幻のドラゴン | 11


吐きだした息が白いもやとなって、黒い空に消えてゆく。
日差しのある日中はそうでもないが、夜間の冷え込みは厳しい。
こよみは大判のストールを首元にぐるぐると巻き付け、鼻先まで覆い隠して、宿泊先であるホテルまでの道程を歩いていた。
隣を歩く七海はというと、普段通りのスーツの上にロングコートを着用し、グレーのストールを巻いている。
さっぱりと刈り上げられた襟足がストールの隙間からのぞいている。
こよみは一瞬そこに視線を向けたが、七海に気取られたくないので、すぐに正面を向いた。

(……寒そう)

こよみが羽織っている紺色のダッフルコートは、七海のコートよりも厚手に見える。
冷たい風が二人の間を吹き抜ける度に、こよみは頬を撫でる刺激に表情を歪めるが、七海は全く動じない。

「寒くはないですか」

二人きりの帰路を歩き始めてから、会話の一つもなかったというのに、不意に七海がそう切り出した。
こよみは驚きに顔を上げ、七海の相貌を見上げる。
七海はその視線に応えるように、僅かに顔をこよみのいる左側に傾けた。

「少し寒いです。七海さんは平気ですか」
「はい。厚着していますので」
「……そうですか?」
「私は、暑いほうが苦手です」
「わたしとは反対ですね」

知っている。こよみはそう思った。
七海は暑さが苦手だ。というより、寒くて文句を垂れる姿を見たことはないが、暑くて不機嫌そうにしている姿は見かけたことがある。
それは、二人が揃って高専に在学していた時の話だ。こよみは懐かしくなり、ストールの内側で僅かに頬を緩める。

それきり会話は止まってしまった。
揃わない二人分の靴音が、アスファルトの歩道に響き続ける。
隣を歩いていても、心は遠く離れているように思える。
それでも、七海は歩幅の小さなこよみを置いて、先に歩き去ることはしなかった。



ホテルのフロントの前を並んで通り過ぎ、エレベーターホールに並んで立つ。
二つ並んだエレベーターの前で、七海は相変わらず無言で無表情のままだ。
こよみも傍から見れば七海と大差のない顔をしている。だが、その心の中は穏やかではなかった。

(謝らないといけないのに、言い方がわからない……)

ストールを手の中で折り畳みながら、こよみは床の模様を凝視していた。
思考がなかなか前進しない。
七海はいつも通りだ。まるで何もなかったかのような顔をしている。
出張はあと一日ある。明日はホテルで朝食をとり、京都校へ出向き、夕方の新幹線で東京へ戻る。
別行動でも問題はないだろう。本日はそれでよかったのだから。
だが、それは問題を先延ばしにしているだけなのではないか。
もし今朝の口論が七海の中で“何もなかった”程度のことであるならば、それはそれで一つの結論であると、こよみはそう判断するしかない。
だがこよみにとっての結論は“何もなかった”ではない。“大問題”だ。

(七海さんがなんでもない顔をしているのに、わたしが蒸し返すなんて、勝手じゃないかな)

エレベーターが到着し、七海が先に乗り込んだ。
こよみははっと顔を上げて、その背を追った。ボタンと向き合うように立つ七海の表情は伺い知れない。

それでも、とこよみは思う。
エレベーターの壁の鏡の自分自身の顔を見つめる。不安に満ちた表情だった。
七海を思うのであれば、勇気を出さなければならない。
七海が自身の言葉をどう思ったかはわからない。“なんでもなかった”のかもしれない。
だが、歌姫が気付かせてくれたように、ひょっとしたら、傷つけたかもしれない。
こよみは今朝、七海との会話の中で感じる不満に関して思いを押し留められず、結果的にその丈をぶつけてしまった。

七海を動揺させ、言い分を聞かなかった。
自分の言葉の内容よりも、傷つけてしまったことを後悔している。
『話し合い』を望んでいることに嘘はない。だが、そのスタート地点に立つために、こよみには伝えるべきことがある。
もしも七海が、こよみの望むスタート地点に共に立ってくれないとしても、こよみは七海よりも先に勇気を出す必要があった。
少なくとも、現時点でこよみの出した答えがそれだった。

(着いてしまったー……)

エレベーターの『開』のボタンを押したままの七海が振り返り、こよみに先に出ろと促す。
こよみは会釈で応えると、素早く廊下に足を踏み出した。
鞄の肩紐をぎゅっと掴み、こよみは口元だけ僅かに笑みの形に整えて、七海の退出を待った。

