幻のドラゴン | 16


隣を歩くことは意外と難しいものだと、七海は感じた。
これは比喩表現でもなんでもなく、物理的な話である。

「あっ!乗り換えが楽な電車に間に合いそうです!」

朝食を終え、ホテルのチェックアウトを済ませると、こよみは片手にスマートフォンを握りしめ、一歩後ろの七海を振り返った。
こよみが七海を先導して駅のホームに向かう状況は、意図したものではなく、単純に“朝のラッシュ時なので仕方なく”という状況である。
周囲には非常に人が多い。
そして、二人は目的の電車を前倒しにすべく、少々急いでいるのだった。

呪術高専・京都校方面へ向かうバスは幸運なことに空いていたので、二人掛けの座席を前後で拝借した。
七海の前の座席で、こよみは眠そうにしていた。首がかくんと落ち着きなく傾く。


出張二日目。
京都校へ向かう道中は終始そんな調子で、七海とこよみは満足に会話も交わしていない。

「……今日の流れはそんな感じです。帰りのバスは、十五時ちょうどに出発です」

京都校の職員通用口の手前で、こよみは七海と向き合い、この日のタイムスケジュールを共有していた。
七海は「わかりました、ありがとうございます」と答えた。こよみは小さく微笑んで応える。

「十四時過ぎにはグラウンドに行けると思いますので、そこで落ち合う形で良いでしょうか」
「問題ありません」
「では、よろしくお願いします」

こよみは手にしていた手帳を閉じると、七海に一礼をした。
そしてくるりと身体を反転させ、職員室の方向へ歩き出した。
七海は数歩遅れて通用口をくぐると、本日の集合場所として指定された教室へと歩を進めた。

(なんというか、……そう、普通だ)

道中、足の下でぎしりと鳴る板張りの廊下を踏みしめながら、七海はそんなことを考えた。
普通。こよみとの間の空気であり、こよみの態度そのものが。
前日の衝突などまるで忘れてしまえるような空気を作り出しているのは、こよみの気遣いだろうか。

(立派な大人だ。こちらが頭が下がる)

次に一歩を踏み出すべきなのは自分なのだと、七海は思い知らされたような心地でいた。



* * *



「鬼怒川さん!おはようございます」
「おはようございます」

職員室の扉に手を掛ける直前、こよみの背後から二人の声が掛かった。

「おはようございます!田辺さん、吉田さん」
「昨日はありがとうございました」

吉田が元気な声で謝意を述べるのに、こよみは「いいえ!こちらこそありがとうございました」と負けずに明るい声で返す。
田辺は言及する気もない様子で、素知らぬ表情を崩さない。
吉田は慣れているのか、スルーの構えである。こよみもなんとなく、吉田の真似をすることにした。

「今日は定例会議ですね。よろしくお願いします」
「はい。といっても、昨日の報告会のおさらいみたいな内容ですし、参加するのは補助監督だけですよ」
「だからといって気を抜く理由にはなりませんよ」
「わかってますよ、田辺さん。緊張する必要はないですよ〜って話です」

緊張感を保てと伝えたい田辺と、その反対の気遣いを向ける吉田。
こよみはどちらも大事だと感じ、「そうですね。お二人ともありがとうございます」と切り返した。

「まぁ、鬼怒川さんにそんな忠告は不要ですがね」
「あっ、田辺さん、私が不真面目だって言いたいんですね?」
「補助監督にも色々な人がいるのは良いことですよ」
「遠まわしですねぇ」
「あはは。わたしは、褒めているように聞こえますよ」

すらすらと流れていく会話に、こよみはすっかり安堵していた。

前日の同時刻頃、七海と口論になり、様々な不安要素がこよみに襲い掛かった。
しかし、昨夜七海から謝罪の言葉を受け取り、“話は解りやすい。自信を失くす必要はない”とフォローもあった。
こよみが自らを省みては“自分は会話が下手なのかもしれない”という心配は、無事に払拭された。
七海との口論の原因が全て明るみに出たわけでも、解決したわけでもない。
それでも、同僚としてひとまず及第点まで修復に辿り着いたと言える。
そして何よりも、こよみは補助監督としての資質の一部を、七海に認められたと感じていた。
最初からそれが欲しかった。それは紛れもない本音だった。
七海は“完全なる修復”に向け、おそらく何か思案している。
踏み込まれるのは、こよみにとって非常に恐ろしいことだった。それでも、勇気を保ち続けると決めた。

