幻のドラゴン | 13


京都校出張、二日目。
時刻は午前六時半。
こよみはホテルの部屋でスマートフォンのアラームを止め、見慣れぬ部屋の分厚いカーテンの隙間を見つめながら身体を起こした。

(う……やばい、ぎりぎりだ)

画面を下にして傍らに転がっていたスマホを手に取る。時計のアプリのアラームは十分おきに設定されているが、こよみが止めたのは最終の設定時刻である。
それでも頭が覚醒しきらないのは、昨夜うだうだと思い悩みながら布団に潜り込んだせいだろうと、すぐに思い至る。

「いかん。起きないと」

こよみは勢い良く下半身に掛かっていた布団を剥がすと、スリッパを突っ掛けて洗面台に向かった。
ヘアバンドで前髪を上げ、蛇口をひねる。愛用のルームウェアの袖を捲り上げてから、両手でぬるま湯を受けて洗顔フォームを泡立てた。
素早く洗顔を終えると、次に手に取ったのは歯ブラシと歯磨き粉だ。容赦なく落ちてくるのは緩んだ袖と重いまぶただ。

(もうほんと馬鹿。わたしの馬鹿)

夜更かし、寝坊、そして昨日の口論。思い当たる節が多過ぎて、起き抜けから反省の連続である。
高速で歯磨きを済ませ、軽く咳き込む。化粧水を手に取りながら、喉がひどく乾いていることに気付いた。
この部屋の冷蔵庫のドリンク類は有料な上、観光地価格である。
確かエレベーターの近くには自動販売機があり、比較的良心的な価格のラインナップであったことを思い出す。
こよみはヘアバンドを外して髪に櫛を通すと、鏡の中の自分の顔をじっと見つめる。
着替えより化粧より、飲み物優先。大丈夫、いける。
心の中での自分との対話は、一秒もかからずに結論が出た。こよみは寒さ対策のため、もこもこのルームウェアの上にカーディガンを羽織り、迷いなく入り口の扉を押し開けた。

廊下に出た瞬間、隣室の扉の前に立っていた人物と目が合った。七海だった。

「…………」

こよみは一気に眠気が吹き飛ぶ心地を覚え、ほとんど反射的に扉の内側に引っ込んだ。
気付いた時には、再び扉の内側に立っていた。バクバクと忙しなく動き回る心臓の鼓動だけを感じる。

(わ、わっ…わたしの馬鹿!なんて失礼なことを……!)

ノーメイク、部屋着。しっかり目が合ったのに、朝の挨拶もしていない。
否、何もかもそれ以前の話だ。こよみは冷や汗を流しながらベッドに駆け寄ると、スマホを引っ掴んだ。
電話のアプリを立ち上げ、七海に電話を掛ける。呼び出し音を聞きながら、掠れた声を少しでも整えようと咳払いを繰り返した。

『……はい』
「なっ、七海さん、おはようございます、すみません、先程は大変失礼しました」
『おはようございます。どうしてドアを閉めたんですか、呪霊でも見たような顔して』
「わああっ、そんなつもりないです、ごめんなさい。あの、起き抜けでなんの身支度もしていなかったから……!」

こよみが自らの失態を素直に認め白状する声に、七海は特に不快感も怒りも表すことはなかった。

『ところで、どこへ行こうとしていたんですか?』
「自動販売機です……」
『そうですか』

受話器の向こうから、七海の声と共に足音が聞こえてくることにこよみは気付いた。廊下を歩いているのだろうか。
こよみは焦っていた。ただでさえ予定した時刻より起床が遅れているのに、七海は電話を切る様子がない。
もともとこよみが始めた通話ではあるが、後先考えずに「とにかく失礼を謝罪しなくては」という一心でしかなかった。
引っ込みがつかない現状に、こよみはただあたふたすることしかできない。受話器の向こうの七海が言葉を続ける。

『何を買う予定でしたか』
「え?何か冷たいお茶を……」

チャリン、チャリンと小銭が投入されていく音が聞こえる。
まさか、とこよみは考える。おそらく小銭の消える先は、自動販売機だ。
続いた物音は、ペットボトルが落ちる音。こよみは恐る恐る尋ねる。

「な、七海さん、あの……」
『これから部屋に行きます。顔は見せなくて構いませんので、お茶だけ受け取ってください』
「ええええっ、いえそんな……あ、おいくらでしたか!?」
『このくらい気にしないでください。私もちょうどコーヒーを買うところだったので』
「そうだとしても……」

