幻のドラゴン | 15


エレベーターホールの中央で、一組の男女――七海とこよみが向き合っている。
後から到着したエレベーターから複数人が降り、こよみたちの両側を通り抜け、朝食会場に向かっていく。

「……じゃあ……」

こよみの胸の中で、心臓が激しく高鳴る。
七海が「こよみに選んでほしい」と言うのなら。
答えはある程度、決まっている。勇気を出すことを決めた、今のこよみにとっては。

返事をしようと口を開きかけたその時、スマートフォンの着信音が響き渡った。

「…………」
「………………」
「……、電話ですね」
「ええ」
「…………わたしじゃないです」

スカートのポケットからスマホを取り出したこよみが、画面に視線を向けながら言う。
こよみの言葉を聞いた七海が、はぁと小さく息を吐きながら自身のスラックスのポケットに手を突っ込んだ。

「…………」

思い切り歪められたその表情を伺い見て、こよみは極めてシンプルな感想を抱いた。怖い。

「……あの七海さん。お電話、どうぞ出てください」
「……、今は、あなたとの会話の方が重要です」
「そっ……!?け、けどこの後、わたしたちにはまだたっぷり時間があるし……!」
「電話、五条さんからです」
「それって重要なのでは!?」

いつまでも画面を見下ろしたままの七海に、こよみは仰天して言葉を返す。
五条が七海に電話をする要件などこよみは知る由もないが、鳴り止まぬ着信音は非常事態ではないのだろうか。
先の七海の言葉にどぎまぎしつつ、こよみは些か冷静な声音を繕って、次の言葉を探し出す。

「わたし、先に行って席を確保しておきますから。七海さんはお電話の対応を」
「……ハァ。わかりました。すみません」

七海が渋々、自らの提案に承知したのを見て、こよみはほっとしたように胸に手を置き相好を崩す。
そしてぺこりと小さく頭を下げると、七海に背を向け朝食会場であるレストランへ足を進めた。

『もしもーし!七海、出るの遅いよ!』
「はぁ。すみません」
『ちっとも心が篭ってない謝罪だね』

受話口から届く元気な声に、七海は心労が倍になった心地がした。
視線は離れていくこよみの背中に注がれている。
レストランの入り口に立つ従業員に事情を話す横顔は、いつも顔を合わせるこよみと何ら変わらない。

「要件はなんですか。これからホテルの朝食なんですが」
『朝早くに悪いね。こっちに戻ってきてから対応してほしい案件について、伝えておこうと思ってさ』
「それ、今じゃないとまずいんですか」
『実は上層部絡みでね〜。こよみの耳に入れる必要ないし、京都校に入ってからだと都合が悪いと思って、今おまえにかけてんの』
「……手短にお願いします」

蓋を開けてみると、こよみの言う通り、そこそこ緊急性の高い案件である。
七海はスマホを左手に持ち直すと、胸ポケットからメモパッドを取り出した。メモが取りやすいよう、フロントデスク近くのソファへ足を進める。

「要件はわかりました。では、資料は当日同伴の補助監督に頼みます」
『オッケー。んじゃ、この件はよろしく』
「はい。では切ります」
『こよみとは上手くやってんの〜?』

唐突に投げられたその質問に、七海は一瞬言葉に詰まる。
それがひとつの答えであることに七海が気付いたのは、五条の笑い声を聞いた直後のことだった。

「……わざわざ質問する必要性を感じません」
『まー、おまえとこよみが“上手くやってる”ならそうだよね』
「そうは見えないと?」
『見えないよ。まぁ、仕事に支障が出てるわけでもなし、僕らみたいな部外者が気にすることじゃないけどさぁ』

“僕ら”の部分が引っ掛かるが、大方の予想はつく。七海はあえて蒸し返すことはしなかった。
七海はため息を吐きながら、返答の内容を考える。

「……私の性格はよくご存じでしょう。鬼怒川さんの相談にでも乗ってあげてはどうですか」
『七海がご機嫌かどうかで、こよみの心は少しはわかるよ』
「…………そうでしょうか」
『あれ。七海、もしかしてマジで元気ない?』

「呆れてんのかと思ったのに」と軽口を叩く五条に文句の一つでもぶつけてやりたいが、七海はそういう気分にはなれなかった。

「私もそう思っていましたよ。鬼怒川さんには……まぁ、信頼されている自覚はあるので」
『うんうん』
「ですが、今は逆です。私が機嫌良く……悩みなどなくいられれば、きっと彼女もそうなのだろう、彼女もまた気に病むことはないと、勝手に感じていましたが」

