幻のドラゴン | 09


時刻は午後九時。
酒に酔った歌姫の呂律が回らなくなった頃、彼女はぐらりと傾きかけた頭を支えることを諦めた様子で、カウンター席に突っ伏して静かに寝息を立て始めた。
歌姫は酒が好きだが、酒癖が悪い。可笑しそうにそれを教えてくれたのは、今日の出張が決まったことを知った日に会話した五条だったか。
自身は酒が一滴も飲めないくせして宴席が好きな五条のことだ、歌姫の弱みでも握った気になり、生意気な口を利く免罪符にしているのかもしれない。

こよみと歌姫のいる居酒屋は、「まだまだ夜はこれから」といった雰囲気で賑やかだ。
テーブル席では小規模な宴会も開かれている。新年会だろうか。
何はともあれ、この店内の喧騒であれば、歌姫のことはしばらく放置でも許されるだろう。
とはいえ、こよみ一人で歌姫を送り、その後ホテルに戻る算段は少々骨である。

こよみのスマートフォンが再び着信を報せることはなかった。
七海からの連絡は、あの短い電話の着信が一度きり。ということは、ホテルに帰り着き、部屋で落ち着いてしまった後かもしれない。
もしこよみが「今着信に気付きました」という体で折り返したとして、おそらく「今どこにいますか」と返されるに違いない。

(……そうだとしたら、迷惑を掛けちゃうだけだなぁ……)

歌姫の寝顔を見下ろし、こよみはため息を吐く。
だが今は、七海との関わり方そのものを見直すタイミングでもある。今朝の口論はそのトリガーの一つだったと、こよみは考えている。

こよみはいつも、七海に心配を掛けたくないと思う。
心配するかどうかを決めるのはこよみではないのに。
こよみはいつも、七海に迷惑に思われたくなくて、口を閉ざし、話をすり替える。
その結果が『答えになっていない』という七海の不服に繋がっていたというのに。

(七海さんが今ホテルにいるかどうかなんて、聞かないとわからない。もしそうなら謝ればいい。……心配してくれてるなら、感謝して、状況を報告すればいい、よね)

ドキドキと高鳴る胸を抱えたまま、こよみは自身の手の中のスマートフォンのロックを解除し、指先で電話アプリに触れた。

憶測で、勝手に答えを出すのはやめる。
決めつけるなと言った口で、決めつけているのは自分の方だ。

――だからわたしは、七海さんに向き合って、謝らなくちゃ。

履歴から七海の電話番号を呼び出すと、こよみは震える指でそこに触れた。

『七海です』

七海は、四コール目で応じた。
電話越しの落ち着いた声音に、こよみの心拍が更にスピードを増す。
だが、七海の声の向こう側には楽しそうな笑い声が聞こえる。ホテルじゃない。それを察知したこよみは、身勝手に気まずく感じていた心が軽くなるのを感じていた。

「……鬼怒川です。七海さん、お電話出られずすみませんでした」
『いえ、構いません。今はどちらにいらっしゃいますか?』

まるで自分たちの間には何事もなかったかのように、七海は平然と落ち着いた調子である。
否、きっとそれすらも、七海の気遣いの形だ。
こよみは慎重に、言葉の内容と声のトーンを選び取りながら、受話口に語り掛ける。

「歌姫さ……庵先生と食事をしているんですが、あの……」
『?』
「酔い潰れてしまいまして」

しばしの沈黙が落ちた後、七海がため息を吐いたのが聞こえた。

『わかりました。少し待ってください』

そう告げた後、七海の声がスピーカーから遠ざかる。
どうやら、誰かと一緒にいるようだ。二言、三言と会話を交わした後、七海の声が再び明朗なかたちをもって、受話器を通じてこよみの耳に届く。

『これから迎えに行きます。店の住所を送ってください』
「え?いえ、大丈夫ですよ。これからタクシーを呼んで一旦京都校へ……」
『それなんですが、今、私も飲み屋にいまして。京都校の補助監督と生徒の一部と』
「えっ……そうなんですか」
『一旦、吉田さんに代わります』