なんてスマートなおつかいだろう。
そんな感想を抱いている暇はない。こよみは先刻七海の前から逃げ去った服装のままだ。
しかし、通話はまだ続いている。こよみはスマホを耳に当てたまま、うろうろとその場を彷徨うことしかできなかった。
ほんの数秒後、ノックの音が直接耳に届き、こよみは盛大に声を上げた。

「ひゃっ!」
『……傷つく反応ですね。予告したでしょう』
「うう、すみません……」

こよみの悲鳴は、電話越しに七海の耳にしっかりと届いていた。
起き抜けから反省と後悔ばかりで泣きそうだ。こよみはそんな胸中を表に出すのはぐっとこらえ、もう仕方がないと顔を上げる。
何から何までこよみの自業自得で、七海は今日も親切だ。それだけのことだ。

こよみは諦め半分で扉の前に立ち、深呼吸をした後、ゆっくりと扉を押し開けた。

「おはようございます。どうぞ」

二度目の朝の挨拶の後、七海は扉の隙間からウーロン茶のペットボトルを差し出した。
こよみは萎れた表情でボトルに手を伸ばす。

「おはようございます……ありがとうございます」

少しでも七海の視界から外れたいが、これ以上失礼を重ねるわけにはいかない。
こよみは意を決して、謝意と共に頭を下げた後、控えめに七海の相貌を見上げた。

七海もこよみの顔を見下ろしていたため、自然と視線が絡み合う。
潤んだ瞳に、恥ずかしげに赤く上気した頬。
普段はきっちりと編み込まれた髪は、少々癖が残ったまま、毛先がこよみの鎖骨に纏わっている。

「……」

冷たいペットボトルを受け取る瞬間、七海の指先がこよみの手にふれた。
七海の手の硬い感触と温かさに驚く。こよみは反射的に手を引くも、何故か七海がボトルを放さない。
え、とこよみの声が漏れると、七海はハッとしたようにボトルを握る手の力を抜いた。

(うわ……)

こよみは想像以上に近い距離に動揺し、七海から視線を外し、顔ごと下に向けた。
引っこ抜いたボトルを胸に抱きしめ、こよみは半歩前に出ると、肩で扉を押さえた。
その様子を見てか、七海も空いた手で扉を支える。
七海がすぐ傍に立ち、無防備な自分を見下ろしている事実に、顔が熱くなる。

七海は普段から着用している青いワイシャツに、グレーのスラックスという見慣れた姿だった。
しかし、まだ髪を整えていない。
眉にかかる前髪と丸いフレームの眼鏡。オフモードの姿に、みるみるうちにこよみの体温が上昇する。

廊下に背を向け黙ったままの七海の背後を、若いカップルが談笑しながら通り過ぎていく声が、二人の耳に届いた。
七海とこよみは同時に我に返ると、お互いに一歩後ずさった。扉は七海が支えたままだ。

「あっ……あの、すみません……、すぐに出る支度を」

だからひとまず、ここは解散を。
そんなこよみの心の声を知ってか知らずか、七海は赤い顔のこよみから視線を逸らすと、口火を切った。

「……、鬼怒川さん。朝食、一緒に行きましょう。七時からです」
「あ……」

七海はポケットからスマートフォンを取り出し、僅かに目を見開く。

「……すみません、通話が繋がったままでした」
「えっ、あ」

こよみもまた、洗面台に置いたままのスマホの存在に思い至り、素早く手に取ると画面に視線を落とす。
七海が通話を切ったので、“通話終了”の文字が消える瞬間だった。
直後に表示されたロック画面の中央の時計の時刻は、六時五十分を示している。

「えっ、うそ!?もうこんな時間……」
「身支度が終わったら迎えに来ます。都合の良い時間に連絡をください」
「あ、じゃ、じゃあ十五分後に!」
「ゆっくりで良いですよ」
「いえっ、お待たせしたくないので」

もはや恥を捨て仕事モードに切り替わったこよみは、背筋を伸ばして七海を見つめる。
だが、目をまるくしている七海の相貌はオフモードのそれである。こよみは危うく見とれそうになり、ぐっと唇を噛んだ。

「でっ……では七海さん、後程!」
「はい。十五分後にノックします」
「承知しました」

こよみは扉の外に歩み出た七海の背中を確認すると、素早くドアノブを引いた。ガチャンとロックの音が鳴る。
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