幻のドラゴン | 08


「ね、あなた自身の話も聞かせてよ」

二人きりの宴会のスタート時点よりも半身程度近づいた距離で、歌姫がほんのり赤い顔でこよみに強請る。
突き出されたお猪口に熱燗を注ぎながら、こよみは「あ、これなみなみ注いだらまずいかも」と察した。しかし、時すでに遅し。
こよみのノンアルコールカクテルのグラスと、歌姫の手の中のお猪口がカチンと軽い音を立ててぶつかる。その拍子に、歌姫の白い指に日本酒が滴った。

「わたしの話ですか……」
「そっ。硝子の何期後輩なんだっけ?」
「四期です。だから、在学中はあまり関わっていなくて」
「じゃあ、私とは七期差か〜。今も寮に住んでる?」
「いえ、わたしは出戻りなので……前の職場から電車一本のところのアパートに」
「いいわねー。私もこっちに来る前に一度くらい、東京で一人暮らししとけばよかったわ」

話の中で自然に生まれる疑問を、お互いに尋ね合いながら会話が進む。
飾らない語り口の歌姫は、時折愚痴っぽくもなるが、なんだかんだと楽しそうだった。
そして手元のお猪口を空にする度に、自らが言い出した『こよみの話』とやらを催促した。

「いいの、私の話は。お酒飲んでる時に自分の話すると絶対に失敗するから」

そんなことを言われては興味が湧いてしまう。
それでも、歌姫の好意が、こよみの話を聞きたいという意思表示なのだろう。
どうやら歌姫には“五条”は地雷ワードのようである。この場では“夏油”もそうかもしれない。
必然的に共通の話題は“家入硝子”になるのだが、こよみの思い出の中の彼女の話は、もう出し尽くしてしまった。
次に思いつくのは、歌姫にとっても母校である、呪術高専東京校の話題だ。
寮の食事や、自動販売機のラインナップ。穏やかな校務員、当時の補助監督。
そんな毒にも薬にもならぬ話は、あっという間に底をついてしまう。
かといって、自分の中に在る当時の話題は、明るいもののほうが少ない。相槌に困る歌姫を、こよみは見たくはなかった。

「……あ。夏休みの任務で、すっごい田舎に行ったことがあるんですけど」

思い出の糸を一つひとつ手繰り寄せるように、こよみはとつとつと言葉を紡いだ。
任務先での、今となっては笑い話になるような話題は、数多くある。
急な夕立に降られたこと、お土産を電車の中に忘れたこと、朝寝坊をして補助監督に大目玉を食らったこと。
どの任務も、同期の波月と一緒に出向いたものばかりだ。鮮明に覚えているのはそのせいと言える。
そして、当時もこうして話題にして、笑顔で話したことが何度かある。
あの時話を聞いてくれたのは、七海だった。

こよみの目の前で、歌姫がふと笑い出した。

「え?」

こよみが目をまるくして歌姫を見た。
歌姫はこよみの肩を軽く叩きながら、肩を上下させながらくつくつと笑い続けていた。

「ああごめんね、あなたの話、どれも無邪気でかわいい」
「……そうですか?」
「あと、七海の登場率が高い」
「そうですか!?」

それは無意識だった。こよみの頬が急速に熱く上気する。
冷えたグラスを握っていた手を耳元に押し当てながら、こよみは思い起こす。
今しがた自分が発した言葉の内容と、学生時代の無邪気な思い出たち。

「……当時七海さんには、本当にお世話になったので」
「まぁ、わからないでもないわ。私も、同級生より五条の世代のほうが印象的だもの。悪い意味だけど」
「強かったからですか?」
「生意気だからに決まってるでしょ」

まぁ、わからないでもない。こよみは、そう口にする代わりに苦笑で応えた。
もしも五条が後輩だったら。
五条と夜蛾学長との間で交わされる気安い会話。それを普段から身近で聞いているこよみは、人の言葉の揚げ足取りをしてばかりの五条の軽口が、容易に脳内で想像できた。