直後、七海のスマートフォンは補助監督の吉田にパスされた。愛想の良い明るい声が、こよみの緊張を一気に解す。

『お電話代わりました、吉田です!鬼怒川さん、今日はお疲れ様でした』
「吉田さん。お疲れ様です、こちらこそ、今日は色々とありがとうございました」
『早速ですけど、庵先生と一緒なんですよね。こちらは高専の車で来ているので、ピックアップしに行きます。しばらく待っててくださいね』
「そうだったんですか、助かります。ありがとうございます」
『ふふ、七海さんのご提案ですよ。じゃあ、お電話お返しします。また後で!』

「えっ」とこよみの声が零れ落ちるも、拾い上げる者はない。
次に耳に届いたのは、七海の声だった。

『そういうわけですので、店の住所の送信をお願いします』
「あっ……はい。承知しました。ありがとうございます」
『いいえ。では後ほど』

直後、露程の余韻も残さずに電話は切れた。
こよみは素早く視線を上げると、店の名前を示すものを視線で探る。

「あの、すみません。お店の名刺とかありませんか」

ちょうど視線が合った若い女性店員に尋ねると、にこりと微笑み「ありますよ!お待ちください」と気持ちの良い返事があった。
両手に抱えたジョッキをキッチンの内側に置くと、女性は素早くレジの電話の横の小さな紙片を手に取って、こよみに手渡した。

「ありがとうございます」
「いいえ!ぜひまた来てくださいね」
「はい」

女性の視線が一瞬、こよみの右肩の向こう側でカウンター席に突っ伏す歌姫に向く。

「ごめんなさい。すぐに迎えを呼びますので」
「ああ、大丈夫ですよ。ごゆっくりどうぞ」

おそらく、こういった客には慣れているのだろう。女性店員は気遣わしげな視線を向けつつも、愛想よく明るく笑って踵を返した。
こよみはというと、酔っぱらいの相手はそれほど慣れていない。
思い返すと、こよみの周囲には歌姫のようなタイプの人間は珍しい。

(そういえば、東京校の人はお酒に強いかも。家入さんはいいなぁ、七海さんと一緒に楽しくおしゃべりできて)

こよみは自らの正面の取り皿や箸をまとめると、歌姫と反対側の席に重ねて置いた。
同じ場所に生まれた空白を、使用済みのおしぼりで軽くふき取る。そこに手の中の名刺を置き、スマートフォンのカメラアプリを起動した。
表に店名、裏に住所がある。レンズ越しに《アクセス》の箇所を注視すると、こよみの宿泊先まで徒歩十分となっていた。
この店を選んでくれた歌姫に心の中で感謝しながら、この先待ち受けるのは七海と二人きり行く帰路なのだと思い至り、顔が熱くなる。

「よし。送信……っと」

メッセージアプリで七海とのやり取りの画面を表示すると、こよみは撮影した名刺の写真を送り、メッセージを付け足した。
『お疲れ様です。住所は読めますか?市営駐車場が近いようです。よろしくお願いします。』
送信した直後、七海からの『はい』という簡素なメッセージを受信した。
こよみはしばらく、その文字を無言で見つめた後、返信のためにメッセージを打ち込もうとしたが、ため息とともにスマホをカウンターに置いた。
写真で送るなど、失礼ではなかっただろうか。
ありがとうございますと書くべきだっただろうか。
普段なら、他の相手であれば迷わないような不安が、次から次へとこみ上げる。

『十分程で着きます』

テーブルの上で震えたスマホが、七海のメッセージを表示していた。

『ありがとうございます。お待ちしています。』

こよみは素早くアプリ画面を表示し、返信を飛ばした。
先の女性店員を呼び止め、会計を依頼した後、隣の席の歌姫の背中を揺すった。
歌姫の手元のジョッキの中のハイボールが、氷で薄まりほとんど透明になっていた。
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