幻のドラゴン | 27


高専時代のこよみにとって、七海は非常に優秀な先輩の一人だった。
共に呪術師という関係性もあり、こよみはひたすら七海の背中を追いかける毎日だった。
こよみの呪術師としての素養を開花させるために心を砕く七海は、落第生のこよみにとってまさに救世主だった。
こよみの技量は、七海の予想を超えることなどただの一度もなかっただろう。
それでも七海はこよみを見放すことはなかった。
同じ呪術師として、後輩として、ひたむきに努力するこよみを悪く思っていなかったことは確かだろうと、こよみ自身も考えている。

こよみは七海を尊敬していた。
その深い優しさに憧れていた。

それは、恋愛感情とは違っていた。

こよみの想いが、ただのシンプルな“好き”という好意に変わったのは、それから少しだけ後のことだ。



* * *



お互いの立場が変わっても、こよみの七海に対する尊敬や憧れの気持ちは変わらない。
そして“好き”の感情は大きく成長した。抱えているだけで苦しいと感じる程度には。
成長したきっかけは、七海が傍にいることだ。
いつでも伝えられる距離というのは、抱え続けるには苦行過ぎる。
だが、離れるのはもっとつらい。そんな綱渡り状態を、こよみは続けている。続けたいと思っている。

(不毛なんてわかってるけど、仕方ないじゃない。一緒にいられるだけでこんなに嬉しいんだもの)

そんな矢先の京都出張、そして“衝突”だった。
今の七海を知ることで、この感情に諦めがつく日が来るかもしれない。こよみはぼんやりとそう考えてもいた。
だが現実は、衝突しても尚、気持ちは変わらなかった。
否、現実的な距離感を突き付けられて尚、七海だけを責められないこよみ自身がいた。

自分が一方的に七海を好きなだけでは足りない。
仮に七海に嫌われても、すぐには諦められそうもない自分に気付いてしまった。
改めて向き合うと、それは厄介な感情だった。恋愛が自分一人の中では完結しないことを、まざまざと痛感した。

だから、伝えないことに決めた。
自分一人の気持ちに諦めをつけることが耐え難いだけではない。
こんな身勝手な感情に、七海を巻き込むわけにはいかないからだ。
そして、こよみが七海という人間を知る――知った気になる――につれて、この想いを告げた先の結末がバッドエンドであることへの確信が大きくなるからだ。


だが今、想像以上に、七海の中にもまたこよみという人間が大きく存在していることに、こよみは動揺していた。



(傷つけたくない、それだけでいい。その気持ちを教えてくれただけで十分なんです、七海さん!)

それはもう、既に言葉にした。だが七海は、こよみのその思いを易々と超えてきた。

(わたしは絶対に欲張らない。傍にいられるだけの今を失いたくない。だから、保留なのに……!)

これは決して言葉にできない。
それなのに、やはり今この瞬間も、七海はこよみの思い通りにはならない。
七海はこよみの言葉を促さないし、おそらく七海から何かを告げることもない。
その最良の状況の“今”を、現状維持したい。こよみは、そこまでやっと漕ぎつけたのに。

こよみは七海の次の言葉に怯えていた。そして同時に、欲しがってもいた。

「……昨日のことは、私も少々堪えました。自分が情けないのもありますが、やはり、傷つけたことを悪いと」

七海の言葉に、こよみは首を横に振って応える。

「あなたがお互い様と言ってくれたことは救いです。ですが、余計な発言で傷つけたのは私が悪いので」
「え?」
「発言の揚げ足を取ったでしょう。質問に答えていない、とか。私は大した言葉と思っていなくても、人によっては傷つく。あなたもそうだったのではないでしょうか」
「……」

こよみが小さく頷く。七海はふうと息を吐いた。

「すみませんでした」
「いいえ、……わたしも自分の悪い面に気付けて良かったです」
「自分の未熟さに嫌気が差しました。気付かせてもらったのはこちらです」
「……生意気なことを言うようですが、ご立派だと思います。やっぱり、七海さんは素敵です」

そんなこと、七海が問題と捉えなければそれだけの話だったのに。
こよみの豹変ぶりで自らの失言に気付いた上、当人に謝罪までできるのだから、やはり七海は立派な人格者だ。こよみはそう思い、にこりと微笑んだ。

(あれ、……ってことは、七海さんが“保留”にしたのはこれじゃないんだ)

