。
こよみは七海の視線が自分に向いていると感じると、気恥しい。
だが、自分の方こそ七海をよく見ているのだから、反抗などできるはずもない。
きちんと向き合い、少しでも彼を知る。次の衝突を避けたいこよみの課題であろう。

「……、何か……?」

七海の視線が、こよみに注がれたまま外れない。
こよみはいよいよ耐え難くなり、七海に尋ねた。
七海に視線を向けたこよみに対して、七海が同じ文言で尋ねたのはほんの数分前の出来事だ。自分もそれを疑問に思うくらい許されるだろう。
昨日までのこよみだったら、怖くて声にはできなかったかもしれない。
こよみは返ってくる言葉を予想して、予防線を張る癖がある。それはもうやめる。新たな火種を生むような悪癖は改善し、七海と共にいられる時間を大事にしたいから。

七海はハッとしたように小さく息を吐くと、一瞬視線を逸らした。が、それは再度、こよみの鼻先あたりに戻ってくる。

「……考えていたんです。私が直すべきところを」
「え?」
「鬼怒川さんは……何かトラブルがあっても、自分のせいにしがちでしょう。あなたの良いところでもありますが」
「あ……ええと、七海さんはよくそうおっしゃってくれますよね」

こよみは自分に自信がないという強い自覚がある。
それに、他人を変えることは難しい。自らが変わる方が余程楽だし、建設的だと考えている。
聡明な七海はこよみの性格をよく理解している――というのが、まさに衝突の根の部分だった。

「七海さんに直すべきところなんかありません」と飛び出しかけた言葉を飲み込み、こよみはじっと待った。
“自らが変わる”ことについて、他人が口出しをする必要などない。それは、こよみが一番良く知っているからだ。

七海が言い淀む様子を、こよみは初めて見た。

七海は決してずばずばと物を言う人間ではない。
その聡明さゆえに、言葉を選び取る思考時間が短いだけだと、こよみは考えている。

「言いましたよね、あなたを傷つけたくはないと」
「はっ、はい」

こよみにしてみれば、その気持ちを一度聞けただけでも幸せだ。
わざわざ確認するように再度口に出す七海は、至極真面目な表情だった。
――そんなこと、常に意識して有言実行することでもないだろうに。

「わたし……七海さんのその言葉を忘れません。きっと、ずっと。……それだけでは駄目なんですか?」
「この先あなたを傷つけた時に、言い訳にしたくありません。私の発言の下地がそれだとしても」
「……」

「大切なことなんです、私にとって」

――ああ。十分過ぎる言葉です、七海さん。

こよみの頬にじわじわと赤みが広がるのを、七海は静かに見つめていた。
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