「……大変そうですね」
「あっ、わかってくれる?そうよね、あなたは毎日朝礼で顔を合わせるものね」

「かわいそうに……」と言いたげな哀れみの目を向けてくる歌姫に、こよみはやはり、苦笑いで応えることしかできなかった。
ぶちぶちと五条の愚痴を零す歌姫の表情は、思い切り歪んではいるものの、どこか生き生きとしている。
こよみは丁寧に相槌を打ちながらも、正面に視線を戻し、カクテルグラスに手を伸ばす。
次の瞬間、スマホのバイブレーションの音が二人の耳に届いた。

「あれ、電話?」
「私じゃないわよ」

歌姫が自身のスマホ画面を見下ろしながらそう言うので、こよみは足元の鞄の中身を弄る。
バイブのリズムに合わせて震えるそれは、仕事用ではなくこよみの個人のスマートフォンである。
画面に表示されている名前は“七海建人”。こよみは驚きのあまり、そのまま鞄の中に滑り落ちそうになったスマホをどうにか両手で握り直した。

「う、歌姫さん。どうしよう」
「え?なに?」

椅子の上で体勢を立て直し、泣きそうな表情で歌姫の相貌を見上げるこよみ。その手元を覗き込みながら、歌姫は「出たらいいじゃない」と平然と言う。
七海がこよみに電話をする時は、九分九厘が仕事の要件である。だが、仕事の要件は仕事用のスマートフォンに掛かってくるのが常。
こよみが画面を凝視している間に、着信は途切れた。十秒程度の出来事だった。

「切れちゃった……」
「出なければ切れるでしょ。折り返したら?」
「……急ぎの要件なら、仕事用の携帯に連絡が来ます。仕事と関係ない話は、このスマホにメッセージで届きます」

今しがたの七海の連絡は、そのどちらでもない。
時刻は午後八時を少し過ぎた。ひょっとしたら、こんな時間までホテルで顔を合わせないことに違和感を覚え、所在確認の連絡を寄越したのだろうか。

『わたしのこといつまで十六歳のままだと思ってるんですか?』

こよみの中に浮かび上がったのは、こよみ自身が七海にぶつけた言葉だ。
売り言葉に買い言葉。
七海は喧嘩をふっかけてなどいないのに、こよみはまるで挑発するように、そんな言葉で対抗してしまった。
もしこよみの予想通り、七海の電話の意図がこよみへの心配や気遣いだとしたら、いつまで子ども扱いされるのだろうと、こよみは再び心に黒いもやがかかるような気持ちになる。

「ふーん。でも、個人携帯に電話してきたのね。きっと心配してるんでしょ。連絡してあげなさいよ」
「……わたし、上手く話せる自信がないです」
「じゃあ、メッセージでも入れておいたら?」
「歌姫さんは、七海さんがわたしを心配して電話してくれてるんだと思いますか?」
「……もー、慎重ね。そりゃそうでしょ。自然よ。七海にとってあなたは、一緒に出張に来てる唯一の同僚で、しかも今は夜で、女の子だもの」

こよみは、歌姫の顔を見て、ぽかんと口を開けたまま固まった。
その両手にはスマートフォンを握りしめたまま。

「……てっきり、わたしがポンコツだからかと……」
「七海のことなんだと思ってるの。私は七海のどこがそんなにすごいかわかんないわよ。呪術師としてはともかく」
「…………」
「いい?仮に心配して電話してくるとして、それは子ども扱いじゃなくて女性扱い。あなたの言う今朝の衝突が喧嘩だとしたら両成敗。胸張ってなさい」

歌姫が少々面倒くさそうにこよみを諭しながらも、その両目の奥は確かな優しさを宿していた。
それに気付いた瞬間、こよみは思い返す。自分は七海を神格化し過ぎだと、前職の同僚にも指摘された。
呪術師と補助監督という肩書に上下関係はなく、役割の違いでしかない。そうは考えない高慢な呪術師が存在するとして、七海はそうではない。
それを横に置いても、この現状で、それらは一切関係ない。七海建人と鬼怒川こよみというただの二人の男女でしかない。

「先輩は敬うべきよ。でもあなたは敬い過ぎ」

歌姫はからりと晴天の太陽のように笑ってそう言うと、ビールジョッキを手に取った。
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