笑顔の下で、こよみははたと考え至る。



『間もなく四番線に東京行きの――』

その時、新幹線のホームに響き渡ったのは駅員のアナウンスの声だ。

「あ!やっと来ますね」

こよみは重い空気を吹き飛ばすように、からりと明るい声音で言った。
七海は眼前の線路に一瞥をくれ、そうですねと呟く。直後、笑顔のこよみに視線を戻した。

「鬼怒川さん」
「はい?」
「私は今後、あなたのことをもっと知る努力をします」
「……へ?」
「なので、そのつもりで」

こよみは荷物を持って踏み出しかけた足を止め、その場で固まった。
「へ?」の形で固まった口を半開きにしたまま、目をまるくして七海の相貌を見上げている。
七海は無言のまま、その間抜けな表情を見つめ返す。
ホームに新幹線が進入し、強い風がこよみの前髪を揺らした。

「……っ」

何かに思い当たったらしいこよみが、七海の眼前で、みるみるうちに顔を真っ赤に染めた。



――その人のことを“もっと知りたい”は、好きってことだよ。

前職の同僚・小野のその声がこよみの脳内で響いた。
当然、万人がそうとは限らないだろう。
だが、今のこよみにとっては腑に落ちる表現だった。
誤解したくない、されたくない。相手を正確に理解することが、関係を前進させる第一歩ではないだろうか。
七海との誤解や衝突、そして一応の事態の解決を経て、こよみはもっと今の七海を知りたいと強く感じている。
それはこよみにとっては、すんなりと納得のいく思考回路だ。
こよみは七海のことを好きだと、明確な自覚があるのだから。

(……七海さんは、わたしを傷つけたくないと思ってくれている。だから“知りたい”んだよね……)

二人の目の前で新幹線が停車した。
新幹線の扉が開く音にかき消されぬよう、こよみはすかさず、口を開いた。

「あのっ、嬉しいです。わたしも今の七海さんのこと、もっと知りたいです……っ」

こよみは七海に向けて、精一杯の笑顔を浮かべて、言った。
そして直後、照れ隠しのように切符に印字された座席番号に視線を移したのだった。




往路と違い、大荷物がない帰路。
小ぶりなトランク二つと土産菓子の入った紙袋を、座席上部の荷物棚に載せた七海に、こよみは小さく頭を下げた。
一つ目の停車駅までの約四十分間、お互いに何も話さなかった。
こよみは胸の内でどくどくとやかましく音を立てる心臓が落ち着くまで、その半分の時間を要した。
七海が話しかけてくることがなかったのは幸いだった。こよみの視線の先では、窓の向こうに徐々に夕闇が迫っている。

名古屋駅を発車して二分後、こよみの頭が列車の揺れに合わせて揺れ始めたのに、七海が気付いた。
頑なに窓を見つめていた視線が手元に落ちている。七海が少し顔を傾けてこよみの表情を窺い見ると、その両目は閉じ合わされていた。

(寝たのか……?)

二人掛けの通路側の席で持参した文庫本を開いていた七海は、栞を挟んでそれを閉じた後、再度こよみの方を見た。
半年前の再会以降は一度も目にしたことがない、なんとも呑気な寝顔だった。
思い返せば、こよみは前日の合流から今の今まで気を張り続けていたことだろう。
ただでさえ責任感の強い性格に、百鬼夜行後初の出張。上層部も出席する報告会への参加、特級呪具の運搬。
更に言えば、七海という堅物の上司と二人きりの二日間だ。疲れが溜まるのは当然のことだろう。

七海はしばらくこよみの表情を見つめていたが、ゆるゆると窓側に傾いていく身体に気付くと、咄嗟に手を伸ばしてその肩を掴んだ。
自身の胸の前を横切る腕が七海のものだと気付いたら、こよみは仰天するだろう。しかし、こよみは起きなかった。

七海は内心でほっと息を吐くと、もう一方の手で静かに、座席の間を隔てる肘掛けを跳ね上げた。

(……どうしたものか)

七海は数秒逡巡した後、腰を浮かせてこよみの腕に触れる距離に座り直した。
こよみは列車のカーブの遠心力も手伝い、七海の肩に身体を預ける形で落ち着いた。
いよいよ、目覚めた時に悲鳴を上げそうな状況である。
七海はこよみの慌てる表情を想像し、なんとなく愉快に思った。

(……あたたかいな)

久しぶりに感じるやわらかな体温に、七海は心地良さを覚える。
耳の傍に感じる規則正しい寝息を聞きながら、七海も少し眠ろうと思い、静かに目を閉じた。
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