幻のドラゴン | 12


「七海サンって、鬼怒川サンのことどう思ってんすか?」

猪野が不意に尋ねる。
正面の椅子に掛ける七海はピクリと眉間を動かして反応した。

「……は?」
「あ、七味要ります?」
「……頂きます」

無意識ながら、普段と様子の変わらない声音が飛び出したことに内心で七海は安堵していた。
木製のテーブルの端から七味唐辛子の小瓶を摘まみ上げると、猪野は七海の顔を見上げながら手渡した。
七海は小瓶の蓋を回し開けながら、目の前で蕎麦をすする猪野の頭頂部を見つめる。

「質問の意図がわかりかねます」
「え?あ、なんか明日から一緒に出張行くって聞いたんで、なんとなく気になって」
「私は気になりませんが。出張のことは誰から聞いたんですか?」
「鬼怒川サンっす。今朝、緊張で張り詰めたよーな顔してたんすよね」
「大役ですからね」

大役って?と猪野が尋ね返す。蕎麦を咀嚼しながら、七海の表情を伺い見ていた。

「百鬼夜行の事後報告会です。あれだけの事件ですし、入職三か月の彼女が出向くには大舞台ですよ」
「あー、そうっすよね……」
「……何か言いたげですね」
「や、俺なんも知らないっすけど、呪具とか、道中の段取りがどうとか、そんなこと言ってたなって」
「…………」
「失敗の余地あります?七海サンも一緒でしょ?って言ってみたけど、なんか浮かない顔してたんで」

猪野が水の入ったグラスを手に取りながら、少々心配げな顔で言う。

「責任感が強い方ですから。余計な気を回しているんでしょう」
「あー、まぁ確かに。七海サンと一緒だと俺も気合入りますし」
「彼女の場合は、私が相手でなくてもそうですよ」
「そっすかね?あの人結構行き当たりばったりなとこありません?」

七海が眼鏡の奥で目をまるくする。
再度蕎麦に手をつける猪野はそれに気付かなかった。

「……猪野くん、なめられているんじゃないですか」
「えっ、そういうこと!?」

どうやら“なくはない”と感じたらしい猪野は、「そういうことかー」と妙に合点がいったように大げさに声を上げる。
論点をずらそうと軽口を叩いた――その程度の気持ちだった七海は冗談ですよ、と小声で付け足す。

「ちょっと七海サン!……まー、鬼怒川サンと仲良くなれたってことで、別にいいんすけど」
「行き当たりばったりでも、手抜きをするとか、適当なわけではないでしょう?」
「それはそうっす。けど、生真面目かと思いきや、結構ノリが良い人だなってわかってきて」
「…………」
「七海サンの前ではキリッとしてるけど。それって、俺と同じで尊敬してるからだって気付いて、親近感湧いてます」
「そうですか」

「俺は七海サンと任務出るの楽しいし、やる気出ます。でも、鬼怒川サンは違くて、緊張の方向にいくんすね」



* * *



前日に昼食で食べたチェーン店の蕎麦の味を、七海はもう思い出せない。
だが、猪野と交わした言葉のうち、鮮明だったワードがいくつか頭にこびりついている。
思い返すと、こよみの情報ばかりだったと気付く。それも、七海が思い当たらず、猪野だけが知っている彼女の姿だ。

今、七海の目の前に立つこよみは、七海が知らない複雑な表情を浮かべている。

(……いつも自分を責める。相手の非を責めるのが苦手だから。……私は、それに慣れ切って、甘えていた)

こよみの表情は常に豊かだ。
相手の心や周囲の空気を明るくするのに有用であると判断したならば、笑顔を浮かべ、時に冗談めかしく不満を漏らす。
一方で、本音を隠し通す強さもある。故に、七海はこよみの本気の怒りや悲しさの表出を見た記憶はほとんどない。
あくまでも“ほとんど”である。学生時代のこよみの心は、今よりずっと弱かった。

こよみはもう十六歳の子どもではない。
頭では理解している。だが、違う形で表に出た。だから、こよみは傷ついた。他でもない七海の言動で。

(あなたが私に本音の一部をぶつけたことを、私はどう返せばよかったのか)

――決して、不快なだけではなかったのに。

七海は、こよみの言いたいことを聞きたいと思った。
だが、それを言葉にすることはできなかった。七海の問いかけを聞くことを、こよみが拒否したからだ。
こよみが「これが自分の本音だ」という言葉の殻で覆い隠した、その先の本音を、七海は導き出したかった。
その認識が間違っていた。
七海が「それは本音ではないだろう」と決めつけてしまったばかりに。

――もとを正せば、引き金は私だった。
ホテル側の些細なミスを、その言葉尻に突っかかって、かき回した。大人の対応をしたのは彼女だった。
らしくもない自らの言動が、彼女らしからぬ言動を誘発した。お互い様でも両成敗でもない。悪いのは、単に――。


