幻のドラゴン | 14


こよみの部屋の扉を閉めた後、七海は無心で歩を進め、隣の自室を開錠し入室した。
扉の内側で声のない息を吐き出すと、洗面台に置かれた櫛を手に取った。
こよみの宣言した十五分の猶予の間に、髪を整えようと思ったからだ。

(あの日からもう七年。彼女は、子どもではない)

七海の心に残り続ける、こよみの悲痛な声。
“いつまで十六歳のままだと思ってるんですか?いつまで決めつけてかかるんですか?”
そんなつもりはないと数度声に出したが、こよみは聞く耳を持たなかった。あれは、拒否という形でのこよみの返答なのだろう。
その声とともに心に浮かぶのは、ほんの数分前に見た、起き抜けの無防備なこよみの姿だ。
正直なところ、七海の目には七年前のあどけない印象と変わらぬ幼い姿に映った。
それでも、その胸に宿る心は確実に時を重ねていると、思い知らされた気分だった。

(……見た目でも時間でもない。私の心の話なんだろうな)

こよみに拒否される経験が、これほど堪えるとは。
最早、目を逸らし続けることはできない。

七海にとってこよみの存在は、所謂“対象外”でなくてはならなかった。

こよみを傷つけたくないという、何よりも確かな七海の本音。
遂行するためには、目を背けなくてはならない様々な思いがある。

七海以外の存在にも、こよみは傷つけられる。
それはこよみに限らず、人の輪の中で生きている人間ならば当然のことだ。
七海はその瞬間を見たくなかった。
自分自身がこよみを傷つけることよりも、自分の与り知らぬ場所で彼女が傷ついている事実が、それを知ることが耐え難かった。
その思いを捨てずとも、心の底に密かに巣食う想いは、断ち切れると信じていたのに。
七年前にこよみと“お別れ”をした瞬間に、断ち切ったというのに。

(……今は同僚。近くにいる事実は変わらない。どの道、落としどころを考え直すしかないのだろう)

何よりも「こよみに相対する自分は、今のままでは駄目だ」という警報が、七海の心を叱咤する。
たとえ今の状況が解決し、こよみと和解したとしても、いつか次の問題が二人の前に横たわるだろう。
近くにいる以上、大なり小なり何かしらのことが起こる。その時おそらく自分は再度こよみを傷つけるだろうと、七海は確信にも近い思いがあった。

こよみには、自らの考えを曲げない強さがある。
今回の口論の原因は、それを知らなかった――否、こよみが七海という人間に従順であるという決めつけをしていた――七海の失敗だ。
最もその中で、七海らしくない言動が飛び出し、こよみもまたらしくもなく冷静でいられなくなったことも事実だ。
では、「話をする時間を作る」とこよみに約束をした七海が、次にこよみと向き合う時、一体“どの気付き”を取り上げるべきか。
問題解決を図るうえで、七海はそれを考えなければならない。

「時間はいつもあるとは限らない。……どの口が言う。クソ」

結局のところ、答えも、伝え方も、七海は未だ正確に見出せていない。
こよみもまた迷っていた。だからこそ「細かい点は待ってほしい」と言い添えた。
だが、それでもこよみは七海に謝った。時間が惜しいと説いた七海よりも、こよみは先に行動した。

後悔はない。
七海にとって、自分の行動に責任を持つのは当然のことだからだ。
だからこそ、憎むべき相手は常に諸悪の根源。自身の怒りや不快の原因。

ではこよみを傷つけたのは一体何者なのか。
七海にとって、それは考えるまでもなかった。




「はっ。お!お待たせしました!」
「待っていませんよ。早いですね」

七海が自室の扉を閉めた瞬間、それに呼応するように、こよみが隣室の扉を押し開け廊下に出た。
こよみが宣言した、先の対面からきっかり十五分後の出来事だった。
こよみは昨日と同じ黒スーツ姿だった。メイクと髪型も普段と変わらない。
七海もまた、こよみの見慣れた髪型に変わっている。対呪霊用の眼鏡は外し、胸ポケットに収まっていた。

「そんなにすぐに支度できるものですか。髪とか」
「え?そうですね……わたしは毎日のことで慣れているので」

七海の視線が、感心するようにこよみの肩の上の三つ編みに注がれた。
こよみはルームキーを鍵穴に挿し込みながら、へらりと笑って答える。

「七海さんこそ、髪のセット、大変ではないですか」
「慣れです」
「じゃあ、わたしも一緒です」

こよみは七海の半歩後ろを歩いた。
七海はそれがいやに心に引っ掛かることに気付いた。
特別なことではない。よくあることだ。たとえこよみが相手でなくても。
では、初めて感じるこの違和感の正体はなんだ。
相手がこよみだから。昨日、初めてこよみが七海を遠ざけたから。

七海自身もこよみも、ずっと“隣同士”でない距離感に慣れ切っている。
何気ない会話もまた、いつも通りと言えた。
これは修復か。自分たちは、口論の前と同じ距離に立っているのか。
だが、七海はもう“元通り”では安堵できない自分に気付いていた。

「……すみません。歩くのが速かったですね」
「へっ?いえ、そんなこと」
「隣へ来てください」

こよみは七海の顔を見上げ、ぱちくりと数度目を瞬かせた。

「すみません、わたしがのろまなせいでお気遣いを……」
「それは違います。私が」

――私が望んだことだ。

たとえ口に出しても、七海自身の依頼だとしても、こよみは原因を己の至らなさに見出す。
七海はずっと、こよみが誰に対してもそうなのだと考えて疑わなかった。
だがどうやら、そうではないらしい。それは、猪野や歌姫が気付かせてくれた。

相手によって対応を変えるなど、誰だってすることだ。
だが、七海自身がそれを望んでいない。
こよみには遠慮してほしくない自分がいる。
全く気付いていないわけではなかったように思う。今はもう、その現実から目を逸らすことはできない。

「……七海さんは、わたしと一緒にいる時、いつもゆっくり歩いてくれています」
「ええ、私もそう思っていましたが」

エレベーターに乗り込み隣に並びながら、こよみはぽつりと呟く。
七海の返答の途中で、エレベーターの扉が開いた。いつものように『開』のボタンを押した状態の七海が、こよみに先に退出するように手で合図をする。

「隣に並ぶことは少ないと気付きました」

エレベーターの前で立ち止まるこよみの隣に、七海が並ぶ。
こよみの表情に、不可解そうな色が僅かに差す。

「わ……、わたしは……どうしたらいいですか?」
「あなたの速度に、私が合わせます。これまで通り、少し後ろを歩くか、隣を歩くか。好きな方を選んでください」
「…………わたしが選ぶんですか?」
「私は、あなたに選んでほしいと思っています」

こよみの視線が徐々に下降し、床に落ちる。その表情は、七海からは伺い知れない。

「わたしが選んで……いいんですか?」

震える声が尋ねる。

「はい」

明朗な声音が、質問に答えた。
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