「鬼怒川さん」

不意に名前を呼ばれ、こよみは何事かと顔を上げる。
気付いた時には七海に肩を押され、幅の狭い廊下の端に追いやられていた。

「え」

思考が急速に現実に引き戻される。
次の瞬間、こよみの額が七海のコートの肩口に当たった。耳に届くのは、賑やかを通り越して騒がしい若い男女の声だった。
七海とこよみがたった今降りたエレベーターに、大学生のグループと思しき数人が駆け込んだのだ。
エレベーターの真正面に立っていたこよみは危うく正面衝突を起こしかけ、それを察知した七海はひとまず、自身の身体でこよみを壁際に押しやったのだった。

「…………」

背中は壁に、頭は七海の胸元に。
それぞれ軽い衝撃を感じ、こよみは一瞬足をふらつかせたが、直後に七海の手がこよみの肩を支えた。
さすがの反射神経だと、こよみは頭の片隅で感じていた。
一方の七海は、こよみの頭上ではあ、と短く息を吐いていた。

危険な呪術界に身を置く二人にとって、緊迫した状況ではない。
だがこよみは、七海の安堵のため息とは全く性質の違う呼気が漏れるのを身の内から感じていた。

その性質の一つは、至近距離に想い人が立ち、身体の一部が触れ合っている現実への動揺。
もう一つは、プライベートな時間と空間の中でも気を抜かず、仕事仲間として気遣いを欠かさない七海への敬意と、同時に押し寄せた自身への呆れの感情。

――馬鹿みたいだ。
七海さんはどんな時でも、相手が誰であろうとこうするだろう。
わたしはそんな七海さんが、好きで、大好きで、何年も前からずっと尊敬している。
隣に立ちたい、そういう自分になりたい。……馬鹿みたい。本気で追いかける気なんか、ちっともない。
こんなにくだらないアクシデントでも、わたしは無力だ。
七海さんに嫌われたくなくてずっと気にして。もっと大事なことがあるって、気付いたのに。

――七海さんに恋をするために、わたしは高専にいるんじゃない。

「……鬼怒川さん。すみません、頭をぶつけましたか」

七海の視線が下に落ちる。
身長差のあるこよみが下を向いていては、その表情は伺い知れないからだ。

こよみは首を横に振って否定を示した後、顔を上げた。

直後、七海は声もなく息を呑んだ。
こよみはゆるく口を引き結び、複雑な表情を浮かべていた。
悲しさ、情けなさ、照れと苦しさ。そのどれでもなく、そのどれでもある。

「……助けてくださって、ありがとうございます、ごめんなさい……」
「……、いえ、咄嗟のことで驚かせました」

七海の身体が一歩分離れる。
七海はそのまま、こよみに向き合っていた。こよみの表情に視線を留めたまま。
こよみは最早、表情を取り繕うことも、言葉を順序だてて形成することも諦め、決意と共に、七海の顔を見上げた。

「……七海さん……」
「……はい」
「今朝のこと……すみませんでした」

こよみが頷くように、だが確信をもって、七海に礼をした。
すぐに頭を元の位置に戻すと、こよみは一拍置いてから言葉を続けた。

「あの……細かい点は、少し待ってください。謝罪だけじゃ足りないことを言ってしまったけど、まずは謝りたいです」
「…………」
「せっかくこんなに近くにいるのに、ぎくしゃくするのは嫌です」

こよみが高専に戻ってきた理由。
最初は一つだった。呪術師の心を支え守る一助になりたい。
七海への想いを断ち切ることは、その理由――目的を叶えるために必要だと思っていた。
補助監督としての責務を果たす。支えるべき呪術師は七海だけではないからだ。
だが、想いは捨てられなかった。
どんなに高尚な“理由”を並べ立てても、こよみの中の七海の存在は、それ以上に大きかった。
七海は、こよみの夢の一部になった。
想いを抱え続ける道を征く理由になった。

呪術師にとっても補助監督にとっても、明日同じように顔を合わせて、思いを伝え合える保障などない。
だから、今、できることをする。こよみはそう決めた。

「七海さんのおっしゃる通り、こうやってお話する時間が、いつでもあるとは限らないから……」

一秒でも永く、七海の心の霧を祓える存在で在るために。
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