幻のドラゴン | 07


「わたしってそんなに会話下手くそですか」
「第一声がそれなの?」

時刻は十九時。
こよみは十八時ちょうどに職員室に現れた歌姫に連れられ、京都駅から程近い距離の居酒屋のカウンター席にいた。
強い酒にはあまり耐性がない。
その自覚があるこよみは、乾杯ドリンクとして注文したハイボールをちびちびと飲み干した後、ウーロン茶のグラスにのんびりと口をつけた。
そして、そんな自覚などありそうもない歌姫は、本日三杯目のビールジョッキをご機嫌な表情で傾けている。

「別にそうは感じないけど」

歌姫はジョッキを置くと、顔ごとこよみのほうを向いて、不安げな瞳をまっすぐ見つめてそう言った。
それだけで、こよみの両目のふちが、わずかに潤む。

「あなた、素直で可愛いと思うけど。私とは初対面みたいなものじゃない、でもすんなり懐に入ってるよ」
「……庵先生が入れてくださってるんだと思います」
「歌姫って呼んで〜。なんか聞き慣れなくて変な感じだから」
「じゃあ、歌姫さん……」

――せっかくの飲みの席なのに、弱音ばっかり吐くかもしれません、すみません。

校門を出て、二人きりで京都駅方面行きのバスを待つ間、こよみはおもむろにそう切り出した。
歌姫は目をまるくした後、からからと軽快に笑ってこよみの肩を叩いた。彼女なりの激励のしるしとして。



「どうしてそう思うの?会話が下手なんて。誰かに指摘されたの?」

「今日の報告会で失敗でもした?」と付け加えた歌姫の表情は、穏やかで優しい色を宿していた。
気遣われている。こよみはじんと胸が痛むのを感じながら、ふるふると首を横に振る。

「報告会は問題なかったです。正直、ホッとしました。ちゃんと話せるか不安だったので」
「そう、それならよかった。じゃあ、どうしてそんなにしょげてるの?」
「……今朝。七海さんにひどいことを、言ってしまって……」
「はぁ。七海ねぇ……」

歌姫は顔を正面に向け、少々うろんな目で視線を宙に彷徨わせた。
その手元では、白い指で枝豆の皮を弄り、小皿に中身を投入している。そこに執着心はあまり感じられない。
記憶の海の中から、おぼろげな七海の情報を、脳内で検索しているかのようだった。

「学生時代の七海のことは少し覚えてるよ。ほんとに少し。クールな美少年って感じだったなぁ」
「そうですか……」
「百鬼夜行で超久しぶりに会ったけど、まあ必要事項以外は何も話さない奴だなと思ったわ。けど別に無愛想ってわけでもないわよね」

こよみは「わかります……」とぼやきにも似たいらえをしながら、まだ中身の入っている枝豆を手に取った。
歌姫は、自らの中にこよみの話を進展させる要素を見つけることは諦めた様子で、こよみの横顔に「ねえ」と声をかけた。

「七海いないし、もしすっきりするなら言ってみなさいよ」
「…………女々しい話ですけど」
「水臭いわね。女々しいのが何よ。女同士じゃない」
「……ありがとうございます」

そうと決まれば、さてどこから話したものか。こよみは頭を回転させる。
こよみには、自身が“会話が下手くそ”という自覚はなかった。
強いて言えば、七海の「いつも答えになっていない」という指摘から呼び起された、会話のパターン。おそらく悪癖であると言える。

「質問に答えていない?そう言われたの?」
「はい……」
「質問の部分を聞きたいところだけど、なんか言いたくなさそうだからいいわ」

こよみの表情を見て勝手に判断し、すっぱりとそう言い切ると、歌姫は「うーん」と唸りながら、何やら分析を始めた。

「前後の文脈は置いとくとして……一生懸命話してるのに、それは傷つくわね。答えてないのはそっちじゃない?って思う」
「……ごめんなさい、あまりちゃんと言えなくて」
「それはいいのよ。でも、いるよね、そういう人。自分が一番納得できる文脈で話してくれないと嫌がる奴」
「……質問の、わたしの答えを聞きたいから、ですよね?」
「違うわ。あなたの答えが、自分の……七海の欲しい答えじゃなかったからよ」