(普通でいられる。他の皆さんとも、七海さんとも。……でも、どんな話でも受け入れる。相手が七海さんなら)

こよみには、七海を相手にする時、保ち続けると決めた一線があった。
七海の言うように、七海の出方にも非があったとしても、衝動的に言葉をぶつけたのは他でもないこよみだった。
だから謝罪をしたし、七海が許してくれないのなら次の一手を考えると決意をしていた。それでも、昨夜は七海が折れた。

こよみの世界の登場人物は、七海だけではない。
だから、あらゆる衝突に出くわした時のために、こよみは学び続け、人として成長しようとする。
そんな心を持ち続けようと努力をしたいと考える。
どんな経験も必ず糧になる。ただその時目の前にある壁に全力で対処するのみ。

人生の行き先のほんの一瞬、一時。勇気を出さねばならない時が訪れる。それがきっと今だ。

(やるだけやった。その結果が今朝だった。……だからもう、なるようになるだけ)

どれだけ決意したって、どれだけ勇気を振り絞ったって、怖いものは怖い。
それは相手が七海だから。
それは変えようのない、こよみの心の真実だった。



「なんだか、あっという間に終わっちゃいましたねえ」

こよみの隣を歩く吉田がぼやく。こよみは苦笑を向けた。

「やっぱりというか……先月の主要な事件といえば百鬼夜行ってことですね」
「確かに、人員含めた準備とか、百鬼夜行に費やしたことしか記憶にないですよね」

要するに、前日に行われた百鬼夜行事後報告会で共有した情報が全てだ、という話だった。
当然、定例会議の本意である、悪質な呪詛師や等級の高い呪霊に関する情報共有も行われたが、百鬼夜行という大事件の前では小事になってしまう。
インパクトではなく実情・本質を見抜く目が重要なのは、その場にいる誰もが承知していた。
だが実際、十二月は年末休暇を控えた時節柄、人々の心はそれほど深刻に沈む時期ではない。
非術師絡みでは、取るに足らない呪いの事件が大半を占めていたのは、高専の人間にとっては幸運なことだった。

「なのに、被害数は先月が飛び抜けて甚大。それも、呪術師の……」

高専が作成している統計資料の中には、被害者数・被害総額等の推計がある。
前年の十二月は例年に比べて甚大な数値だ。その実態は百鬼夜行における被害に集約される。
民間人――非術師の被害数は平年と比べて目立って増加したわけではない。裏返せば、呪術師が彼らの盾になった実態が浮き彫りになっている。

(夏油さんがしたかったことって、こんなことだったのかな……)

もう二度とそれを確認する術はない。
こよみは複雑な思いだった。夏油を悪人と断罪するには情報不足だ。こよみの中には、楽しい思い出しか残っていないから。
自分には夏油に対抗しうる力も、説得する言葉も思想もない。
だが、一緒に過ごした時間はこよみの中に静かに生きていることだけは事実だ。
夏油の中で、その一切がこよみの知らぬ間にとうに消えてしまったのだとしたら、少し寂しいと感じる。だが同時に、それは自分勝手な願望だとも思う。

「鬼怒川さん。少し早く終わってしまいましたし、これからどうしますか?」
「あ……ええと、そうですね、どうしましょう」
「学内をご案内することもできますし、あ、今は七海さんがグラウンドでOBに指導中では?見学します?」

吉田の明るい笑顔と声に現実に引き戻されたこよみは、吉田の提案にどう言葉を返そうかと思案する。

誰かの心に自分が存在すると強く思えることは、泣きたくなるほど幸福なことかもしれない。
こよみはよく、自らの心の中に同期の波月の存在を感じる。前職の同僚が勇気づけてくれた言葉を思い出す。
その相手が二度と会えない人でも、いつか再会する可能性がある人でも、自分にとって必要な言葉や思いが、自分自身の中に生き続ける。
全ての人が、誰かの大切な存在であることを願わずにはいられない。

「……じゃあ、連れて行っていただきたい場所があるんですが……」

こよみの申し出に、吉田は笑顔で頷いて見せた。
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