「あなたは悪くありません」

七海のその言葉に、こよみは足元に落ちていた視線を上げる。七海と視線が交わった。

「……え?」
「私と話すことを、どうか面倒だと思わないでください。傷つけるのは本意ではないので、……私のほうこそ、すみませんでした」
「…………」

すらすらと言葉を紡ぎながら、七海は心底自身の言葉が気に食わず、奥歯を食いしばるのに似た心地でいた。
言葉は謝罪のかたちを保ち、心もそれに伴う。表情が変わらないのは、もはや長年の癖だ。
目の前のこよみに対して、誠実に対応したいのは七海の本音だ。だが、その全てを言葉にするには時間が足りない。
こよみが泣き出しそうな表情で紡いだ「時間がないなんてあんまりです」という言葉が、鋭い刀身を向けて七海自身に戻ってくる。

「面倒だなんて、とんでもないです……」

こよみがゆっくりと答える。
もしそうだとして、私が怖いのでしょう――そう言葉にしかけて、七海は閉口する。
急いて答えを出させることが、自分たちにとって遠回りになる。こよみの心に傷をつける。
七海の言葉が刃物なのではなく、七海にそれを言わせることに、こよみは傷つく。
それは、七海が傷つけていることと同義であるというのに、こよみは決してそうは捉えない。
だから気付くのに時間を要するのだと、七海はようやく気付いた。
学生時代と同じ方法では、こよみを救うことはできないと。

「必ず、改めて時間を作ります。その時は、私の話を聞いてくれますか」

こよみはまぶたに温度を感じて、咄嗟に顔を伏せた。
その行動を見て七海はまた悩む。もはや、こよみが嬉しいのか悲しいのかすら、今の自分には判断がつかない。

こよみは下を向いたまま、こくこくと二度頷いて見せた。
七海はこよみのつむじを見つめながら、つとめて穏やかに声を掛けた。

「あなたの話は筋が通っていて、解りやすい。ですから、自信を失くさないでください」
「…………」
「今朝の口論の原因は……私が捻くれた人間だったというだけです。……身体が冷えるといけないので、もう部屋に戻ってください」

こよみはもう一度、こくりと小さく頷いた。頭を下げたようにも見える。
七海がゆっくりと、ホテルの部屋の方向へ爪先を向け一歩踏み出すと、こよみは無言でその後に続いた。七海は秘かに、安堵に胸を撫で下ろした。

「おやすみなさい」

ぴたりと部屋の前で足を止め、七海は二歩後ろのこよみにそう声を掛けた。
こよみは自室のドアノブにルームキーを差し込みながら、ちらりと顔を七海のほうへ向けた。目と頬がほのかに赤い。

「はい。おやすみなさい」

こよみは素早く室内に消え、扉の閉まる音がその場に響いた。
七海は小さく息を吐き、しばらくこよみの部屋の扉を見つめた後、ルームキーを手に開錠を始めた。



* * *



入室後、こよみはベッドの前まで歩み進んだ後、はあと特大のため息を吐き出した。
ふとスリッパの存在に思考が至り、外履きのパンプスを脱ぐためにのろのろと入り口まで戻る。

振り落とそうと試みても、七海の声が頭の中に響いて消えない。

おそらく先刻七海が選び発した言葉の意図は、こよみの謝罪のそれと大差はない。
“ひとまず仕事仲間として、最悪の状況を脱すべきだ”という大人の判断。取り急ぎの建前に他ならない。
それでも、現状の二人の関係性を考えれば、少なくともこよみにとっては十分な対応だったと言える。
だが七海には、もっと深いレベルで解決したい問題があるようだ。
七海との関係性において常に自らのレベルを下に置くこよみも、さすがに察した。

自分のことなど後回しで良い。
一般社会において“陰”である呪術師の、そのまた裏方である存在――補助監督。
立場も関係性も、全てにおいて、七海にとってのこよみは、取るに足らない存在で良い。
本音は違う。七海を慕い恋をしているこよみにとっては。
だが、その本音は隠し通すと決めた。
だから、“仕事仲間”であるこよみの本音は「気遣い無用」である。本音でなくとも、これを本音とする。

(わたしの弱さが原因で、七海さんがわたしと向き合う羽目になってる……)

何度も繰り返し、そう考えては自分を叱咤してきた。
原因は全て、未熟で至らない自分にあると、こよみは必死に思い込もうとした。

だが、七海のあの言葉の、声の熱っぽさはなんだ。

表情も顔色も、平常時と寸分も変わらない。言葉はいくらでも取り繕える。
しかし、こよみはどうしても、七海の誠実さを疑うことはできない。
学生時代からの付き合いの中で、強く焦がれる感情の上で、こよみはよく知っている。
七海は他人を責める言葉を使う頻度は少ないが、それ以上に、自らの言動への後悔を口にすることはない。
事実を事実として取り扱い、そこに七海自身の感情を載せるのだ。感謝や気遣いは、相手の行動への評価から生まれる。七海は昔から、そういう人間だった。

こよみが意外に感じたのは、七海の口から『反省』の弁と、個人的な『懇願』が出たことである。

――捻くれた人間だった。
――話を聞いてくれますか。

「……調子が狂うよ…………」

ベッドに自らの身体を放り投げながら、こよみは両手で、熱く上気する顔を覆った。
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