いつの間にか、歌姫の枝豆を弄っていた手は止まり、小皿も空になっていた。
ゆるく微笑んでこよみを見つめる視線は、気遣いというよりは、慈愛だった。
こよみは心臓がどきんと跳ねるのを感じた。
歌姫はきっと、確信をもって話を進めているわけではない。
だが、どこまでもこよみを思いやり、今だけは味方でいようと決めている。こよみは、それを直感した。

「七海は頭がいいのね。賢いから、自分の答えが正しいと思ってるし、あなたにもそう考えてほしいと思ってる」
「…………」
「でも、そういう人に限って、本当はもっと柔軟よ。きっと認めたくないのよ、あなたの答えを。どうしてかわかる?」

こよみの心臓がどきどきと高鳴る。ゆっくりと、だが確実にスピードを増す。

七海は、柔軟だ。
優しく、相手を思いやることができる。自分の世界が、その他全ての他人の世界と同じではないと、きちんと理解している。
相手を受け入れ、変化することができる。その芯はどこまでいっても善性だ。
裁かれるべきは呪いと悪意であり、迷っている人の行動や心ではない。
その心の美しさに、こよみはずっと惹かれ続けている。

「……どうしてですか?」

七海の心を、いつだって知りたいと願う。
だから縋る。
七海よりも年上で、こよみよりも深く心の痛みを知っている歌姫の唇から、次に紡がれる一つの答えに。

時折考える。どうして自分は、七海の言動にここまで揺らぐのかと。
その答えの一つは知っている。こよみが、七海に恋をしているからだ。
自分にとって都合の良い答えを七海に対して求めるのは、恋愛感情が見せるうたかたの幻であると、こよみはとうに理解している。
それなのに、こよみの目に映る七海は、時にひどく残酷だ。
甘い夢を見させてはくれない。
それが、七海との現実の距離感なのだと、こよみはつくづく感じる。

「あなたに傷ついてほしくないから。……たぶんね」
「…………」
「私の予想よ?思い通りにしたいっていうのは、本気で接してるからよ。人間関係なんて、折れる方が楽だもの」

歌姫の表情は、こよみに「心配いらないよ」と絶えず語り掛けてくるようだった。
酔いが回っているのかもしれない。それでも、こよみはその言葉を信じたいと思った。

「七海は、あなたが折れると思ってたのかもしれない。でも実際は、こうして衝突してる。案外、七海も驚いているかもね」

歌姫は頬杖をついて、へにゃりと呑気に、歯を見せて笑った。

衝突。
こよみにとって今朝の口論は、七海に対して行った、初めての反抗だった。
こよみは、七海に都合の良い答えを求める。だが、七海はそうはさせてくれない。
つい先刻、その事実に思い至ったばかりだ。こよみが七海に対して壁を感じるときは、常にそんな心境に陥ってしまう。

(七海さんが、わたしに壁なんて、感じるはずがない……、ない、けど)

今、こよみと七海を分かつものが、本当に壁であり、この胸の痛みが“衝突”によるものだとしたら。

『案外、七海も驚いているかもね』
歌姫のその声が、こよみの胸の中で繰り返し反響する。

二人を隔てる壁の向こうにいるのは、七海で。
壁、もしくはこよみ自身にぶつかったものが、やはり、七海自身なのだとしたら。

(七海さんも……もしかして、もしかしたら。“痛い”って、感じているのかなぁ……)

“七海さんに謝りたい”。
こよみが今朝、ホテルのロビーで去っていく七海の背中を見送った瞬間から、ずっと根を張り続けていたその感情。
自分自身の心のもやを晴らすためではない。
傷つけてしまったことを、謝りたい。
七海の本心は、やはり、こよみにはわからない。七海の心は、七海だけのものだからだ。

ごめんなさい。
そして、許されるなら教えてください。

――七海さんはもしかして、わたしのことを傷つけたくないと思ってくれているんですか?
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