七海が一拍分黙り込む。そして続けた。

「私がなんの悩みも抱えずに前に進めている気でいられるのは、彼女が我慢しているからではないか、と」

鬼怒川こよみという一人の人間を、その心を、じっくり見つめ考えることを避けていたのではないか。
七海は前日の衝突以降、そう考えずにはいられなかった。
“こよみはもう子どもではない”という発見は、見た目や精神の話だけではない。
七海との関係性と、そこから生ずる互いの思考は、もはや七年前とは別物であると知ることだ。

『こよみはいつも明るく振る舞う。それを必要以上に疑う必要はないと思うよ。だって、“明るい自分を見せたい”っていうこよみの本音が現れてるんだから』
「…………」
『大事なのは、笑顔の裏で無理してないかな、もしそうなら助けてあげたいっていう僕らの心でしょ。七海がそんな単純なことに気付かないのも対応できないのも、僕は不思議で仕方がないよ』
「あの。五条さんあなた、畳みかけるように言いますがね」
『なんか違う?』
「逆に清々しいとさえ感じていますよ。まさか、鬼怒川さんと昨夜電話でも?」
『してないよ。妬いてんの?』

自然と舌打ちが漏れた。五条は受話口の向こう側で爆笑したのち、落ち着いた声音で再度話し始めた。

『こよみはすごく素直だし、七海は頭がいい。なのに難しいんだね。ほんと不思議。愛情はやっぱり、呪いみたいだ』
「……、鬼怒川さんを待たせているので、そろそろ切ります」
『あーうん。こよみにお詫び言っておいて』
「ええ、丁重に」
『七海』
「なんですか」
『頑張れ』
「…………、言われるまでもありません」

直後、次に五条が何か言う前にと、七海は躊躇なく通話を切った。
さっさとスマホの画面表示を消すと、ポケットに放り込んで歩を進める。
こよみを待たせているのは純然たる事実なのだから。



「あ……」

右手に箸を握りしめたこよみが、窓に面したテーブル席から七海を発見し、立ち上がって左手を振っていた。
幸運にも、レストランの入り口から視認できる位置だ。
七海は難なくこよみの姿を見つけると、足早にテーブルに歩を進めた。

「待たせてすみません」
「いいえ、わたしのほうこそ。先に頂いていました」
「構いません、……」

すとんと、椅子に腰を落としたこよみの食卓を、何とはなしに七海は見下ろす。こよみは少々気恥しそうに微笑んだ。

「京都のお漬物がたくさんあったので、和風の食卓にするつもりが、クロワッサンが食べたくなってしまって」
「いいと思いますよ」

朝食はビュッフェ形式である。好きなものを好きなだけ食べる権利がある。
七海は他人の食事にどうこう言うつもりなどない。
こよみが一足先に仕上げた食卓は、茶碗に盛られた白米、味付け海苔、冬の京都名物・千枚漬け。
おかずはひじきの煮つけに焼き鮭、厚焼き玉子。
そして、その隣にメインのおかずのような顔をして堂々と居座っているのは、小ぶりなクロワッサンである。

「あはは……よかった、言い訳する必要はなかったですね」
「……その白い漬物はなんですか?」
「千枚漬けです。かぶの酢漬けって書いてあったような」
「そうですか。私も取りに行ってきます」
「はい」

朝食ビュッフェのスタート地点に向かう七海の背を見送ると、こよみは再度食事に視線を落とす。
和洋折衷を通り越し、アンバランスな食卓を七海に見咎められず、内心ではほっと胸を撫で下ろしていた。

(七海さんは洋食が似合いそうな気がするなぁ)

数分後、こよみの正面の席に戻ってきた七海の食卓は、整然とした和風プレートだった。

「美味しそう……」
「あなたとメニューはほとんど変わりませんよ」
「七海さんは、きっと盛り付けが上手なんですね」
「……和食の小鉢のような食事は普段食べないので、せっかくなので」
「わかります。和食って、意識して摂らないとなんとなく遠ざけちゃうような」

こよみが共感し、呑気な笑顔を見せる。
正体不明の心地良さが、そこには確かに存在していた。七海はそう記憶している。
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